5 我的名字是白食国


          *


 薄闇の中、雲が切れ、青い光が差し込んだ。

 寝棲ねすみは痛む脚を抱えながら、まんじりともしない時を過ごしていた。

 今更ながら後悔していた。

 あの子供達はどうするだろうか。痛みに朦朧もうろうとしていたのと、やはり焦燥があったのだろう、本来言う必要もなかった事をつらつらと羅列してしまった。軽率だった。

 己の事を邑で話すつもりはないという彼等の言葉を鵜吞みにした。そんな保証はないと言うのに。更には、迫害に近い状態にある彼等の立場に付け込めれば、ともすれば手駒として使えるかも知れぬと半ば本気で思った。

 愚かだった。

 こんなろくでもない博打に賭けてしまうなんて、本当にどうかしていた。

 しかしだ、邑に通じる道が、この西側からでは子供が辛うじて通れる程度の極狭の隧道しかないと聞けば、彼等を使う手を思いついて咄嗟に口が動いたとしても仕方ないだろう? しかも今の己はこの有様だ。策を巡らせる事の何がいかん? 使えるものを掻き集めてなんとか這い上がろうとする事の何がまずい? 俺は、


 ――俺は這ってでも生きて帰らねばならんのだ。


 誰に聞かせるでもない言い訳と共に、寝棲は自身の折れた脚を忌々し気に見下みおろした。

 過ぎた事を悔やんでも仕方がない。といって、今何かできる気はしなかった。今この瞬間に追手がここに至ったとして、この脚で逃げおおせる訳もない。万事休すなのだ。

「今更、だな」

 失笑の吐息と共に空を見上げた。

 小人しょうじん閑居かんきょしてふぜん不善をなす。正しく今の己の為にある言葉だ。

 寝棲がここえいしゅうへ至るまでの間に、三人の同行者が命を落とした。生きて辿り着けたのは自分一人だけだ。文字通り追撃の手が止まぬ道中だった。自分自身が生き延びるのに手一杯で、仲間を見す見す死なせてしまった。

 自分一人が生き延びたと言う事は、つまり失われた彼等の命ごと、この責務を自分一人で背負い、全うしなければならんという事だ。

 しかし、客観的に見れば難しい状況だろう。

 それを成し得ないままついを迎える気配が濃厚だ。援軍を呼ぶ事も難しい。他隊は別の任務に割かれている。そもそも己等は自勢が薄いのだ。その中でギリギリの線で用意できた人数が四人。

 それで、一人しか残らなかった。

 なんと滑稽で無様なのだ。とんだ有様だ。

 あらゆる意味で苦笑を禁じえない。恐らく、己はただ死んでいった仲間達に言い訳がしたいのだ。手は尽くしたが結果は駄目だった、すまない、と。


(お前は生きて帰らなきゃならんだろうが……!)


 友の今際いまわきわの声が心の臓を刺す。待つ女性ひとの顔が目に浮かぶ。

 この隠密作戦は、恐らく頓挫するのだろう。最後に自分一人を残し生かしてもらった以上、必ず成し遂げねばならないのに、それができそうにない。嫌悪と失望で吐き気がした。


 ――その時、がさり、と音がした。


「誰だ!」

 反射的に懐の小刀を手に握った。見つかった⁉ 夜陰に乗じての急襲か? ――すわこれまでか、と全身を粟立たせながら視線を向ける。そして――息を大きく吸い込んだ。


 そこにあった影はいとけなかった。


 ぞくぞくと、先程までとは違う高揚が這い上がる。

 勝った。自分はあの馬鹿げた賭けに勝ったのだ、と。

「――来たか」

 声を掛けると、影は一瞬歩みを止めた。逡巡があるのだろうと、寝棲はかす事は止した。黙って待った。ややあってから、再びその人影はこちらへ向けて歩を進めだした。

 薄明りの中、ようやく視認出来た顔に、寝棲は思わずしばたたいた。

 意外だったのだ。

「なんだ、お前か」


 そこへ姿を現したのは食国おすくにだった。


 寝棲の話を聞いて、気がかりになり戻って来るとしたら八咫やあたの方だと予想していたのだ。

 華奢な少年の肩越しに、一際大きく青く輝く星が見える。

「どうした? 相棒はいないのか? 今度こそ俺の頭でもかち割りに来たか?」

 にやにやと問いかけると、意外にも真剣な顔で彼は首を横に振った。

「ひとりできた。ききたいことがある。――やぁたには、しられたくない」

 寝棲の内に再びぞくぞくと沸き立つ高揚があった。秘密の共有を図る者は、懐柔出来たも同然だ。真剣な顔に改める。「わかった。漏らさないと約束しよう」と小さく呟いた。本心ではあった。

 寝棲の言葉に安堵したのか、食国はふっと表情をゆるませると、こくりと一つ頷き、ゆっくりと寝棲の方へ歩み寄った。そして、そのかたわらにすっと膝を折り、川に指先を浸した。

 すと、岩の上をなぞる。


〈我的名字是白食国〉


「お前……」

 息を呑んだ寝棲に構わず、食国は続けて文字をつづる。

我聾みみがきこえないので 所以ひつ要和他們交談だんをする

 書かれた文字の隣に同じくして寝棲も書き記す。

你怎麼學的字母もじはどうやっておぼえた 誰讓你學文字了だれがおまえにもじをまなばせた

跟邑長学了むらおさからおそわった

 寝棲は少しだけ目を見張り、そして「うむ」と唸った。

「そうか……おまえは、ここがむらだと知っているんだな」

 食国は、こくりと幼子のように首肯した。

「あんた、ぼくをつきびとといった。そうなのか」

「――お前、本当に自分が何者か分かってなかったんだな」

 気の毒そうに寝棲が言うと、食国は悔しそうに首を縦にした。

「むらのみんなと、じぶんがちがうのはわかる。なぜぼくたちだけがちがうのかわからない。でも、だれもおしえてくれない。かあさまも、むらおさたちも」

 食国は、真っ直ぐな目で寝棲の顔を見た。

「ぼくは、じぶんがなにものなのか、しりたい。でなければ――」

 苦し気な眼差しで、食国はぎゅっとその拳を胸に押し当てた。

「どうしていつもだめなのか――いつまでも、わからないままなのは、もういやなんだ」


          *


「――白い玉様のお参りに関する約定が変わるのは、商人の来村が契機となる」

 その朝も、婆は同じ事を繰り返した。

 八咫の身の内はじりじりといていた。薄明はくみょうに鳥のさえずり。済んだ水遣りに婆の繰り言。代わらぬ日々の繰り返しの足元に、うす茫洋ぼうようとした影がにじんでいた。

「カイノタイヨハツイエテヒサシイ。カワゴロモノインキョウマデモガ。シイギャクヲハカルナド。ヨモヤセンチョウノイシンガマダ」

「――もうわかったよ、婆」

 頭を掻き毟りながら八咫は溜息と共に吐き出す。黙って聞き届けてやれる気分ではなかった。

 婆は、半眼にしていた顔を八咫に向けて、「ほう」と一音漏らした後、目をはっきりと開けた。

「おぼえたか」

「――さすがに毎日聞いてたらおぼえるさ」

 婆は、しばらく八咫の顔を見つめてから、気だるげに視線を外した。

「そうか。おぼえたか」

「うん」

 八咫は、ちらと婆の丸まった背中を見た。

 婆にはもう家人がない。村長の屋敷の一間を借り受けて、そこで暮らしている。親類縁者ではないそうだから、ひとえに村長の厚情なのだろう。八咫には少しだけ腑に落ちない。婆を助けてやれるなら、どうしておすくに母子の事も引き受けてはくれないのだろうか。そこまで求めるのは過ぎたると言うならば、せめてかじ達の狼藉を止めてくれてもいいだろうに。

 ――何かしら目には見えていない線引きがある。

 熊掌の言う通り、この村にはまだまだ衆目にさらされていない隠匿事があるのだ。

 八咫は気取られぬようにちらと視線を林の奥へ向けた。

 そこに、二人の商人が立っている。

 八咫はごろりと畑のそばに寝転んだ。父に言い含められているから、今日の八咫は頭巾を被っている。彼等に顔を見られないように。極力目立たぬように。――存在に目を着けられないように。

 これも、八咫一人が頭巾を被っていたならば目立って仕方なかったろうが、大抵の大人連中は頭巾かほっかむりをしているものだ。だから、寧ろ被り物がない方が目を引く。無論、婆も手拭いを被っている。

 特に八咫の容姿は、村では他に類を見ない特徴を持つ。父が強いて八咫に頭巾を被せようとするのは、そう言う理由からなのだった。

 やがて婆が立ち上がり、ゆっくりと帰り路に就いた。土の上に横たわったまま、八咫は薄眼を開けてそれを見送るに留めた。

 肌を刺す日差しは、八咫の焦燥を更に駆り立てて止まず、また頭巾の内側を蒸す。商人達からの監視がかれるまで、八咫はその場を動かなかった。

 確かに、村の中にはかつてないざわめきが蔓延はびこっていた。


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