13 破水


          *


 大陀羅邸で半刻程汗を流した後、帰邸して湯浴みをしたらそのまま寝付いてしまい、気付けば夕刻を過ぎていた。小腹が空いたのでくりやに行くと母はいなかった。商人の夕餉の差配をしているというので、握り飯を一つこしらえてもらい、その場で腹に収めて書庫に入った。その日は、やけに蒸し暑かった。

 ぽたり、と汗が一滴、顎から本の上に滴り落ちた。慌てて手首で拭う。そこでようやく辺りがもうすっかり暗くなっていた事に気付いた。うっかり座り込んで読み耽ってしまった。

 脈打つこめかみをほぐして立ち上がる。こめかみも人体急所になるとは知らなかった。知らぬというのは本当に恐ろしい事だ。


「――おや」


 背後から声が届き、熊掌が首を巡らせると、そこには婆がいた。婆、と皆から言われているが、歴とした名がある。りょじゃくという。

「こんなところで……珍しいな、雀女士」

「そうですかな? 若がここに居る事の方が、婆には珍しく思えますが」

「そう言った意味ではない。貴女と鉢合わせる事がついぞないと思っての事だ」

「分かっておりますよ、貴方は長や儂に行き会うのがお嫌で、いつも本を持って自室に引っ込んでしまわれるからの。お陰でここのところ探していた本が見当たらずに難儀しましたぞ」

 熊掌はそっと視線を下げた。心の臓が嫌な跳ね方をする。雀はもう、自身が識字者である事を隠そうともしていない。これまでは巧妙にこの手の話題は逸らしてきていたはずだ。


 流れが変わる。そんな予感があった。


 彼女は敷地内の離れに部屋を与えられている。村の出産は全て彼女が起居するその産屋で行われ、七日を過ぎて母子が健康と判断され、帰宅を許されるまではそこに暮らす事となっていた。

 雀は熊掌の隣を過ぎり、書架の前に立った。

 熊掌が生まれるはるか以前から雀はこの邸に住んでいたが、これまで邸内で顔を合わせる事はほとんどなかった。意図的であった、と言ってもいい。

「それは……申し訳ない事をしたな」

「構いはしませぬよ。婆の頭には入っておりますからな」

「では、もう本は必要ないのでは?」

 少なからず揶揄やゆを含ませたのは、先のやり取りの意趣返しでもあった。婆はよっこいせと本を掻き分け、二冊ほどを選び手に取る。

「儂にはな」

 一冊をぽん、と熊掌の掌に置く。

「そろそろ頃合いじゃろうの」

「何がですか? これは?」

「目を通しておおきなされ。今宵は大き星が一際青い。産が動きやすい」

 熊掌は、は、と瞬きを繰り返した。

「それは汐埜の?」

 雀は「然り」と首肯した。

「若ももう十七。それに引き換え婆はもう「西」に入る頃合いじゃ。いい加減、若にもさんすべを身に着けてもらわねばならぬ。蔓斑つるまだらの産には、若にも立ち会うてもらう」

 「西」に入る、は、村内では死を意味して使われる事がある。勿論、「西の端」に移れば村において人としての扱いが終わるという意味がかかっている。厭な気がして熊掌は眉間に皺を寄せた。

「雀女士。私が産屋に入るなど、父は承知なのか?」

「承知も何も、儂が決めればそれが決まりじゃ」

 雀は、そも深い皺が刻まれた眉間に、さらに皺を刻む。

「じゃというに、あの馬鹿者はずるずるとお主を産から遠ざけおってからに……益体もない足掻きをしよる」

 馬鹿者、というのは文脈からして父の事だろうと察しがついた。熊掌には分からなくなった。父と婆の力関係は、どう聞いても知られるそれからは逸脱している。

「これはお主の父の分じゃ」

 ぽん、と手にしていたもう一冊を婆は軽く叩く。

「父の?」

「若も長も、儂から見れば大して変わらぬ。お主の父も、いつまでたっても命の取り上げに震えよる」

 呵々と笑い、もう一冊を手に書庫を出てこうとする。

「雀女士!」

 慌てて呼び止める。

「なんじゃ」

「どうし――何故、汐埜の産からなのです」

 思わず拳を握りしめる。

「我が家が産を束ねてきたと言うならば、無論その任に就きましょう。それについては異論も不満もありません。私は私の責務を果たす。しかし、何故それが……」

「星まわりじゃ」

 事も無げに雀は言い放つ。

「時が満ちたのが今で、今必要だからお主に始めさせる。その時に居合わせた産婦が汐埜じゃった。ただそれだけじゃ」

 熊掌は唇を咬んだ。

「それはあまりにも無体が過ぎる」

 熊掌と汐埜の事の顛末は、無論村内に知らぬ者などない。いや、幼い子等には伏せられていようが、雀の知らぬはずがない。

「若が苦しもうが足掻こうが、子が生まれ来るのに蓋をする術はない。それに――」

 雀はそこまで口にしてから、「否、そうじゃな」と一つかぶりを振った。

「敢えて、と言っても良いかも知れぬな」

「雀……?」

「若の子を汐埜に産ませてやれなんだ以上、せめて若に汐埜の子を取り上げるくらいはさせてやっても良かろうと、な」

「婆‼」

 頭髪が逆立つ程の全身を巡る羞恥と怒りに、熊掌は大声を上げる事を禁じえなかった。が、雀は冴え冴えとした目の光を熊掌に投げかけ、こう断じた。



「若は、生涯自身の子を持つ事はない」



 息を――吞んだ。熊掌の両肩から力が抜け落ち、手渡された本を思わず取り落とす。背後からざわざわと寒気が這い上がる。

「――何故、そう言い切れる」

「人には、それぞれ持って生まれた宿業というものがある。婆めにも、それはあります。若にも、あるということです」

 ゆったりと歩み寄った雀は、本を拾い上げ、熊掌の手に戻した。掌に戻された本に、熊掌は愕然と目を落とす。あたかも他に視線をやる物などないかのように、一途に。

「婆は、若の命と共に、若の宿業を取り上げたのじゃと思うておる。それは誰にも肩代わりが利かん。若の宿業は、若にしか生きられぬ」

 本を手にした熊掌の掌を、婆の両掌がぎゅうと覆う。

「若は、村の子の親におなりなさい。たくさんの子を取り上げ、その親として導きなされ。それに必要な物の全ては、婆共が授けよう程に」


          *


 呆然と、受け取った本を手に自室に戻る。視線は文字を追ったが努力は虚しく、目に入るものは全て上滑りして一向に意味を理解する事が叶わなかった。婆の言葉が意味した事も、これから間もなく自身に訪れる、今後成してゆかねばならぬ仕事も、全てがあまりにむごたらしく、容易たやす熊掌ゆうひの心を踏みつけ砕いた。

 邸内が騒がしくなったのは、そんな絶望に浸るに飽いた頃合いだった。

 表門の方ではなく裏の方で女達の騒ぐ声がする。その中に汐埜しおの、という音を聞いて、熊掌は立ち上がった。動転していたのだろう、慌てた為に椅子が倒れた。

 裏口に走ると、果たしてそこには胎を抱えた汐埜がいた。傍に付いてその体を支えていたのは、夫でも姑でもなく、汐埜の実姉だった。汐埜は実父母をうに亡くしている。係累は、他にこの姉家族くらいしかない。

「汐埜!」

 駆け寄ると姉が顔を上げる。汐埜自身は額に脂汗を留めて、ただただ唸り声を堪えていた。姉の表情に厭な物が混じる。そこには、熊掌に対する複雑な恨みがあるのが見て取れた。熊掌がもっと早く腹を括ってくれていれば、と。これまでも彼女からそんな視線を幾度となく浴びた。この八か月で馴染んだ恨みの目だ。

「若。婆と長は」

 姉の問いかけと同じ頃に、奥から父と婆が駆けてきた。

「汐埜か。いまどれ程だ」

「夕刻から痛み出していたみたいですが、無理して耐えていたら今になって。蔓斑の――これの夫は不在で、姑も体調が悪いと床に就いたまま起き出してくれなかったと、ついさっきうちまで歩いて来まして……」

「馬鹿な‼」

 叫んだのは熊掌だった。

「熊掌! 汐埜を産屋に運べ!」

 父の声に慌てて頷き、汐埜の身体を抱え上げた。胎を潰さぬように細心の注意を払って縦に抱える。こんな時、自身の人並外れた腕力が如何いかにありがたいかを痛感する。小さな女だ。これなら俺ならいくらでも抱えていてやれると言うのに。

 途端、ばたばた、と何かが零れ落ちる音がした。脚の方を抱えた左腕が温かく濡れてゆく。足元がぬるりとした。熊掌の全身が恐怖としか名状し得ないもので総毛立つ。鮮血の赤が辺りを染めつくす。

「ち、ちちうえ、父上!」

「まずい。破水が先か」

 父が眉間に皺を寄せてこぼす。雀が首肯して見せる。

「確かに汐埜の胎は異様に大きかった。多胎を疑うたが、羊水過多のほうじゃな。出血を伴うなら胎盤も危うい。少し急ぐぞ」

「汐埜! しおのしっかりして!」

 姉の悲痛な声に「慌てるな」と雀が隣から一括する。

「夕刻からなら産が進んでいたんじゃろ。これの母も、お前も産の進みが早かった。東馬! 奥に言ってくりやで沸かしておる湯を運ばせろ。産屋でやっていたのでは間に合わぬかも知れん」

「わかった」

 産屋にく熊掌の肩に突如激痛が走る。見れば汐埜の指がそこに食い込んでいた。思いも寄らぬ鋭い痛みに、熊掌は面食らい戸惑う。

「汐埜」

「こども」

「ああ」

「子供を、どうか、こどもは、たすけ」

「何言ってるんだ。子供は勿論無事に産まれるし、汐埜も何の問題もない!」

「わか……っ」

「俺が助けるんじゃないんだよ! 婆が何とかしてくれるんでもない! 汐埜が自分でがんばって産むんだよ!」

 ぐうっ、と汐埜は熊掌の胸で嘔吐した。痛みが引き起こしたのだろう。

「こらえるなよ! 全部吐け! 口に残したら喉に詰まる!」

 げふ、げふ、と吐瀉物が熊掌の胸元を温める。熊掌の胸の内を様々な物が去来し、締め付けた。こんなに苦しむものなのか。人を一人産むというのはここまで壮絶な物なのか。

 回廊を曲がり産屋の内に敷かれていたしとねに汐埜を下ろす。傍にそのまま付こうとしたところで父に制された。

「自分のなりを見なさい。水を浴びて衣を改める時間はある」

 その言葉に、己の状態を見回す。父の指摘通り、吐瀉物と羊水と鮮血を全身に浴びた状態で、そこに居続けるのは障りがあるだろう。

「急がずとも良い、まだ産道は開ききっておらぬ。本陣痛までにはまだ間がある。破水が先に来てしまったからな、穢れを持ち込む方が危険じゃ」

 汐埜の足元から婆が声を上げる。開脚されているのを見て思わず熊掌は眼を逸らした。この期に及んでまだ戸惑いが勝る己に羞恥以上の落胆を覚える。

 じゃばじゃばと威勢のよい水音が響く。婆が土間の隅に移り、胸と腕に酒を浴びていた。酒精で消毒をしているのだ、と理解する。ああそうだ、さっき眺めるばかりで意味をかいせないとばかり思っていた本に書いてあった、あったのだ。

 熊掌は、汐埜の唸り声を背に産屋から離れた。回廊を急ぎ足で歩む。まだ回廊は、滴り落ちた羊水の赤に濡らされている。

 回廊を渡り切り、さっき汐埜を抱え上げた裏門の傍を抜けて、さらにその先へと進めば湯殿がある。そこを目指して進んだ。人手は全て産屋に集められているようで、辺りにはもう誰もいなかった。

 しんと静まり返っていた。


 その瞬間までは。



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