9 汐埜


 あの日、父と商人が密談しているところに薬師の息子と居合わせた。彼は良くも悪くも村の在り様から逸脱しがちな少年で、しかしそれは少年らしさの一端の発露程度に思われたので、大して注意を払ってはこなかったというのが正直なところだった。

 弟の長鳴ながなきや、かじとはいがみ合っているな、という程度の認識はあったが、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 それが、あの日を境に明確に変わった。

 まず彼の口数が変わった。これまでのように無闇矢鱈むやみやたらと人を選びもせず、のべつ幕無しに持論を開陳しているところを見かけなくなった。誰かがする問いかけにも、当たり障りのない返答で済ませる。これまでのように人との会話で、手前勝手に逸脱した展開をまくし立てて流れを捻じ曲げるような事がなくなった。

 日々、畑の世話や魚の干物作り、長期保存が利く保存食作りを熱心にやり、彼に任せられている布の洗濯も丁寧にするようになった。そうだ。その後に保管小屋の裏水路で体を入念に洗うようになった。お参りをした者が下山後に全身の水垢離みずごりをするのは決まりだし、兼ねてから薬師の父親より彼も言い含められていたはずだが、ここにきて突然必死の形相でそれを己に課すようになった。

 商人達が村に残っている以上、彼自身も安心していられないのは当然だろう。

 間違いなく、彼が今村で一番熊掌の思惑に呼応してくれるはずだ。

 飯を食い終わりくりやへ自ら膳を下げた後、一服を挟んでから二人は木刀を手に河原へ向かった。途々みちみち畑仕事に精を出す村の者達と笑顔を交わす。しかしやはり皆のそれは薄く曇りがちだった。道中で商人と顔を合わさずに済んだのはありがたかった。熊掌にとっても変わりなく、それは様々な意味での圧迫をもたらすものだったからだ。


「あら、若」


 河へ下る少し手前で、高く澄んだ声が熊掌を呼ばわった。顔を向けると、そこにいたのは汐埜しおのだった。汐埜は大陀羅に会釈しがてら、二人の手元に目をやり、にこりと笑んだ。

「これから剣のお稽古ですか?」

「ああ、そうだが……」

「精が出ますねぇ。もう若のお相手になれそうなのは、すっかり大陀羅様くらいしかお見えでなくなってしまいましたね。一人だけ神様みたいに強過ぎるというのは考え物かも知れないと、汐埜なんぞはついつい思ってしまいますよ」

 熊掌はわずかに眉を曇らせた。額に汗しながら息を切らす小柄なこの娘は大きな腹を抱えている。彼女は熊掌の三つばかり上で、間もなく初子の出産を控えていた。

「汐埜。そんなお腹で一人で出歩いてはいけないよ。万一の事があったらどうする」

「やだわ若ったら。大丈夫ですよ。少し山菜をむしってきただけなんですから」

「少しでも異変があったら、すぐに知らせに来るんだよ。いいね」

「わかりました。ほんとに若の過保護は長譲りだわ」

 コロコロと笑いながら、汐埜は頭を下げて彼女の家へ向かった。

 その小さな背中を見送りながら、熊掌は密かに袖の中で拳を握りしめた。

「間もなくのようですな」

「ああ」

「――やはり、気にかかりますか」

 大陀羅の問いに、熊掌はゆっくりと目を向けた。決して眉を曇らせることがないように、頬を引きつらせる事がないように努めた。

「それをお前が僕に問うか? お前以上に事の経緯を知っている者はいないだろうが」

「……そうですね」

 熊掌は、再び視線を汐埜の背に送った。胎にややがいるというだけで女の歩き方は変わる。ぐ、と眉間に皺が寄る。

「僕はな、大陀羅。自分が聖人君子のつもりは一切ないんだよ」

「――ええ、それはまあ承知しておりますが」

「俺がこの村の長になったら真っ先にやりたい事が何か教えてやろうか? 酒乱の糞野郎を投獄するための刑法の創案だよ」

 低い声音での呟きに、大陀羅は腕を組んで肩をすくめた。

「まあ、誰の事を言っているのかは分かりますがね」

「あれが身重の身で酔いつぶれた旦那の介抱をしているところなど、僕は見たくはなかったよ。姑も脚を悪くしているからといって、あの状態だというのに汐埜に先々月の参りを殆ど一人でやらせた。――父が過保護というならば、もう少し手心を加えられそうなものだがな」

「思う処有、ですか」

「それは「何に」対してだ。それとも「誰に」対してか?」

「両方です」

 見開かれた熊掌の目が、じっと大陀羅を見据えた。



「――そんなもの、口に出したら自覚してしまうだろうが」



 常になく、吐き捨てるように言う熊掌に、大陀羅はそれ以上口を挟まなかった。この件に関しては、熊掌の内に苦い葛藤があるのを知らぬ大陀羅ではない。汐埜は、ゆくゆくは熊掌の妻にと目されていたのだから。

 土手から河原へ下りる。ぐりいしが多く転がる河原は足元を取られやすい。故に稽古の場として非常に有意義だと大陀羅は言う。

 座して精神集中をした後、早々に打ち合いを始める。大陀羅の気迫は重いが、表情は飄々としていた。実力差があるのは承知しているが、なんとも悔しく腹立たしい。

 熊掌は剣の腕に限らず、押し並べて身体能力が桁違いに高かった。それは幼い頃から顕著で、見た目は際立って華奢であるのに豪腕で鳴らし、七つの頃には大の男と腕相撲をしても負ける事がなかった。それでもこの大陀羅には一向に敵わない。他の者では歯が立たないと分かって以降は、熊掌の相手は大陀羅一人に限られる事となった。故の先程の汐埜の言である。単純に他の者と手合わせをさせるのは力量差があり過ぎて危険だという理由だ。しかし決まりが定められたのが早過ぎた事と、彼より更に上回る大陀羅としか長年打ち合っていないために、常に負ける経験しか蓄積されていないという皮肉な結果がそこに生まれていた。熊掌本人に自身が強いという自覚が薄弱な上、いわゆる剛の者とは程遠い容姿が更に彼の自信を削っていた。それでもその心がいじける事無く、折れずに済んだのは、偏に「負けん気が強い」というその一点に救われたからである。

 がつん、と打ち込まれた重いものを受けると、目と鼻の先にまで力で押してきた顔が小さく問うてきた。

「若、何を考えている」

「何を、とは⁉」

 ぎりぎりと重い競り合いで木刀が軋む。力みが思わず声に出る。

「どうにも気が散っている。俺を舐めていますか?」

 「はっ!」と嗤い、一瞬引くと激しい打ち込みを繰り返した。

「舐められるものなら舐めたいところだ!」

 勢い付けて間合いを取り、構えを直す。不適な笑みを向ける師が憎らしい。しかしその強さに緊張と高揚が走るのも否めない。

「汐埜の事を引き摺っている訳ではなさそうですね。では一体何がそんなに気に掛かるんです?」

「強いて言うならお前のその汚い髭鬚面ひげづらだよ!」

 叫ぶや否や、熊掌は大陀羅の懐に飛び込んだ。がんがんがん! と重い音と共に激しく打ち込む。それを一々綺麗に防がれる。ちっと舌を打った。本気で骨を折る気でやっているのに全く歯が立たない。

「まあ、気を取り直すのが早くなったのは褒めましょう」

 返しに一撃が打ち込まれた。重い剣戟だ。腰を落として何とか受けるが脚が砂利の中にめり込む。びりびりと肩の付け根に痺れが走る。

髭鬚ひげが気に障るのは本当だぞ。一体何時になったら当たるんだ?」

「剃ったら昔みたいに舐めてくれるんですか?」

「それこそ何時の話だよ!」

 がん! と押し返す。三つか四つの時分の話を一体何時まで持ち出すのか。大陀羅の膝の上で共に無花果いちじくを食べていた時に、彼の顎にこぼれた果汁を舐め取った事があるらしい。全く記憶にないのだが、どうせ己の事だ、もったいないとでも思ったのだろう。

 と、昔の話――というので、ふと思いついた。

 再び打ち下ろされたものを何とか勢いを殺して受ける。

 熊掌は、それを受け流すか、直入に切りかかるか一瞬だけ逡巡したが、にいっと笑って結局押し返した。そして即逆手に柄を握りなおして喉元を獲った。刀を間に挟んで至近距離で睨み合う。大陀羅はにいと笑って「止めては駄目です。即押して、引かねば」と事も無げに言い放つ。

「大陀羅」

「何でしょう?」

 熊掌はにこりと笑んだ。

「――お前、父上と何を約した?」

 刹那、微かに大陀羅が瞳を揺らした。思わぬ反応に熊掌の方が一瞬面食らう。次いでしてやったという愉悦が湧き起こる。これは――当たりだ。適当に掛けた鎌が、何時もしてやられるばかりの男の首を捕らえた。知らず口元に笑みが浮かぶ。これが愉快でないはずがない。

 主従であれば何かしら密約らしきものの一つや二つあるだろうとは思ったが、ここまで明白な反応が出るとは思わなかった。

 小首を傾げて上目遣いで大陀羅を見る。


「――それに、僕の秘密を、お前はいつまで守ってくれるんだ?」


 最初に切り込むとしたらこの辺りだろう。さて、狙いを定めた切っ先が上手く着地してくれると良いのだが。――そんな風に思っていたやさきに、びり、と空気が震えて慌てて飛び退いた。腹の一寸手前で刀が横薙ぎに空を切る。左脇に打ち込まれる気配を危うく見落とすところだった。ぞくりと背筋に粟が立った。

「若はまだ油断が出来る程の腕ではない。さっさと獲らぬから獲られるのです」

「ははうえにいいつけてやるー」

「それはひきょうですー」

 けらけらと笑って互いに刀を構えなおす。

「さぁて、若の秘密ですかぁ」

「うん。せっかくの二人きりだ。いい加減確かめておきたいと思ってね」

 微笑みながら問うと、大陀羅はやおら木刀を下ろし、ふぅむとあごひげを撫でた。

「そうですねぇ、でも、あなたのおしりにでっかい青痣があるのなんて、人にバラしても仕方ないでしょうからねぇ」

 熊掌の顔がぐっと強張る。

「――お前、見たのか」

 熊掌の反応に、大陀羅は鼻の頭に皺を寄せてくつくつと笑った。

「そりゃもう。小さい頃のあなたは本当に寝相が悪くて、どれだけ尻を出して寝ていたのを直してやったか知れたもんじゃないですよ」

 熊掌は口元を結んで黙る。

「若」

 ぽん、と肩の上に大きな手が乗せられる。耳元に口がわずか寄せられる。

「相手の口を滑らせたいなら、もう少しうまくやりなさい。今のはあんまり酷すぎる」

「――肝に銘じておく」

「斥候は愚直では務まらないものです。方便と策略の能がいる。それにそう言う事はあなたが出る幕ではない。人を使いなさい」

「僕には能力が欠けていると言う事か」

「配材の事を言っているのですよ。あなたは村長の後嗣だ。身に着けるべきは人の能を見抜く力。人の使い方を知らぬ長の下に就くのは麾下の不幸だ。努めなさい」

「耳が痛いな」

 苦笑しながら肩を竦めると、大陀羅もまた笑った。

「ああ、そうそう。どうせ覚えておくのなら間諜の真似事ではなくて、こちらの知識になさい」

 にこにこと笑みながら熊掌の頭を撫でる。まるで子供扱いだ。先般自分が八咫の頭になすり付けてしまった果汁を拭いた時のそれと同じではないか。

 と、その手がゆっくりと熊掌の顔へと降りた。指先が額に触れ一瞬止まる。すっと下って両瞼に、次いで中指がこめかみに、親指が鼻に、更に降りて顎をなで、最後に、やわらかく首筋を愛撫するように撫でた。

「――大陀羅?」

 衛士は、ふわりと柔らかくまなじりを下げた。


「今、私が触れて止まった場所を覚えておきなさい。そこを潰せば人など簡単に殺せる」


「っお前っ」

 思いも寄らぬ言葉に、ざわりと背中が粟立った。しかし目の前の男は未だ柔和な笑みを浮かべたままだ。

「いいですか? 大きな刀を振り回さなくとも、人間の命は獲れます。要はやり方を知っていて、その技に習熟しているかが要です」

「――ちょっと待て。お前、僕に殺しを勧めるのか?」

「そうなる事はあるまいと高をくくって備えに怠慢するのが許される将はおりません。若。人体のどこを突けば瞬時に動きを止められるか、確実に命を獲れるのか、あなたはそれを覚えねばならない。若には、自分の命と体を守らねばならぬ事がこの先いくらでも起こり得るでしょう。狙われたものを、獲られる前に封じる。それは――」

 肩にかけられた手に力が籠る。

「貴方の責務だ」

「大陀羅、お前」

「己に秘すべき物があるというならば命を賭して守りなさい。そして最後を決することが出来るのはどんな戦でも大将だけだ。その権を握る星の下に生まれた以上、貴方は己を守り切り、敵に止めを刺すための刃を常に懐に抱えていなくてはならない。必要なのは――覚悟です。尊厳を奪われるぐらいならば、一切躊躇わずに殺しなさい」

 鋭く光る左の眼が、熊掌の心を射抜く。

「私も、貴方の事を最後まで傍で守れる訳ではないかも知れない。己を護れる者は己しかいないという状況に陥る事もこの先いくらでも出てくる事でしょう。だからこそ、今後も自力を磨いてください」

「――わかった。本当に肝に銘じておくよ」

「それで? 一体何がそんなに気掛かりなんですか?」

 今更の問いに苦笑が漏れた。ここまでずけずけと言われた後でおいそれと素直に問うなど出来ようはずがない。

「自分が何も分かっていない、という状況に対する鬱憤の晴らし方を知りたかっただけだ。お前に八つ当たりでもしてみようかと目論んだが、結局こてんぱんにやり返されて終わった。――後は本当に行き詰まってから問わせてもらう。もうしばらくはこの未熟な頭を振り絞って考えてみるさ」

 ふふ、と髭鬚ししゅが笑みながら獲物を脇に収めた。

「頭は使って損はない。使わなければ蜘蛛が巣を張る」

「違いない」

「今日はここまでにしましょう」

「ああ。ありがとうございました」

 熊掌は頭を下げて大陀羅を見送る。

 口惜しさで、噛み締めた奥歯がぎりりと音を立てた。



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