2 密事
8 熊掌と大陀羅
寝覚めの悪い日だった。
両のこめかみの辺りに
上着を着込みながら
部屋の隅に置かれた石彫りの
ああ、なんと厭な顔だろう。
ともすれば
村内に商人が
そう。あれは監視だ。
村人の間でも、さすがに
あの傍若無人の権化とまで称される
あれがいつまで保つものか……。
商人達と離した方が良いのは明らかだったが、それは一体何処へ? どこになら距離を置かせてやれる?
そこまで考えて、熊掌は愕然とした。
自分達には「村を出る」という選択肢と思考がごっそりと抜け落ちているという事に気付いたからだ。
それはつまり、「ここではない場所へ行く」為の具体的な手段もまた、手元に存在していない事を意味する。
その事実に思い至った時、熊掌の脳内は混乱を極めた。信じられなかった。信じたくなかった。これまでそこに思い至りもしなかった事に愕然とした。目まぐるしく
なかったか、本当にないか?
いくら考えても、思い出そうとしても、そこに該当しそうな項目は一つも見当たらなかった。
この村は、商人がお参りの下がりの品を回収にくる以外に、外部と繋がる物が一切ないのだ。
一昼夜思考に没頭して、ようやくその事実を事実と受け入れた頃には、全身に
ここは、まるで封じられた
部屋から出て
「おはようございます」
柿渋染めの
「おはようございます
熊掌は素知らぬ顔でへらっと笑った。
「申し訳ありません。昨夜は夜更かしをし過ぎました」
「学問も程々になさい。身体を壊しては元も子もありませんよ。お食事はするのでしょう?」
「ええ、いただきます」
「離れに運ばせましょうか」
「ああ――いえ、裏の
「運ばせましょう。先にお行きなさい」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
女達にむけて会釈をしてから
振り返れば、母は曇らせた
「――体に、何かおかしい事はありませんか」
熊掌は、少し間をおいてから、やはりへらりと笑って小首を傾げて見せた。
「はい。
*
――ここは、まるで封じられた籠のようだ。
東屋へ続く回廊を
この村の閉鎖性の恐ろしく根深い事に気付いてからの熊掌は、周囲を見る目を変えた。
まず薬師の息子にも話した通り、この村の構造は統治や管理の視点で俯瞰した時に、書物から得られた知識からは大きく逸脱していた。習俗にしても村と外部を隔てる物が内にある。村の守りと信じられている白い玉様へのお参りも、信仰というにはあまりにも画一的且つ義務的で、何ら揺らぎらしき物が見当たらない。信仰というのは感情と共同体維持の為の機構であろうに、最重要視されているのが、何故か下がりの品と布の保管と、その交換なのである。
商人と父の会話で、ああ、これは彼等による
物品のやり取りは確かにある。一見公平なやり取りとも思える。しかしそれが本当に等価交換に値するものなのか、その判別は付けられない。自分達には、白い玉様の下がりの品が彼等にとってどれ程有益な物なのか想像も付かないのだ。
なぜか。
それは、文字の取り扱いが村長一族に限られているからだ。
父からは他の者に読み書きを教えてはならぬときつく申し渡されているし、弟もその厳命は守っている。村の者からも強く請われた事がない。つまりこれは不文律なのだ。
母は父に嫁いできた他家の者だ。当然文字は読めない。現状この村で文字を解し、書物を読める人間は数限られる。父と、自分と、弟と、それから――、
ふいと、顎に手をやり立ち止まった。東屋はもう目の前に迫っていた。
「――ああ」
そうか。
薬師の彼も、文字が読めるのだ。つまり識字は村長一族に限られた特権ではないのか。
何かがうっすらと繋がった予感がする。
きっとこれは、他にも熊掌の知らぬ不文律がある事を意味するのだ。
恐らく、この村に余所から移ってきた者があったとしても、その事を口に出してはいけないなどの暗黙の了解があるのだろう。例えばそれは、過去に白い玉様に命と体を獲られた娘について声高に言及してはいけないのと同じに。
識字者がほぼ無いに等しいが故に、伝聞も書伝も発生しない。更にこの村では村長一族の権力が絶大であるときている。父ならば箝口令の一つや二つ平気で敷くだろう。結果、権にとって不都合な事実は秘され、伝えるべき情報が伝わらずに朽ちる。
これを故意と判ぜずしてなんとしよう。
「うん。そういう事だ」
うっすらと笑みが口の
掴みどころのない違和感が、常に村全体に沈殿している。それは疑いようがない事実なのだ。
口にしてはいけない。そういうものだから誰も話さない。
積極的黙秘ではなく、そういうものだから皆が口を
熊掌は、うすら笑いを浮かべたまま、良からぬ事を
黙っているのならば、そっと開かせてやればいい。貝の口に酒を注ぐが如く。
「なにがそうなんですか?」
背後から掛けられたそのゆったりとした声に、熊掌はびくりと振り返った。
そこに立ち尽くしていたのは、必要以上にすっかりと見慣れた一人の大男だった。「なんだお前か」と熊掌は安堵の吐息を漏らす。
それは、熊掌がこの村で最も信頼を置く男である。内心舌打ちをした。珍しく背後に迫られた事に気付けなかった。余程自分は思考に没頭していたらしい。
追うようにふわりと微かな柑橘の香が鼻孔に届く。そう、普段ならこの香りでその存在が近付いた事に真っ先に気付くというのに。
三十前後と思しき五尺九寸はあろうかという
常からその身にやや青い香りを
「気配を殺して足音を立てずに近付くな、
はああと改めて溜息を吐く。
「おや、驚かせましたか?」
「心の臓が使い物にならなくなるところだったよ。勘弁しておくれ。死んだらどうしてくれる」
「それは申し訳ない。そうなったら責任をもって骨壺に納めさせていただきますよ」
そう言って、大陀羅は晴れ晴れとした表情で呵々大笑した。ふと、自分の笑い方はこの男譲りだったかと思い至った。可笑しかった。自分は父より余程彼に似通った気質を持っている気がする。
大陀羅の後ろに膳を下げた女が現れたので、熊掌は礼を言って回廊の脇による。大陀羅も気付いて道を譲った。
「おや、今から飯ですか」
「そう。すっかり遅くなってしまったよ。お前も一緒に食うかい?」
「いや、よしておきます。あなたから飯を横取りしたら、この後の稽古ですぐにへたばって使い物にならんでしょうが」
「おっと、そういえばそうだ」
「まあ、一人飯は味気ないでしょうから、食い終わるまではお付き合いしますよ」
「それはありがたい」
へらりと笑って、二人は女から少し距離を置いて
「ところで、最近、
「坊ですか? そうですねぇ……坊は中々
村の皆は長子の熊掌を若と呼び、長鳴の事を坊と呼ぶ。
「やはり付かないか」
「はい。坊はあなたと違って鍛錬よりも学問に傾倒しておいでですからね」
「――どういう意味だ」
「文字通りですよ。あなた嫌いでしょう? お勉強は」
ぐぅの音も出ない。
「あなたは体格が飛び抜けて優れている訳ではないが、柔軟性がある。だから怪我もしにくい。勘が良いから技術の習得も早いし、また見た目よりも頭抜けて膂力があるから、武芸を仕込むのになんら遜色がない」
唐突に始まった、滅多に聞く事のない自分に対する師の評が誉め言葉の羅列であったので、熊掌は思わず背中が痒くなった。
「一方、坊は骨格は良いのですが足腰が弱い。だからちょっと
心底弱ったといった風に語るので、熊掌は苦笑した。
「父に文句をつけられなければいいんじゃないかな」
「そうもいきませんよ。ただでさえ俺は奥様には嫌われているというのに、これ以上事を起こしたら俺だけ飯が三分づきにされてしまう」
「確かに、それは困るな」
和やかに言葉を交わしながら、二人は東屋についた。
膳が置かれていた卓子の前に腰を下ろすと、大陀羅は本当にその対面に腰を落ち着けてきた。
「そんなに真正面から見つめられると食いづらいだろうが」
「行儀については口出ししませんから」
「お前にまでそれをやられたら僕には立つ瀬がなくなる」
「どういう意味ですか」
「それはお前が一番よく分かっているはずだろう。お前が箸渡しを平気でやるから僕もそれが当たり前になってしまって、後から随分恥をかいたんだからな」
「それは申し訳なかった」
けらけらと大男は気持ちの良い笑いを飛ばした。
勢い良く飯を食らいながら、熊掌はぼおっと呆けた面を見せる。そんな熊掌の様を、大陀羅は頬杖をついて眺めている。
「うまいですか」
「うん。この白身魚の干物さえあれば、米は何杯でもいける」
「そいつは良かった」
「分けないからな」
「いりませんよ」
目を細めて笑う大陀羅に、熊掌はにへら、と笑った。
先、大陀羅は心から晴れ晴れとした顔で呵々大笑していた。
つまり、彼はこの異常な状況を吞んでかかっているのだ。そこにある違和を、彼はその掌に握り締め沈黙している。
間違いない。彼は熊掌が知るべくもない事を何かしら知っている。
この一月、父にはそれとなく探りの手を伸ばしてみたが、とんと効果がなかった。素知らぬ顔ではぐらかすので、一度真剣に商人達に対する違和感を訴えたところ、酷く険しい顔でこちらから言うまで探ろうとしてはならぬと釘を刺されてしまった。これは、下手に村の人間に探りを入れれば瞬く間に父の耳に入ってしまうだろう。場合によっては商人に筒抜けとなる可能性がある。
この大陀羅とて例外ではない。彼は熊掌の護衛と剣術指南役を担っているが、本来の
うむ、本当に慎重にやらねば、一歩道を誤れば奈落の底だ。
――さてさて、どうしたものか。
へらへらと飯を口に運びながら、熊掌は思案を重ねた。
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