11 八ヵ月前の事

          *


 邸内には書庫がある。

 村長である父の自室の隣にそれは設置されており、父と熊掌、長鳴以外の者の入出は硬く禁じられていた。邸内のみならず村中が静まり返った子の刻、熊掌は一人書庫に立ち入った。

 手燭に立てた蝋一本。じり、と揺れる。書庫内は、他はとろりとした闇に濡れていた。

 本の表を炎でゆらゆらと撫でながら、目的のものを指先で探し当てる。

 引き当てたのは、一冊の医学書だった。

 先日の大陀羅に言われた事は、業腹ごうはらではあるが自身の未熟の核心を射ていたので、以来人体に関する書物を片端から読み込んだ。大きく力を振るわずに人間の動きを止めたいなら、人体の急所を把握する事が最善だろう。それを知るのは同時に内部に対する知識をも取り込む事に繋がった。大陀羅の指摘がなければ、自分は人体の中のどこにどんな機能を持つ臓物があるのか知る事などなかったろう。

 書庫の書籍は主に医学本草学に関わる物だった。次いで辞書の類、文学、それから菜類の育て方、狩猟の指南書等、つまりは生活における知の集積がそこにはあった。

 恐らく父と薬師と、それから婆が主に目を通しているのだろうが、図が多く理解が容易いものも多かった。

 婆は屋敷の中に一室を得ているが、これは彼女が産婆だからである。この村で子が生まれる時は、皆一様に村長邸の婆の部屋を使う。父からは明言されていないが、恐らく婆も識字の者だろう。


 村の子供は全て、この村長の邸内で生まれるのだ。


 目当ての一冊を手に書庫から出る。自室に引き取ってから扉を閉め卓子に向かう。深い呼吸を一つしてから、頁をめくり、目を逸らし続けてきた事を確認してゆく。眉間に皺が寄る。

 女が腹に子を宿してから、つわりなどの諸症状が出るまでにかかる時間はおよそ一月。産が多く動くのはそこから七月程とみる。汐埜の出産も間違いなく間もなくの事だろう。

 八ヵ月前。

 はるか遠い事のように思えるが、実際はそれ程の過去でもない。

 寒い時期だった。呑気に夜の散策をしていると、夜闇の中から名を呼ばれた。汐埜しおのだった。湯あみも終えて、寝床に就く前の様子だったので、手を挙げて立ち去ろうとしたら付いてきた。風邪をひいてはいけないから帰るように諭したが、お供しますと言って笑った。仕方がないなと、己は笑ってそれを受け入れた。

 何かがあっても、どうせ後から大陀羅が付いてきている。そんな気安さもあった。

 ささやかな森の中に分け入ると、小さな沼がある。まだ凍る程ではなかったが冷気は漂っていた。

「若は、どうお考えなのですか?」

 普段とは違う、小さな消え入りそうな声で問う汐埜に、熊掌はしばらく答えなかった。互いに婚姻の話が村の中でそれとなく流れている事には気付いていた。

「汐埜は――どうなんだい」

「若、質問に質問で返すのはずるいです」

 汐埜は苦笑した。熊掌も自分のずるさは承知していた。しかし、拭い去れぬ逡巡があった。

「汐埜は、僕は、相応しいと思うかい?」

「若?」

「僕は……」

「若は素晴らしいお方です。誰もが若が次代の村長になる事を疑っておりませんし、それを望んでいます」

 先とは違い、汐埜は強い言葉でそう言った。熊掌は淋しい笑いを浮かべて、「ありがとう」と結んだ。そして、

「すまない。お前にはなんの非もないんだ。僕はまだ、自分自身がさいを持てるような人物だとは想像しにくい、んだ」

 ふり絞る様な小声で熊掌は言った。言葉にできるのはそれが限界だった。本当はそうではなかった。汐埜、僕は、僕なんかが君を妻に迎えて本当に良いのだろうか? 僕は、自分が君を幸せに出来るとは到底思えないんだよ。こんないつわりばかりの自分が。そう言いたかった。言ってしまいたかった。しかし、どうしても言葉にする事ができなかった。初参りの事に口を閉ざしたのと同じに、この時も口にすべき事を出さなかった。自分はいつもそうなのだ。

 隠し事がある時、自分は、核心から他者の目を逸らすために、他者の解釈をあざむけるように、そっと嘘ではない、事実の外殻をなぞった部分しか言葉にしない悪癖がある。

 そうやって、相手の誤解を誘い、その誤解の肯定は積極的にはせずに、ただ困ったように笑う。――卑怯なのだ。

 汐埜はしばらく熊掌の隣に座っていたが、ふうわりと笑って「戻ります」と立ち上がった。送ろうと一緒に立ち上がりかけた熊掌を静止して、一人で戻れますと固辞した。実際、沼から汐埜の家までは左程の距離があるものではなかった。

 普段なら大陀羅にそっと指示を出して、無事に家に帰りつくまで見届けさせていた。しかしその日は、その日だけは、熊掌の心はどうしようもない程に折れていた。

 苦しかった。どうしようもなくいきどおろしかった。沼の淵で、熊掌は頭を抱えて声もなく泣いた。いつの間にか傍に大陀羅が立っていた。分かってはいても顔を上げられなかった。大陀羅が熊掌の肩を抱く。漏れる嗚咽を必死で噛み殺すしかなかった。

 その翌日からの事を熊掌はあまり覚えていない。

 父から厳命され、邸内から出る事を禁じられた。村の内にざわつきがある事は肌の震えに伝わった。それは言葉にはならない潮騒のようなもので、邸内に留まっていようと、手伝いの女達の視線や仕草のさざめきが伝わった。細かな針の束が自分の肌を撫でているようにすら思えた。

 軟禁に近い状態が二月は続いた。

 その間、そういえば大陀羅の顔をあまり見なかったなと今更気付く。

 ようやく邸から出る事を許された熊掌が父から聞かされたのは、汐埜との縁談はなくなった、という事だった。汐埜はすでに村の男の元に嫁いでいた。十以上も年長の、蔓斑つるまだらの何某という男だった。

 「ふぅ」と苦い吐息を落とす。

 本を閉じて、あの日のように熊掌は頭を抱えた。あの日あの時、自分が己を憐れんでなどおらずに汐埜を家まで送り届けていたら、大陀羅を行かせていたら、こうはならなかったはずだ。何度計算し直したところで、疑いは確信に変わるばかりだ。自分と生きれば彼女を不幸にすると思った。だが、今汐埜が置かれている状況は、かつて自分が想像した、彼女に相応しいはずの幸福な彼女の人生だとは到底思えなかった。

 脚が悪いとはいえ、あそこの姑も汐埜が嫁ぐまではお参りに上がっていた。寧ろ動かぬ息子の代わりを請け負っていた程だった。

 自分が軟禁を受けていたのは、あの日彼女と自分が共に夜歩きをしていたのを見た者が何人かいたためで、あの夜の汐埜が帰路の途中で受けた暴行の咎人が自分ではないかという疑いが、明確には晴れていなかったからだ。汐埜はずっと、熊掌がやった事ではないと証言してくれていた。それでも熊掌に対する疑いは一月は続いた。そして一月が過ぎた頃に汐埜が倒れた。薬師の診断で、汐埜の胎にややがいる事が判明し、すぐに蔓斑つるまだらが泥酔して自分が父親だと名乗り出た。そこから汐埜が蔓斑つるまだらの家に入るまではすぐだった。

 汐埜が――どんな顔で、どんな思いをして嫁いでいったのかは、わからない。その時自分は邸内で未だ軟禁を解かれていなかったからだ。しかし二月の後にはすでに誰もその件について口を開く事はなくなっていた。父から何かしらのふれがあったのは間違いないだろう。しかし、事の成り行きが成り行きだけに、村から蔓斑つるまだらの戸へ注がれる目は厳しく、針の筵であったに違いない。姑の憎しみが汐埜に向いたとしても、一向に不思議ではなかった。近隣にいれば、汐埜が姑と夫から罵声を浴びせられているのが聞こえてくる。半年も過ぎる頃には、蔓斑つるまだらはその班からも遠巻きにされるようになっていた。何とかならぬかと父にも言った。父は、お前が口を出せる事ではないと、沈黙する以外の術を熊掌から奪った。

 己のせいだ。全て自分が引き起こした。

 悔やまれる事ばかりが降り積もり、熊掌の人生を雪のように覆っていく。夜の闇は、静かに首筋から背中へと滑り落ちて、やがて熊掌を茫洋とした無力の谷へと引きずり降ろしてゆく。

 まんじりともせず気付けば朝を迎えていた。こめかみの疼痛はすでに日々の物となり果てている。顔を洗い邸の裏口から出る。若と呼ばれ、嫡子と言われ、だから何だと言うのか。己はあまりに物を知らず、無力で愚かだ。そして村に対しての不信ばかりが募ってゆく。

 早朝の涼やかな風に髪がなびく。

 邸を出てすぐに道祖神と思しき石に出くわす。その表にそっと手を這わせる。これは、何時触れてもひやりと冷たい。無性に何かを打ちのめしたくて、そしてそれは己を打ちのめしたいという思いの裏返しで、熊掌は大陀羅を求めた。思い切り打てるのも、思い切り打たれる手応えが得られるのも、熊掌にとっては大陀羅一人しかいないのだ。


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