15 掌中の玉
*
「ごっ、いやっ、ちょっと待てお前、何やそれは。何があった?」
「説明は後だ。これに湯を使わせたら産屋に向かわせる。貴方も急いで。俺と長は立ち会えんかも知れません」
「――分かった」
邸に踏み込み、双方左右に分かれる。
大陀羅が熊掌を湯殿に運び入れた時には、あまり湯は残されていなかった。刻限から見て貯め置かれていたのだろうが、産湯に使うのに回されたらしい。
大陀羅はしばし逡巡した。吐瀉物羊水出血泥まみれと、熊掌は
「若。聞こえてますか? 若?」
「うん、――うん」
応えはするが、焦点がなかなか合わない。頸を絞められたのは間違いないが、それ以外にも何かしら害を受けていたのやも知れない。ふと見ればこめかみに赤黒い痣がある。ああこれかと得心がいった。いきはしたが、結果的にその事実は良くない。
「若。しっかりして下さい。
「ん、そう、あう」
これはいかん。大陀羅は口中で独り言ちると、「溺れんで下さいよ」と、洗い場で熊掌を懐に抱えたまま手桶を掴み、
想定外の事が重なり、然しもの大陀羅も困惑が勝っている。決して冷静な状態とは言い難い。大事を取って熊掌を休ませてやりたかった。どれだけ体を痛めているか知れぬからだ。しかし今日を逃す訳には行かない。どうしても一度は産に立ち会わせねばならなかった。
婆の産の術に直接立ち会える機会は恐らくこれが最後になる。そして、己等と当事者の婆以外にこの事実を知る者はない。
今邑にいる妊婦はあと二人だが、その産の時期はまだ三月以上先の話だ。それでは間に合わない。
婆の術は八俣達がほぼ引き継いだ。しかしそれでも長年の経験に肌で触れる以上の好機はない。どうしても熊掌に見せてやりたい、見せねばならない、経験させてやりたい。それが総意だった。
――とにかく今は、時間がない。
大陀羅は眉間に皺を寄せると、腹を決めた。
手早く熊掌の着衣を解くと洗い場に投げ捨てた。そして、自らの胸に熊掌を抱えたままゆっくりと湯舟に浸かった。自身の着衣を解く余裕はなかった。
汚れた頬の泥を指先で落とす。前髪を掻き揚げる。わずかに開かれた唇が切れている。湯に浸かり体温が上がった事で喉周りの鬱血の痕が
これは、自分が育てたのだ。
この十七年、かけがえのない掌中の玉として熊掌を護って来た。それを、あの男は一度ならず二度までもその手に掛けたのだ。到底赦せるものではない。抱えた命が愛おしいほど、その憤怒が身を焦がす。
腕の中で微かに熊掌が身動ぎした。生きている。その確かな感触に安堵の吐息が漏れる。頭頂に頬を寄せてきつく肩を抱き寄せた。
――始まりは打算だった。譲れぬ理由があったからこそ、自分は熊掌の養育の権をもぎ取った。これ自身が掌中にあれば、いざ事が動いたとしてもすぐさま対処が出来る。――処分する事も容易になる。
当時の自身の思惑を思い出し、大陀羅の口の端に嗤いが浮かんだ。
何が処分だ。思惑が聞いて呆れる。今や己が最もそれを阻止しようと必死ではないか。熊掌の身を害そうとする者に対して、悪鬼の如く殺意を沸かせているではないか。
――思うようには育たぬものだ。人も、それから己自身の心も。
と、「ううん」と熊掌の唇から唸り声が漏れた。見れば朦朧とした熊掌の目に、ほんのわずか光が差している。
「
「だいだら、か」
視線が確かに合い、大陀羅はようやく安堵した。意識はある。
「はいはい、
「ここは、風呂か……?」
「目も当てられぬザマでしたからね。放り込ませてもらいましたよ。何があったか理解してますか?」
「なに、ええと、頭と頸が痛い」
「――あなたね、それじゃ五つの
熊掌の目がゆっくりと瞬きをする。ついでその視線がゆっくりと下がり自らに向く。再び瞬きをしてから、その双眸が大きく見開かれた。熊掌の目が視認したのは、湯舟の中に全裸で沈む自身の身体だった。風呂であれば当然の事だが、如何せん状況が――おかしい。
湯舟に全裸は至って普通だが、我が身を師範が抱えているのはどう考えても普通ではない。
状況を理解した途端、熊掌の血相が変わった。
「ちょっ―――――と待て、これは一体どういう状況だ⁉」
慌てた拍子に熊掌は湯舟に沈みかけた。咄嗟に大陀羅の胸襟を掴んで体勢を立て直したため頭から湯を被らずに済んだが、少し湯を飲んで噎せた。
「ああもう脱がずに正解でしたよ。こんな粗末な
噎せ込み過ぎて喉が鳴るのをひとしきり繰り返してから、熊掌は改めて混乱した。
「まて、ちょっと待て。思い出した。汐埜だ、いや、蔓斑だ」
「どっちも合ってますよ。それで盛大に汚れていたので風呂にぶち込みました」
熊掌は愕然として大陀羅を見詰める。
「何故それで、お前がそれをやる」
「何故って、適任だからでしょうが」
「適任って」
「あなた本当に記憶喪失なんですか? あなたが自分で湯が使えるようになるまで風呂に入れてやっていたのは私でしょうが?」
寧ろ、今更何を言っているのだ、と大陀羅は溜息を吐いた。
「――そ、え、そうだったか?」
「本当に覚えていないんですね。何ならあなたの産湯を使ったのも私ですよ」
そう言うや否や、大陀羅は湯からざばりと立ち上がった。
呆気にとられた顔で熊掌がこちらを見上げるのが分かったが、もうそちらへ視線を向ける事はよした。
「私はこれからあの輩の始末に行きます。熊掌、あなたはしっかり汚れを落として、身支度を整えたら産屋に入りなさい」
「大陀羅」
「なるべく急ぎなさい。いいですね」
湯舟から上がると、水をたっぷりと吸い上げた着物が大陀羅の身体にべっとりとまとわりついた。その重みが、自身の手足を絡めとる運命そのもののように感じられて――複雑だった。一歩一歩歩みを進める度に、ぼとぼとと滴は振り落とされてゆく。それもまた何かの示唆のようで、やはり複雑だった。
熊掌を置いて大陀羅が浴場から出ると、東馬の奥方――熊掌の母がそこにいた。二人分の着替えと手拭いを手にしている。眼差しは切実な物を帯びていた。
「――捕らえましたか、あの子を襲った者を」
母の勘というのは恐ろしく鋭い物だと大陀羅は少しく笑った。
「ええ。残念な事ですが、その妻が今正にその子を産もうとしている」
言いながら大陀羅はしとどに濡れた自身の着衣を剝ぎ取っていった。
「そうですか」
彼女はそっと目を伏せてから、ついと顔を上げた。
「汚れた物はそのままそこへ。後で片付けさせます。子の湯の世話、ありがとうございました。後はわたくしが引き継ぎます」
視線を床に落としたまま、大陀羅はぽつりと呟いた。
「――私を恨んでおいでか」
「何故そう思うのです」
奥は、その上半身を無尽に引き裂いた生々しい痕を見るともなく見る。そしてその傷が下肢にまで至っている事も彼女は聞き及んでいた。
「恨まれて当然だと思ってますよ。貴女から、生まれて間もないあの子を引き剝がすと決めたのは私だ」
「――そうですね」
奥は「今何を言い募っても
「あの子が生きるために、貴方達が選んだ道なのでしょう。ならばわたくしは何も申しますまい」
「――申し訳ない」
「謝るなら最初からやらないで」
思いがけず、重く深い声が謝罪を覆うように発せられた。それだけ彼女の抱えた葛藤と鬱屈は重かったのだろう。
この無骨な大男が、生まれたばかりの我が子の世話役として、その全てを一手に引き受ける。産湯を使い、婆による処置が済んだ後、初めて我が子を胸に抱くという時に、夫が発したその言葉によって、この母子は分断された。
奥は、棚に着替えを置き、手拭い一つを大陀羅に手渡した。
「獲るなら最後まで護りなさい」
その白い布を、大陀羅は静かに受け取る。
「この命、若の為に使いましょう」
奥は、泣くように笑った。
「頼みましたよ」
*
この最奥の棚は可動式になっており、その下に隠し通路への扉がある。食国はそこから現れたのだった。開け放たれたままの扉の下にはさらに深くとろりとした闇と階段がある。階段を下り切った先が仄かに明るいのは、食国がその先に明かりを灯してきたからだ。それがなければ、本来地下は完全な闇に沈む。
二人で蔓斑を運びながら、食国は「こいつでまちがいない」と
「まえにみたときは、もうすこしわかかったけど、このかおはわすれないよ」
「本当に
東馬の
「うん。こいつは、ゆうひをにくんでいたみたいだから。たぶん、とうまのことも」
「何故に」
「うらやましくて、くやしかったんじゃないかな。まあ、ほんにんにきけばいいとおもうよ」
階段を下り切った先には、一直線に伸びた隧道がある。その左右には格子が嵌められた牢が並んでいた。今は何者も繋がれていないようだ。磯のような腐敗の匂いが
東馬は、牢の一つの
「はつまいりのあと、あれがあってから、とうまは、ゆうひとぼくたちのめんかいのきかいをつくろうとしなかった」
東馬は沈黙で応えた。蔓斑の右足首に枷をはめる。牢から出て閂をかけると、食国の前に膝を突こうとした。そして食国にそれを止められ、二人の間には少しく沈黙が落ちた。
「あの時も、愚息をお救い頂き、本当にありがとうございました」
「――おおきくなった、ゆうひ」
「はい」
「ぼくよりもおおきくなった」
「――……。」
「ゆうひは、きみのやくめをうけつがない、ということ?」
東馬は、黙した。
食国はその沈黙を、東馬の本音として理解した。
「――そう」
「私には、まだ、心を定める事ができませぬ。話せば……あれは本当に己の宿業から
「きみは、ゆうひをまもりたかったんだね」
垂れ込めた沈黙の狭間に、く、と東馬が喉を鳴らす音が落ちた。
「とうまも、かみいも、あたしかも、いさふしも、みんなくるしそうだった」
上猪、新鹿、鯨伏。――父、祖父、曾祖父の名が連なる。
「くるしめているのはわかってた。でも、ずっとわからなかった。どうしておまえたちが、ぼくとかあさまをまもってくれるのか。だれもおしえてくれなかった。おまえたちも、かあさまも」
食国は、そっと両の手を合わせて目鼻を覆い、瞼を閉じた。耳の聞こえない食国にとって、視嗅覚の拒絶は外界の拒絶そのものを意味する。東馬は唇を引き結んだ。
「りゆうもわからずにまもられて、それでくるしめているのは、ぼくもくるしかった。ずっと」
吐き出された本音は、その歳月の分重い。ふう、と閉ざした瞼を開く。
「でも、それももうおわり」
「御子?」
「おまえたちからいいにくいなら、じぶんでかあさまにきく」
「しかしそれは」
「ときがきたんだよ。このままではぼくは、さらにおまえたちをくるしめることになる。ここだけじゃない。ぼくが、わがままをいって、やかんにちづるをつれていかせたから、べつのむらも」
「御子、それは」
「――ぼくがこわしたのとおなじだ。ぼくは、やくさいだ」
「違います! それは違います。御子と御母堂は、我等にとって最後の希望なのです。我等が最後にお
食国は頭を振った。
「おなじなんだ。あのひちづるをにがしたから、ごどうはからだをこわされたし、やまたにも、かぞくをうしなわせた」
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