10 熊掌の秘密、父達の秘匿


 大陀羅の背を見送ってのち、熊掌はしばらくその場で立ち尽くしていた。鈍いふさぎが喉元を撫でているような気がした。

 葉月の日差しがじりじりと頭頂を焼いてくる。河の傍だというのに、身体の火照りが全く収まらなかった。

 辺りに人が見当たらない事を確認してから、河の水に手拭いをひたし、きつくしぼってから軽く露出部の汗を拭いた。しかし、拭いたそばから汗はしたたり落ちてくる。吐息を零して、その手拭いを頭から被り、手頃な岩に腰を下ろした。

 一人ぼうと水の流れてゆくのを眺めながら汗が引くのを待った。こぽこぽと音を立てるせせらぎが耳に心地よかった。

 大陀羅の言う事はもっともだった。誰かが疑わしいと勘付いたところで、自分にはそこに探りを入れたり口を割らせる為の手管てくだがない。その事実を受け入れられない程愚かではないつもりだ。

 己は何を知っていて、何を知らないのか。

 それを確認し、見極め、事実を受け入れる事から、一つずつを積み上げていくしかない。

 石垣も、一つ一つを確実に積まねば、何かの拍子に容易たやすく瓦解する。だから決していい加減にしてはならないのだ。いて積み上げ損ねた石こそが、己の足元をすくうのだから。


 じっと、流れてゆく水に目を凝らす。


 ――この村と己とは、本当は如何いかな形で繋がっているのだろうか? 

 思えば、常に村人達からは一定の距離がある場所にいた気がする。

 幼い時分は、常に父か大陀羅が傍にいた。弟たちを除き、同世代の子供達と親しく接した記憶も殆どない。寧ろ当の父と大陀羅によって他から遠ざけられていた嫌いがある。

 母とは――幼少期に共にあった記憶がない。二歳下の長鳴ながなきの世話があったがためかと思っていたが、実際のところは定かではない。ただ、己の姿を母がその視界に入れる度に、その表情がすっと曇る事には早々に気付いていた。長鳴には向けられている日向ひなたのような温かい笑顔が、自分には向けられた事がない。それは今でもそうだ。

 嫌悪ではない、のだろう。必要な世話は今でも請け負ってくれている。では後嗣としての未熟を嘆かれているのだろうか? それもまた少し違う気がする。

 距離を置かれている、というのが主観としては一番近い。

 もしくは居たたまれない、と思わせているのかも知れない。思い当たる節がある分、余計にそう感じるのかも知れぬ。

 ――しつこい気塞ぎが、再びの溜息を誘った。

 生まれて初めて髪を切ったのは五歳の誕生日の七日前だった。それから数日かけて母の手によって白い玉様のお参りに使う布が刺繍された。自分の髪の黒と、白い布地のあやす様が美しくて不思議だった。母が自分の為だけに手ずから針を持って刺してくれた。それがとても胸を温かくした事を強く覚えている。

 そして七日後――誕生日当日に、はじめてのお参りをした。通常は各戸毎に一月の持ち回りが決められているが、五歳になる子がいた場合、例外的にその誕生日当日にはその子の初参りが行われる。それは決まって誕生日を迎えた零時丁度に石段を上がり始める事になっていた。

 八咫は気付いていなかったかも知れないが、初参りに参りができる子供は多くない。五歳の子供が親の助けもなく、真夜中に一人であの石段を登り切る事自体が難なのだ。進み出せても途中で恐ろしさのあまり泣きながら帰ってくる事が大半である。何より、その時刻に起きていられる子供がほぼいない。現に、長鳴も梶火も五歳参りは成していない。

 少なくとも、ここ二十年の内で五歳参りが成功した例は自分も含めて二人しかいないのだ。それでもやらせてみる。そこには何かしらの意図があるのだろう。それに、完遂できようができまいが、翌朝のお参りはどのみち行われるのだ。つまりこれは、ある種の通過儀礼なのである。

 熊掌は、兎に角父と大陀羅から根気強く作法を仕込まれた。毎日毎日繰り返し、敷地内で練習をさせられた。練習を始めたのは三歳からで、一年もすれば作法は完璧に身に付いた。問題は暗闇に慣れる事だった。足元覚束ない中、一人で山道を上がり、大切なものを取り扱って下がりの品を持ち帰らなくてはならない。これは、手順が身についていようが関係がない。暗闇の中で幼子に完遂させるのは至難の業である。

 その後、夜の闇に慣れるために、熊掌は一人で村内を歩き回るよう父から命ぜられた。はじめの内は恐ろしさのあまり門扉の脇でうずくまって一歩も動けずにいたが、やがて夜闇に眼が慣れた。慣れると星のきらめきに川のせせらぎ、虫の声が楽しく愛おしいものになった。

 何よりも、夜歩きのお陰で、自邸と保管小屋の周囲を取り巻いている道祖神や石塔が、夜闇の中では薄ぼんやりと仄かな光を放つ事を知った。意味の分からない、少しばかり恐ろしかったものが、自身を手助けしてくれる心強い味方になったのだ。

 こうして、夜間の散策は幼子にとって日課となった。――時折、明かりは点いていないが人の起きている気配がある家があり、こっそり近付いて様子を伺おうとしたが、そんな時に限って大陀羅から「若、そろそろ帰りましょうか」と声を掛けられた。今にして思えば、あれは何かあった時の為に彼が護衛として常に離れた場所から見守っていたからなのだろう。加えて言うならば、真夜中の暗闇で起きている者達が何をしていたのかの意味も今なら分かる。素直に大陀羅に従った当時の自分を褒めてやりたい。

 そんな日々をおよそ一年過ごした後、熊掌は自身が大陀羅の気配を知覚できるようになっている事に気付いた。彼が己からどの程度離れた場所にいるかが判るのだ。それは彼の纏う香りとは関わりのない、言葉に表し難い何かによるもの、としか言いようがなかった。


 ――そして訪れた五歳参りの夜。自分は成して帰った。


 手順を違えず、祠の中に招き入れられた先にあったのは、思いも寄らぬ明るい場所だった。

 はじめて見た白い玉様は、顔面全てが削ぎ取られたかのように黒い穴が穿うがたれてはいたが、とても美しい、いにしえの姫君そのものだった。その髪を、身体を、自分の髪が刺繍された布で美しく拭き上げるのは、とても嬉しくてくすぐったくて誇らしい事に思えた。

 お参りを終えるのは、心淋しくさえ思えたくらいだ。

 ――だがそれも、お参りを終えて祠から出た後には雲散霧消うんさんむしょうし、如何いかんとも名状めいじょうしがたい絶望感に取って代わられてしまった。

 一歩一歩上がる石段も、進むごとに重苦しさを増していったが、止まる事はできなかった。してや、下るそれは更に鬱々とし、暗澹あんたんたる気持ちに苛まれて止まなかった。


 自分は、この石段を上り下りする道中で、ずっと大陀羅の気配を背中に感じていたからだ。


 熊掌は、一人で行かねばならないはずのお参りに、大陀羅が付いて来ている事を知りながら、それを黙殺したのだ。

 熊掌の幼い胸に去来したのは、落胆と羞恥だった。

 これでは成功したとは村の皆に胸を張って言えない。これは父と大陀羅に助けられて為されたものだ。これではずるではないか。

 落胆は深かった。しかしそれを口に出す事も出来なかった。羞恥の深さもあったが、村長の子だから贔屓されたのだと思われるのが怖かった。何より、そうなる事が容易に想像できたにも関わらず、ならばいっそと引き返さなかったのは、幼いなりに研鑽を積んだ結果、お参りを為せたのだと皆に誇りたかったからだ。頑張りを認められたかった。

 そうだ。大陀羅は己の秘密を勿論知っている。熊掌が単独達成できたわけではない事を知っているのだ。

 そういえば――そこまで思い出して、ふと、下山した後どうしたのだったろうかと思い至った。下山後には保管小屋に一人で入り、自分の家の籠に布を戻し、下がりの品をまとめ置いている場所に返して、その後、自分は村の者とは違い屋敷に戻ってから邸内で水垢離をするように言われていたはずだ。

 ――自分は、やり切れたのだったろうか……?

 必死で記憶の糸を手繰ろうとするが、一向に思い出せない。どころか、ズキズキとしたこめかみの疼痛がまた蘇ってきた。

 何だろうか。自分は何かを忘れているのか? あの時、大陀羅は傍にいたのかいなかったのか。

 あやふやな記憶に対する不快さと、明滅するように繰り返す頭痛。更には、手繰ってはならぬとでも言わんばかりの焦燥感がじりじりと身の内から迫ってきて、熊掌は硬く目をつむると膝の間に頭を落とした。

 まだ、河原から立ち去れそうもなかった。


          *



 じりじりとろうの明かり一つがその場に浮いていた。

 鼓膜に刺さるほどの沈黙が垂れ込める中では、それが立てるささやかな音ですら存在を強く主張する。


 ――と、ばち、と一際大きく音が弾けた。


 ぼとりと意外なほど大きな音を立てて、虫の身が地に落ちた。見れば、蛾が一匹炎に魅かれてその身をあぶったようだ。僅かな臭気が、その場に臨んだ者等の鼻先をかすめる。こうしてまた一つ、死が増える。

 灯火の届くか届かぬかという、闇と明かりが混じる薄ぼんやりとした淡いで、壮年に手が届いたばかりと見える男が一つ吐息を落とした。その吐息に触れたのではないだろうが、風が吹き込むはずのないこの地下の一室で炎が揺れた。恐らく、空気の取口から加減よく一陣が吹き込んだのだろう。揺れた炎は、男の彫の深い顔立ちに濃く影を差した。

 男は肩までの総髪を流したままにしている。赤銅色のその肌は、闇の中で灯火を受け、艶めかしいだいだいに染まっていた。男の職はえいしゅうで唯一の薬師であり、必要に応じて医術をも施した。名を八俣やまたと言う。八咫やあたの父である。

「――黄師こうしがこうも邑の中に長逗留するとはなぁ」

 苦々しいものを含んだ八俣の言葉は、引き続き重い吐息と皮肉な嗤いを連れて出た。

「全く蓬莱ほうらいでもあるまいに……。こんなんえいしゅうはじまって以来の事とちゃうか? 今、邑長邸におるんは三人やったか?」

「はい」

 部屋の何処いずこかから、低い声のいらえが短く返る。

「あいつらも気の毒になぁ。選りにも選って派兵先が瀛洲やってだけでも悲惨やのに、その邑ん中にこんな長期間はいっとらなあかんとか刑罰も同然やろ。運が悪いと言うかなんというか……。その三人は、面子めんつはずっと同じなんか? 最初は十人はおったやろ」

「ええ。ですので、その十人で交代して回していますね」

 「はっ」と八俣が吐き捨てるように嗤う。

「ほれ見てみぃ。案の定押し付け合っとるやないか。ほんま笑かすわあいつら。減らしたと見せかけといて外でがっつり待機しとるいうわけか。こすい真似しよるな――ほんでも、こっちがそう考えるやろ言うのもあっちは織り込み済みやろ。常時の駐屯師での交代人員とすれば十人は普通や。――新しく来た十人での邑内ゆうない監視に見せかけて、その実むらの周りはもっと多勢で囲んどるんとちゃうんか?」

 後半の低い声音での呟きに対し、闇の奥から低い声が「それは、先程確認して来ましたよ」と応えた。

「でやった?」

「居ましたね。なかなかの人数が」

 にじり、とその体躯が灯火に寄り、浮かび上がる。そこに現れたのは髭鬚面ひげづら隻眼せきがんの大男――大陀だいだだ。

「やはりいたか。如何いかほどであった」

 また別の、しゃがれた声が問う。闇に目が慣れると、その場に三人の男の影があると知れる。こちらは灰に染まった腰までの長髪を束髪そくはつにして背に流していた。鋭い切れ長のまなじりには、ぎらりとした眼光が宿っている。えいしゅうが邑長に相応しいれつなる人物がその相貌に滲み出ていたが、二人の子等とはあまり似通うところが見当たらなかった。名を東馬とうまという。

 大陀羅は自身の髭鬚ししゅを撫でながら、ふぅむと記憶を辿る。

「まあ、見た限り、ざっと百はありましたね」

「――百ときたか。常駐より増やしたにしては、なんや半端やな」

 八俣の見解に、東馬は「うむ」と首肯して同意を示す。百人の隊と言えば数の上では少なくはない。が。

黄師こうし隊長は員嶠いんきょうの残党に備えているような事を申しておったが、取り逃がしたという残数は残り一か二。これに対してわざわざこちらにも百を派兵するのは確かに多すぎる」

 瀛洲の東端に常時の陣を張る駐屯師はおよそ三十。それが三月みつきに一度、十人の派兵を持って任の交代を行う。瀛洲の現在の人口およそ六百弱に対して一見この数は手薄と見えるが、近在の県常駐の任に当たる黄師はその数二千、州全体を見れば七千を下らない。何か事が起こればこちらが動く。つまり駐屯師の主たる任務は邑人の逃亡阻止を含めた監視であって有事の対処ではない。一人か二人しかいない残党の邑への侵入と干渉を阻止するだけならば、常時の人数で十二分に事足りるのである。

「――しかしだ、その員嶠の残党に先朝の遺臣が関与している可能性があるとも言及しておったからな、これはつまり、姮娥こうが五邑ごゆうはくしんの癒着の痕跡を何らかの形で掴んでいるという事だ」

 八俣の表情が険しくなる。

「――儂等と白浪はくろうの動きを察知されとる言う事か」

「疑いありと牽制されたと見るべきだろうな」

「せやったらせやったで少なすぎんか?」

「つまり確証がないのだろう。確たる証もない内にむらに踏み入り、これを大々的に荒らせば黄師とて月皇げっこうの不興を買う事は避けられぬ。あの皇帝は、五邑の機構を乱す事に関してだけは徹底回避を厳命するからな。反すれば厳罰に処される。奴等にすれば正しく員嶠いんきょうてつは踏みたくない、という事だろうよ。故にその程度の数に収めるしかない」

「もしくは、他に兵を割かざるを得ない何かがあるのかも知れませんね」

 大陀羅の呟きに、東馬は「外部でか?」と首を巡らせる。

「可能性としては内乱も疑わしいでしょう。せきぎょく不在のこの五百年、死屍散華散逸による土地の汚染は進み、耕作地の縮小は止まらず、土地を棄てる民もいや増すばかりだ。姮娥こうがえずともかつえ食えねば人心は乱れます。そうなればげつの帝位を肯定した民意の維持自体が難しくなる。これが崩れれば五邑と白玉の保有自体が、民心の朝廷に対する離反と、五邑に対する憎悪を呼びかねない。――月朝崩壊は、時間の問題です」

 わずかに俯いた八俣が視線を――落ちた蛾の死骸に向ける。

「せやから、内乱やと?」

「ええ」

「――死屍散華を握っとるげつじょえんに、丸腰の民が刃向かえると本気で思うんか?」

「それこそ、背水の陣ともなれば、手段など選んではいられないものです」

 じろり、と八俣の鋭い視線が大陀羅の目を射た。

「お前は、ほんまにそれでええんか?」

 八俣の問いに、大陀羅の片頬が笑みに歪んだ。

「――私もね、十分煮え湯は飲まされました。正攻法で己の自由を勝ち取れれば良かったですが、なかなか表の顔だけで頂点を取るのは難しい。ならば手段は選びません。――長」

「ああ、わかっている。最終的な決定権はお主の掌中にある。そも、お主の助力なくば我等に選べる道などそもそもなかった。――何よりも、瀛洲がお主に行った罪咎に対する贖罪としては、権の移譲など軽すぎるくらいだ」

 ふ、と笑いながら八俣は腕を組んだ。

「長い付き合いになったが、お前の強欲と執念ほど頼りになるもんはあらへんからな」

「一応、誉め言葉として受け取っておきますよ」

 八俣の言葉に大陀羅は苦笑いを浮かべる。東馬は難しい顔をしたが、八俣は更に笑った。

「本心やで。お前なら追った二兎も力尽くで手中に収めてしまいそうやからな。儂は心配はしとらん。任せたで」

 そこまで言ってから、八俣は吐息を漏らした。

「しかしなぁ……なんでこんな局面に合わせて員嶠あいつらも動くんやろな。いや、向こうからしたらなんでこっちが動いとんねんて話やな」

員嶠いんきょうにしてみれば、我等に画策有など知るよしもない事だからな」

「ああ。まあどっちが先かは言うてもしゃあないか。気が合う言うんも考えもんやな。ほんま下手を打ってくれやんとええが。気が合うついでに芋づる式に此方の事まで露見するんは勘弁やで。そないなったら、瀛洲が五百年耐え忍んだもんが水の泡になってまう。……せやけど、これに関しては、元はと言えば儂の力不足やからな。――申し訳が立たん」

「若、それは――」

 大陀羅に八俣が首を横に振る。

悟堂ごどう、若はもうやめてくれ。一つの邑に若は二人もおらん。お前の若はもう熊掌ゆうひ一人でええやろ」

 東馬が八俣の目を見て首を横に振る。

「致し方あるまいよ。十かそこらのわっぱに何ができたという。よしんば離邑した後に民が起こした反乱など止められる訳もなかろう。あの当時のお前と、お前を守り切った悟堂ごどうの働きがなくば、本来員嶠いんきょうの民は壊滅していた。――彼等が生き残っていた事は、喜ばしくはある」


 三者の間に苦い沈黙が落ちる。炎がまた、小さく揺れた。


 商人――いや、彼等の真の身分は黄師こうしという。黄師は禁軍に並ぶ公軍だ。この両雄を合わせて軍師と称する。

 この黄師の逗留から早一月が過ぎていた。

 三人が一堂に会するのもまた一月ぶりの事だ。つまり、彼等の逗留の為、この三人での会合を持つのに、それだけ難渋したという事である。監視の目は、それ程執拗だった。

 邑に残る三人の内、一名が祠の番をし、一名が邑長邸内で寝ずの番をする。そしていま一人が――外にいると思しき隊長に伝令として走るのが三日に一度の頻度であると漸く確証がとれた。つまり、その伝令役は往路と復路で人が違うと言う事である。その機に兵が交代しているのだ。

 現在、邸内の黄師には薬を混ぜた酒と女を配して眠らせてある。今日を逃せばまた日を改めるのが難しかった。

 険しい顔をした東馬の姿勢が伸びる。

「――ともすれば、員嶠の方が朝の動きに通じているやも知れんな」

「と、申しますと?」

「隊長が言うには、先の一月の内に、各地で彼等の移動の痕跡が多数見られたそうだ。ここ二十年、ぱったりと動きを見せなかった員嶠が、そんなにあからさまに動きを悟らせるような下手へたを打つだろうか?」

「――つまり、敢えて跡を残しとるちゅう事か? ほな、こっちにおるらしい残党は陽動いう事か?」

「或いは、な」

 じじ、と燈心が揺れる。蝋の残りが少ない。す、と大陀羅が立ち上がり、蝋を取り換えた。無駄のない流麗な所作だった。

「時勢が整うというのは、何も我々だけに特別に訪れる物ではないという事なのでしょう。狙うものが同じであれば、事は当然同時的に発生する」

「せやな。白浪も、御母堂と御子を迎え入れる支度が整っとらんかったら、儂等に接触してくる事もあらへんだ。整ったと言う事は、世の状態と条件がこちら側に都合ようなった言う事や」

「――今少し、外の動きが分かれば申し分ないのだがな」

 東馬が歯噛みするのに、八俣は「やはり、すまん」と頭を下げた。

「儂等が居るせいや。そのせいで、ここはただでさえ監視がきつい」

「いや、どのみち嚆矢こうしは放たれておった。主等がこの邑に入る因となったのは、りょの娘を見逃す事を我が父が決断したからだ。言うなれば、員嶠いんきょうの事もまた我らに咎がある」

 八俣は額を抱えて首を横に振った。

「否、それも結局は我が父との結託があったればこそや。儂と悟堂を抱えて尚、東馬が沈黙を守ってくれたからこの二十年を生き延びられた。それは東馬の統率力あっての事や」

 八俣の隣で大陀羅が首肯する。「本当に、感謝しております」と、深く叩頭する。

「どのみち、白浪の使者がここへ二人を迎えに来る事は動かしようがない。もう一月以上先にはならんやろ」

「ああ。幸いあの道はまだ黄師に見つかってはいない」

「というか、奴等には見つけようがない道やからな。――御母堂と御子のお支度は整ったんやろうか」

「ぬかりはない」

 大陀羅が「しかし」と声を上げる。

「御子はまだご自身のお立場も状況も御存知ないはずでは?」

「――じきに御母堂よりお話されるとうかがっている」

いや、もう急いでもらわな。御子のお気持ちを整える時間がいるやろ」

 灯火がじりり、と八俣の暗く沈む眼の色を暴く。

「御子の『影』は住処を移せば済む。――寧ろ、あれも早々に隠さなあかんかったからな。言葉は悪いが時期的に考えれば渡りに船やった。それよりも、問題は御母堂や。彼女の『影』はどうする気や」

「――婆が請け負うてくれた。その為に二人を常から近くに置いていた」

「……そうか」

 口元を両の手で覆ったまま、八俣は眼を伏せた。

「あとは――お前等、一体、ゆうに何時ほんまの事を話すんや」

 重く鋭い問いかけに、東馬は重い沈黙で返す。ふうと流れ込んだ空気が灯火を撫でてゆらし、

 消えた。


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