14 蔓斑


 熊掌は己の耳が確かに、汐埜の名を叫ぶ声を捉えたと確信した。がん、がん、という固い物を叩く音が続く。熊掌は息を呑む。声と音がしたのは産屋の方からではなかった。熊掌の形相が常にはないものに歪む。野太く、酒に焼けてしゃがれた男の声だ。呂律は回っていない。それが裏門の外から声を張り上げているのだ。


 熊掌の全身の筋肉が憎悪と嫌悪で強張った。


 反射で駆け出し、足元を滑らせ、もんどり打った。肩を強かに床に打ち付けた。痛みよりも憎悪が勝り身体を突き動かす。こんな事は初めてだった。

 まろび出るように素足で駆け出でて、裏門をがんとこじ開けた。その向こうに転がる男の影が一つある。扉に張り付いてがんがんと叩扉こうひしていたものを、熊掌はそれごと弾き飛ばしたらしい。

 それが地に倒れ伏しているのを見て、熊掌はおのが全身の血が沸騰するかと思った。


蔓斑つるまだら‼」


 ここまで憎悪をめて人の名を呼んだ事がない。身の内から湧き上がる、震える程の灼熱を感じた事がない。これほどまでに、明確な憤怒をもって人を見下ろした事は――ない。

 蔓斑は、飛ばされて頭まで回したのか、ぐずぐずと唸りながらようやく上半身を起こした。明らかに泥酔している。

 そして、やおら上げたそのおもては朱の色に染まっていた。

「わ、――なんでお前がここに……」

 酒に焼けた声に、熊掌は拳を握りしめる。

「いておかしいか。ここは俺の邸だ」

 はた、と蔓斑の何某は目を細めてはしばたたかせる。未だ焦点すら定まらぬものか。熊掌は、自身の理解の埒外らちがいにある男のその様に呆れた。嫌悪で寒気が引き起こされるものだとは終ぞ知らなかった。

 頭を軽く振りながら、蔓斑は自身の額に手をやる。

「そうか……そうだよな。産屋は長の邸宅の中だ。そりゃ、いるわな」

「何をしに来たと聞いてやってもいいが、答えたところで中にはれんぞ」

 カッと蔓斑は形相を変えて立ち上がる。ふらついてたたらを踏みはしたが、それでものろのろと立ち上がった。

「気持ちよく呑んで帰ったら女房が居ねぇ。ババアに聞けば出ていったと抜かす。隣の屋をこじ開けて聞き出せば産気づいたって言うじゃねぇか。だから来たんだよォ」

 下卑た笑いを浮かべながら、唇を舐める。

「亭主の俺を入れねぇ道理があるかよぉ、ええ? お前にそんな権限でもあるってのかよぉ! 若様がよぉ!」

 怒りが頂点を越えると、ここまで頭の芯が冷える物かと、熊掌は驚いた。

「お前に言って産の流れが分かるか知らぬが、先に破水した。しかも血が混じっている」

「は⁉ なんっじゃそりゃ。俺にそんなもん分かるわけねぇだろ。餓鬼なんかすぐに出てくんだろうが! とっとと出しやがれ!」

「――子供はまだ産まれていない」

「なんでんなに時間かかっとんだ!」

「そもそも産は時間が掛かるんだよ馬鹿野郎っ‼」

 熊掌の絶叫に、一瞬蔓斑は動きを止めた。熊掌の握りしめた両拳の皺の一つ一つに、汐埜の血が滲んでいる。ぎり、と歯を食いしばると、射殺せるほどの強さで蔓斑を睨み付けて、吐き捨てるように言った。

「――汐埜は危険な状態だ。そんな汚れた身形で泥酔した者を産屋に入れる訳にはいかない」

「知るか! とっとと中に入れろや!」

 ぶつり、と頭の中で何かが切れた音がした。そんな気がした。ぎりぎりのところで耐えた物も限界が来たのだ。目の前が赤く染まり、気付けば熊掌は蔓斑の襟首を締め上げていた。渾身の力を込めて、高く高く、天に押し付けるように蔓斑の身体を持ち上げる。ばたばたと、宙に浮いた足がく。

「お前が汐埜を凌辱した事、俺が知らずにのうのうと暮らしていたとでも思っていたか? それを赦す日が来るとでも思ったか⁉」

「ぐっ、がはっ」

「挙句がこのザマか⁉」

「はっ、はなせっ」

 どさり、と蔓斑が地に落ちる。尻をつけて倒れた男を、熊掌の冷たい眼が見下ろす。

「お前が汐埜を何が何でも手に入れたいと凶行に及んだというならば、赦せずともまだその思考は分かる。だがどうだ? お前もお前の母親も、汐埜のみならずその子供の命まで危険に晒し続けた」

 蔓斑は何度も咳き込みながら熊掌をめ付ける。

「蔓斑。お前は、一体何がしたかったんだ⁉」

「ふざけやがってっ……‼」

 勢い込んだ蔓斑が立ち上がり殴り掛かった。熊掌は決してその動きに後れを取った訳ではなかった。ただ、蔓斑が倒れた手近な場所に、手頃な栗石が落ちていた事と、それを握り込んで強度を増した拳が熊掌の頭部を強かに打ち付けられたのは偶然だった。更に因を求めるならば、熊掌の目が怒りで眩んでいたからだろう。


 ――こめかみは人体の急所に当たる。


 そう知ったばかりだ、己は。眼が回り平衡感覚が失われる。気を失わずに済んだのは、辛うじてその打撃を避けようとした、その動作が取れたが故だった。

 ぐるぐると回る世界が、突如赤く染まった。頭部全体が膨れ上がったように熱くなる。熊掌は目を見開いて喉元を掻き毟った。

 蔓斑は、自身の上衣を結わえていた紐を解き、それで熊掌の首を締め上げていた。そのまま、熊掌の身体を背合わせに肩から背負い、裏門の前から離れる。

「テメェみてぇなお屋敷住まいで飄々と小奇麗にだけ生きてこれたようなやつが、俺達みてぇな塵屑ごみくずの気持ちなんてわかるかよ! あぁ⁉ 分かるワケねぇよなぁ‼」

 ずるずると引きずられながら、熊掌は視界に星が散るのを見た。こめかみに痛みが走る。どれ程引き摺られただろうか。ばたんと戸の閉まる音がして、土の上に投げ出された。ひぅと喉が息を吸い込み、咳き込む。ぎゅっとつむった瞼を開いても、そこは闇だった。いや、そこは。

 保管小屋だ。

 ずきずきとこめかみが痛む。これは何だ。この痛みはなんだ? それよりもこの暗闇、空気、ああ、これは――


 知っている。

 自分は、これと同じ事を知っている。

 あれは、あれは、そうだあれは、


 熊掌の首に手が掛けられる。土に押し付けられ、胴にまたがられ、喉元に蔓斑の指が食い込む。ああ、俺のと違って、この男の掌は大きいな。そんなどうでもいい事ばかりが脳裏をよぎる。朦朧とした意識の中、男の声が耳の底にうわんうわんと響いて届いた。


「あの時あんな邪魔が入らなきゃ確実に殺してやれたのによぉ‼」


 ああ。そうか。

 はっきりと思い出した。

 自分は前に一度、ここでこの男に殺されかけているのだ。

 あの日、初参りを無事に終えて、熊掌はここ保管小屋に向かった。大陀羅の気配は、石段を下り切った後に消えた。恐らく父に報告に行ったのだろう。熊掌はお参りの後の水垢離は屋敷内で母と行うように厳命されていたので、すぐに邸内に戻るという前提が大陀羅をそう動かせたのだ。そして、少なからず熊掌は沈んでいた。

 一人保管小屋に入り、布と下がりの品を定められた場所に置いた。戸は開け放っていた。閉めてしまえば何も見えなくなるからだ。

 達成感と敗北感で綯い交ぜになった頭は混乱していた。


 だから、小屋の中に潜み、自分を狙い撃ちにしようとしていた殺意を拾いそびれたのだ。


 急にばたんという音と共に全てが完全な闇に沈んだ。はっとして振り返ったが、すでに何も見えない。おろおろと辺りを見回していると、急に空気が動いた。次の瞬間、熊掌は、戸の影に隠れていた十五・六の少年に縄で首を締め上げられていた。無論その時はその事実を知覚しようもなかった。

 闇の中、眼には何も写せず、声も出せず抵抗もしようがなかった。

 宙を掻く己の指先の虚しさに、無力と絶望を知った。ただただ苦しくて悲しかった。闇の中で、死ね、死ね、おまえなんかしんじまえ、ぜんぶぜんぶおまえがわるい、おまえがずるい、しねしねしね、繰り返し紡がれる呪詛の言葉に、ああ、自分はそんなに人から憎まれているのかと、がっかりしたのだ。

 解放されたのは、突然の事だった。

 どお、と自分の身体と、自分の首を締め上げていた者の身体が土の上に投げ出された。

 薄闇の中に、ぼんやりと仄明るい影が浮かんでいたのを見て、そのまま意識を手放したのだった。

 ああ、今更にこんな事を思い出すなんてな……。

 滑稽だった。脳が膨れ上がり破裂しそうな中で、こんな事を思い出しても仕方がなかろうに。

 そうだ、あの時音がしたのだ。きぃ、と何かが軋むような、そう、まさに今聞いたような音が……。

 薄暗い闇の中、壁の一部が動いたように見えた。いや、動いている。奥の、棚だ。棚がきぃと、その奥に、薄ぼんやりと明るい人影が、

(――だ、れだ?)

 その影がこちらに飛んだ。ふわりと舞い上がったように見えた。

 次の刹那、影は中空に飛び上がり、蔓斑の後頭部に重い蹴りが一撃入った。蔓斑は弾き飛ばされて壁に激突し、一度呻いてからがくり、と落ちた。蔓斑が飛ぶ勢いに巻き込まれて、熊掌も土の上で転がる。ああ、これでは昔と同じではないか。そんな事を悠長にも思った。

 首を絞めていた指は離れたが、引き摺るのに使われた紐はまだ首に絡みついている。喉に食い込んだ紐に、うまく手がかからず解けない。指先が震えているのだ。するりとそれがほどかれた。自分の傍に仄明るい影が膝を付き、首から紐を解いてくれていた。

「だいじょうぶか? いき、できる?」

 思いの外優しい少年の声に、応えようとして息を吸い込み、盛大に噎せた。胃液がせり上がろうとしていたが、なんとか堪えた。外で自分を呼ぶ声がする。大陀羅と、父の声だ。

 ばたんと戸が開く。少年の影が立ち上がり、その向こうに父と大陀羅の顔が見えた。

「み、御子! どうしてここに⁉」

 父の顔色が変わる。少年の顔を見据えて動かない。

「熊掌っ!」

 父より先に熊掌を助け起こしたのは大陀羅だった。

「だい、だら……どうして、ここが、わかった」

「血痕を追ってきたんですよ。全く、何が幸いするかわかったもんじゃないな……」

 大陀羅は盛大な吐息を落とした。常になく青褪めた顔をしている。見れば、この身を抱えている大陀羅の腕も小刻みに震えている。心配をかけて済まないと言いたかったが、言葉にならなかった。

 父は熊掌の目に光があるのを見て安堵の吐息を漏らした後、壁の前に転がっている男を見、それが今正に産気づいている娘の夫であると理解して眉間を険しくした。

「一体、何がどうなっている……?」

 呆然とした父を前に、少年はちらと蔓斑へと視線を落とした。それは酷く冷たく、蔑視に満ち満ちていた。

「ゆうひがおそわれていた」

「――まさか」

「こいつ。じゅうにねんまえに、ゆうひをころそうとしたのとおなじやつだ」

 すいと蔓斑を指さして、少年――食国おすくには言った。



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