4 八咫と熊掌、村長と商人の密談を聞き、自らも密談す


 二人は無言で村に戻った。おすくには常になく目線も合わさずに自分のむあばら家へと下って行った。

 西との境から出て歩き出しても、八咫やあたは顔を上げる事ができなかった。憂鬱だった。

 足取り重く自宅への帰路を辿たどる。最後に寝棲ねすみが言っていた言葉の意味が分からなくて気持ちが悪かった。月人つきびと、というのは一体何なのか。奴は食国がそうだと言っていた。それはなんだ? 何か八咫達とは違うところがあるとでも言うのか? それに。

「――髪を染めてるなんて、聞いてないぞ……」

 腹立ちまぎれに、目についた石を蹴り飛ばしてみたが、何の意味もなかった。自分の爪先が痛んだだけだった。

 胸の内がざわめくのは、寝棲の言動に腹が立ったせいではない。八咫の把握できていない食国の事を、奴だけが知っているような素振りでほのめかされたからだ。

 そうと気付いて、八咫は頭を大きく振るった。関係ない。食国は食国だ。大体はみ出し者の俺達に、今更人と同じだの違うだのが重要であるはずがない。何よりも、寝棲の奴だけが知っている何かがあろうと、それは俺と食国の事には関係がない。

 もう余計な事を考えるのはやめよう。そう決めて歩を進めた。自宅が見えた頃には、不快な痛みも大分和らいでいた。

 八咫が「ただいま」と自宅の戸を潜ると、土間で父が一人待ち構えていた。

 それで再び――気が滅入めいった。

 父は常の如く眉間に皺を寄せていた。いや、父がそういう表情を向けるのは自分に対してだけだ。村では微笑の絶えない穏やかな人徳者で通っている。何せ唯一の薬師だ。それが常から険しい顔をしていたのではまずいだろう。そんな薬師にかかっていては、治るはずの病も治らないというものだ。

 だからつまり、これはまた何か自分がやらかしたと言う事だ。

「どしたんや父さん。母さんと八重やえは?」

「商人が来とるんや。広場に荷を見に行った」

 八咫は怪訝けげんさを隠さない顔で父を見た。

「今? この時期に? 来るの一月ひとつき以上よないか?」

「――そんな事より八咫、お前どこ行っとったんや」

「魚釣って食ってた」

「まさかと思うが、「西」の柵は越えとらんよな?」

「越えへんて。行く理由もあらへんのに」

 しれっと不機嫌な顔で嘘をくぐらいは造作もない。嘘は嘘なので視線を合わせはしないが、それも常の事なので怪しまれもしなかった。

 父は溜息を一つこぼした後、手にしていた薬壺を棚に置いて戻ってきた。代わりにその手には見慣れた頭巾が握られている。

「嘘や、親父、今文月やぞ⁉」

「黙って言う事聞け!」

 言いながら父は、やや乱暴に八咫の頭にその綿の頭巾を被せた。

「さあ、行くぞ」

 そう言われて、昨日から父と約束していた事をようやく思い出した。今日は洗いと整理をやる日だ。すっかり失念していた。思わず顔をしかめる。

 ――何時もこうだ。自分はどうしてもこうなのだ。

 父の後に続いて、八咫は戻ったばかりの家を出た。

 折り悪く晴天である。刻限のせいもあるが、頭巾の中がじりじりと熱された。更に蒸す。

「親父、これマジで暑いんやが」

「耐えろ。――商人が来とるんは知らなんだみたいやから、村の東に行っとらんのは分かったが、今日は特に中央を越えるなよ」

「それ、やっぱり俺は商隊に近付くなって事か」

「そうや。商人には絶対顔見られんようにくれぐれも注意せえよ。なるべく姿も見せるな」

 「はあ」と八咫は溜息を吐いた。別にそれ程持ち込まれた荷が見たい訳ではないが、こうも一方的に禁じられると、さすがに気が滅入る。

「なんで俺だけあかんねやろな」

「――余所様に迷惑かけたらいかんからや。何時も言うとるやろが」

「俺は、そんなに駄目だめか」

 溜息交じりに思わずこぼすと、驚いたような顔で父が振り返り、八咫の顔を見た。随分久しぶりに、父と目線を合わせている気がした。

「なんや、急にどないしたんや」

「急にやあらへん。いつもおもとるわ。俺は、人前に出せんぐらい信頼がおけんちゅうこっちゃろ」

「おい、お前なに」

「自分が何しても駄目なんは、俺が一番ようわかっとる」

「――阿呆! お前は儂と母さんの息子やぞ。駄目なわけがあるか」

 大きな手が伸ばされて、ぐしゃぐしゃと乱暴に頭巾の上から八咫の頭を撫でる。眉間を険しくしながら、父はまだ、じっと八咫を見詰めていた。だから、八咫もまた真っ直ぐに父を見返した。

「せやけど、親父はいつも俺を人の目から隠そうとする」

「八咫」

「皆、わざと俺から目をそらすんや。親父もそうや。極力目を合わさんようにしとるし、俺の話を聞いとるようで聞いとらん。俺は――まるで生きてないみたいやまるで――」

「や」


「俺は、ここに生きとったらあかんみたいや」


 がっと、父の手が八咫の肩を掴んだ。気のせいか、父の呼気が震えている気がした。

「――なんや」

 すっと息を吸い込み、父は何かを言おうとした。しかし紡ぐべき言葉を探しあぐねたのか、結局唇を舐めて眉をしかめるに留まった。

「なあ。八咫、聞いてくれ」

「聞いとるよ。さっきから、ずっと」

「……せやったな。――なぁ八咫。お前はな、お前が思う以上に、儂に似とるんや」

「――まあ、親父と顔が似とるんは知っとるけど」

 父は苦い笑いを浮かべながら顔を横に振った。

「そゆことちゃう。お前はな、八咫。自分で思っとる以上に身内を囲い込むタチなんや。ほんで――儂と似たような生き方にならざるを得ん要素を背負って生まれてしもた」

「……よう分からん」

「身内に事があれば見境がなくなるタチやて言うとるんや。分かっとる、これは儂の話や。せやけど同時にお前のための話でもある。似た者同士の儂から残せる助言やと思って心の隅にでも置いといてくれ。――頼むわ。まだ、お前の事を儂の目が届く範囲で護らしてくれ」

 父の言う事の意味はあまりよく分からなかったが、八咫は頷いた。



 目的の場所は家から然程遠くない。

 だらだらとゆるい傾斜の坂をくだって二人が向かった先は、村長邸の隣にある小さな小屋だ。保管小屋と呼ばれている。

 入り口の戸を開けて中へ入る父の後に、八咫は続いた。

 中は暗く、目が慣れるまでしばらく時間がかかる。やがて、小屋の壁一面に棚がしつらえられているのと、そこに相変わらず、ずらりと籠が並べられているのが視認できた。部屋の中央の台の上に、大籠が一つ置かれているのもいつもの通りだ。

 この小屋の中には、白い玉様のお参りに使った布や、お供えの下がりの品が収められている。八咫はお参りができないため、この布を洗い、干す役割が与えられていた。父が頭を下げて村長に頼んだのだ。八咫の頭を押さえつけて下げさせながら。

 八咫は大籠を持ち上げた。中にはまとめて布が入れられている。父が床に茣蓙ござを敷いたので、中から全てを取り出しそこに広げて確認をする。間違いなく全て『色変わり』していた。いや、違った。

「あ、父さん、これまだ変わりが甘いんやけど」

「構わん。確認は済んでる」

「誰のだ?」

「お前が知る必要はない」

 きっぱりと切り捨てるようにいう父に、八咫は小さく舌を鳴らした。

「ん。他は間違いなく全部白だな」

「ああ」

 八咫は大籠に布を入れ直し、よいしょと抱え上げた。

「じゃあ、洗ってくる」

「任せたで」

 八咫が布の確認をしている間にも、父は水米塩が一緒くたにされた下がりの品を、壺へ移し替える作業を進めていた。平素から無口な父だが、作業時は何時にもまして無口になる。

 戸口を出ようとした間際、背後から父が声をかけた。

「八咫、分かっとると思うが」

「分かっとるよ。『色変わり』の状態については一切他言無用、やろ」

 父親の視界を殺さないように、入り口の戸は開け放ったままにして小屋を出た。

 頭巾の内側がしつこく蒸れている。八咫は一つ息を吐いてから己の抱えた布の山を見た。商人達は、全くこんなものを一体何に使うというのか。商人はこれらを引き取り、代わりに種々の物を村に置いていく。布やどろどろの液体が何の役に立つかは分からないが、それと引き換えに持ち込まれるあれこれは、村にとって無くてはならない恩恵だった。

 布を洗う場所は、小屋の裏手に引き込まれている小川でと決められている。そちらに回り込もうとして、ふと喧噪に気が付いた。

 小川を挟んだ向こう側には、ぽつぽつと等間隔に道祖神が配置されている。その奥には、視界を遮るためなのか密集した植栽があり、そして更にその奥には東屋がある。商人達は、いつもそこで荷解きをするのだ。

 父の、商人には顔と姿を見られるなという声が耳の奥に蘇った。また、そこで布を洗っていれば、植栽越しではあるが、否応無しに村の面々の気配を感じざるを得なくなる。ああ、それは厭だな、と思った。少し迷ってから、何時もの場所から少し上流にある林の中の開けた辺りで洗濯すればいいかと独り決めしてきびすを返した。

 てくてくと歩きながら、木陰の涼しさを一身に浴びる。

 八咫が抱えている布は、元は只の白い布だ。そこに脈絡もない奇怪な刺繍が一面に施されている。八咫は、小屋の奥の壁に並べられた籠の一つ――八咫の家用の籠――に放り込まれたままになっている自分の布の事を思い出した。


 この布は、使う者自身の髪で刺繍がほどこされている。


 八咫の髪も五歳までは切った事がなかった。自分の布の刺繍はできた。図案は予め用意されていたから、その通りに刺して行けば良かった。皮肉な事に、八咫は他の連中よりもはるかに針仕事が上手かった。

 八咫はこの布を本来の用途のために使った事がない。この布は白い玉様のお参りの時に使われるものだ。

 八咫は、どうしても参拝の手順が覚えられなかった。

 万に一つも粗相があってはならぬからと、祠に近寄る事すら父から固く禁じられているし、他人ひとに迷惑を掛けるからと、村長邸から東側へは決して行くなとも言われている。村長邸は村の中心にある。つまり村の半分以上先には足を踏み入れるなという事だ。だから自然脚は「西」に向いた。まあ、「西」にも立ち入るなとは言われているのだが。

 参拝には、決まり事が多かった。

 まず、祠へは必ず一人で行かなくてはならない。それは老若男女の別もなく、当然五つの幼子もその例外とはならない。

 祠についたらまず三拝。それから三拍手。すると、ちりん――と鈴が鳴る。鈴音は開扉を赦された証だ。観音開きの格子戸に手をかける時に、わずかだが必ず、ぴり、と痺れが走る。


「白い玉様、白い玉様、白い玉様。本日のお参りを申し上げます」


 祠の内に入ってから参拝者は、持参した布で玉様を綺麗に拭き清める。この布も、特別な決まりの刺繍を施された自分専用の布しか使ってはならない。それからお供えを取り換える。

 供え物は三つ。

 水。

 米。

 それから、塩。

 お参りに必要な持ち物は、この供え物に加えて、水を満たした水筒と、空の水筒。そして先の布で全てになる。

 まず、持参した空の水筒に、下げた水を移し容れる。それから、中身のある水筒から水を少し使って器を洗う。玉様を拭き清めた布で器もぬぐい、新しく水を注ぐ。

 次に、下げた米を下げた水と同じ筒の方に入れて、残りの新しい水で米が盛ってあった器を洗い、ぬぐう。その次に塩も米と同じようにする。祠の中でする事はこれでしまいだ。


「白い玉様、白い玉様、白い玉様。お参り申し上げました。どうぞ、村を永久とこしえにお守り下さいませ」


 下がり口上が聞き入れられると、鈴が鳴る。扉を閉めて、三拍手のち三拝。すると、三度目の鈴が鳴る。

 鳴れば失敗しなかった、という事だ。

 参拝者は下がりの品を手に山を下る。石段をくだり切って土に足を着け、ようやく一息を吐く。

 だが、まだ始末が残っている。誰にも会わず、一切口を利かず、布と下がりの品をもって保管小屋に行かねばならない。小屋の中には棚があり、家毎に用意された籠がずらりと並んでいる。自分の家の籠に自分の布を戻して、水筒は決められた場所に置く。その後、小屋の裏に引き入れられた水路で全身隈なく水垢離をして、そこでようやく、その日のお参りが無事にすんだ事になる。

 これが五百年の間、村で一日も欠かさず続けてこられた事だ。

 手順は絶対間違えてはならない。

 一つでも間違えると最初の三拝からやり直しになる。それだけで十分に気が重いのに、持参する水の量には限りがある。水筒に入る量は三回分しかない。つまり三度失敗したらもう取り返しがつかない。

 

 三度目も失敗した者は――白い玉様に命と体をられるのだという。


 溜息を零しつつ、八咫は腕一杯に抱えた布を改めてじっと見る。

 どういう仕組みなのか、一度でもお参りをしたものの刺繍は、少しずつ白く色を変えていく。凡そ五回程度持ち回りを経験すれば、ほぼ完全に白くなる。つまり、一戸が一月もお参りを受け持てば、一家から五枚だか六枚だかの白くなった布が集められるのだ。

 これを年間四度程村に訪う商人達が、一度につき二十程度ずつ引き取っていくのだ。勿論、水塩米の混ぜたものも共に。

 だが、ここにも例外がある。

 布の中に『色変わり』が発生しない者がいるのだ。つまり、どれだけお参りしても、刺した髪の色が黒のまま変わらないのである。

 色が変わる速度の遅い早いというのは勿論ある程度は個人差で存在する。しかしそれとは比べようもなく、本当に変わらない者が数名いた。八咫の見た限り、半分程度しか『色変わり』していない者が二人、一筋二筋しか色が白くなっていない者が二人、そして、全く『色変わり』をしていない者が――一名。

 ぐっと歯噛みをした。

 どんな思いからそうしたのか、八咫自身にもよく分かってはいなかった。強いて言うなら、自分と彼等との間にあるあまりに大きな違いに打ちのめされたからとでも言おうか。他人との乖離に直面した時、人は己の足場が如何にあやふやでもろい物なのかを痛感するものだ。特にそれが、己の劣位となる事象の場合は。

 八咫の布もまた『色変わり』をしていない。でもそれは、八咫がお参りをした事がないからだ。だから当然布の『色変わり』もない。彼等とは意味合いが全く違うのだ。

 表層は同じでも中身の実情がまるで異なっている。

 それは――本当に皮肉な事に思えた。

 遠くから流れてくる村の活気が、空気を伝わって八咫の皮膚を撫で削った。

 商人達が来た時は決まってこんな空気になる。

 いつもくる時期とは明らかに違う。八咫は訝しんだ。こんなに気色が悪いのに、村の連中は疑問にも思っていないのだろうか?

 そこで、先寝棲に言われた「疑問にも思わない」という言葉の意味を理解した。そうか。あれはこういう事か。皮肉な嗤いが我知らず漏れ出た。


 と、さわさわと小さな話し声が聞こえた。


 八咫は思わず慌てて木陰に身を潜めた。皆に姿を見られるのが厭で、皆を見るのが厭でこちらに流れてきたが、勝手に洗い場を変えている事が後で問題にされたらもっと面倒だという事に今更気付いたからだ。

 こっそりと声が聞こえてきた方へと視線を向けた。そこを二人の男が歩いてくる。一人は老人と呼ぶにはまだ少しばかり若い。よりによって村長その人だった。そして、その隣にいるのは頭巾の上に笠を被った初老の男――商人だ。

 ふと、婆がいつもするあの話の事を思い出した。

 特に理由があった訳ではない。毎日の風景、流れるいつもの婆の独り言が、具体的な形となってそこにあった。ただそれだけだ。村長と商人が話している。それがそこにある。

 ぼこり、と興味のあぶくが弾けた。


 ――何を話すのだろうか。


 こっそりと村長の顔色をうかがう。村長は商人と笑いあいながら林の奥の更に裏手へ回っていく。この先には、白い玉様の祠へ向かうための石段へ繋がる小道があり、小道の行き止まり、石段が始まるそのすぐ両脇には、白い石碑が立てられているはずだ。

 八咫は木陰に大籠をそっと隠すと、慎重に身を潜めながら二人の後を追った。

 なんとか見つからずに後をつけた八咫だったが、石塔の前で二人が止まると、すっと空気が冷えた気がした。風の流れすら止まったような異様な緊張感が辺りに垂れ込める。八咫の喉がごくりと音を鳴らし、肝がぐっと冷えた感覚がしたその時。


員嶠いんきょうの残党が出た」

 

 ぞっとするような商人の低い声に、ざわりと背中の産毛が総毛だったのを感じた。それを受けた村長の顔も、血の気が引いている。

「それは――」

「ここ一月程の内、片手に足る程度が出没し、移動していると報告を受けた。何匹かは仕留めたが、まだ一、二匹逃げ回っているようだ。このむらの口には隊の常駐があるゆえ、入り込みはしないだろうが、万一の事もあろう。邑の者に接触がないよう、お主も細心の注意を払え」

員嶠いんきょうが落ちてより二十は年を数えましょう。それ程の時をどうやってやり過ごせたのか……」

「どこにどれ程の規模で奴等が潜伏しているのかの実数はまだ分かってはおらぬ。主の言う通り二十年の沈黙を破るには意図があろう。先朝の関与を疑うべきかという声もある。お主らが関与していない事は我等とて承知している。その為の巡視である。しかし連中から接触が図られると言う事も可能性として考慮せねばなるまい。努々ゆめゆめ、背信の疑義が掛けられる事のなきよう、己が首を絞めるような真似はいたずらにせぬように。えいしゅうにおいては、自邑全体にその忠心が問われている事を周知せよ」

「――お待ちください。他邑の事は私共以外与り知らぬ事です。これまで我がえいしゅうでは、邑人に対して外部に関心を持たせぬよう努めて参りました。それを、下手に外部の者に警戒しろと注意喚起を促せば、不必要な関心を引き起こしかねません。図らずも逆に作用して、私の目の届かぬところで道理の至らぬ者らが興味本位に接触を計ろうとするやも或いは――」

 ぎろり、と商人の眼光が村長の目を射抜いた。



「――その時は残党を捕らえ、接触した者諸共首を落とせ」



 「ひっ」と息を吞み、八咫は自身の口元を抑えた。どくんどくんと心臓が激しく跳ねる。喉の奥から口の中が乾いてゆくのが分かる。

 震えながら見守っていると、やがて村長はゆっくりと商人の前に叩頭こうとうした。

「――委細承知つかまつりました」

うつわの候補は何があろうと守れ。勅命と心得よ」

「は」

 八咫は息を殺して身体を縮めた。震える手で自身の二の腕を抱いた。

 間違いない。寝棲の追手はあの商人で、恐らくあいつは……あいつら商人は、商人じゃない。

 はっ、と吐息を漏らして、大きく一息吸い込んだ次の瞬間、


 ぐっと肩を掴まれた。


「っ……⁉」

 一瞬で、恐怖と衝撃のために全身の血が沸騰した。頭の中が真っ赤になる。絶叫と悲鳴が口からほとばしるのを、咄嗟に口元を抑えて何とか耐えた自分を褒めたいと思った。

 蒼白になりながら恐る恐る振り返る。――するとそこには、自分と同じく青い顔をした熊掌ゆうひがいた。

 熊掌は口元に人差し指を立てて、黙るようにと言外に告げてから、親指を立てて自分に付いてくるようにと示した。物音を立てぬよう静かにしかし急いでその場から離れる。

 途中で大籠の事を思い出し、熊掌の手首を掴んで止めた。思いの外細い手首だった。指で指し示して荷がある事を伝え、急いで抱え戻る。これ以上はないという静かさと速さで二人は小屋も通り過ぎる。その先には高く白い土塀がかなりの大きさの土地に巡らされているのが見える。壁の傍を走り切り、熊掌が「こっちだ」と小声で招く方に従えば裏門の脇に小さな潜り戸がある。そこから中に潜り込むと脇にあった中低木の影に滑り込んだ。二人して顔を見合い、息を整える。そこは村長の邸宅の敷地内だった。

 息も抑えていたからか、全身が脈打ち、頭皮からも汗が噴き出てくる。

「ふう」

 額の汗を拭きながら、熊掌が木陰から僅かに顔を出し、辺りに視線を巡らせた。どうやら人影は認められなかったらしい。もう一つ、安堵の吐息を漏らした。

 そして、すっと横目を八咫にくれた。

「聞いたな」

「……。」

 熊掌は村長の嫡子だ。熊掌ゆうひという。年の頃は確か十七だったか。長身で細身だが、その印象とは似ても似つかぬ剛腕の大食漢だ。腰に届く長髪を襟元で結わえている。これだけ長さがあれば刺しやすい。間もなく切る時期だなと、場違いにも思った。否、むしろ余所事を考えて気を散らさねばやっていられない心境だったのかも知れぬ。

 八咫はこくりと生唾を嚥下した。

 ここは果たして、熊掌に害意がないと信じてもいいものだろうか。八咫を庇うような行動をとって見せたが、彼は村長の子である。助けた行動を見せて警戒を解き、何かしらの自白自供をさせようという腹かも知れぬ。八咫には何が正解なのか判別がつかない。一つ間違えたらもう取り返しがつかぬ。あれこれと逡巡した挙句、沈黙を守っていると、熊掌は「うん」と首を縦にした。

 土の上にへたり込んだまま彼を見上げる八咫の目の前に、同じくしゃがみこんだ。

「あれはどう聞いても、村長と商人の話す事ではないよな」

「……、」

「と言うか、あれは商人ではないよな。僕はそう思ったんだが?」

 同じ事を考えていたので、八咫は首肯して同意を示した。

「見たか? 父が地にぬか付いているのを」

「ああ。……見た」

「我が父がああするという事は、それなりに彼等と我々の間には、重い身分差があると思うべきという事だな」

「熊掌、あの」

「――前々から、父には疑問を持っていたんだ」

「え」

 熊掌は、やおら腰の袋に入れていた果実を取り出す。しばらくそれを矯めつ眇めつしてから、突如豪快にかぶり付いた。物を食べている時、熊掌は少し腑抜けた顔になる。それが、少しだけ長鳴ながなきに似ていた。熊掌は、長鳴の兄にあたる。

「この村は、おかしい」

 ぷ、と種を一つ吐き飛ばす。果汁で濡れた唇を手の甲で拭う様が、なぜか生々しく感じられた。不思議だった。熊掌は村長の嫡子で、人柄もよく、村の中心として機能している。そんな青年が、自村に対してかねてから疑念を抱いていたと八咫の前で開陳している。

「何かしらの隠匿がちょいちょいあるんだよなぁ」

 例えば――と、村の中心部辺りを指さす。

「通常は集落と外界を隔てる辺りに設置されるはずの道祖神が、東の崖にある村の入り口じゃなくて、なぜか村の中心近くにばらばらと点在しているんだ」

「ああ、そう言えば」

 今朝、八咫が蹴飛ばした石をぶつけたのもそれだ。

「お前気付いてたか? あれ、保管小屋を中心にして囲むように散らばってるんだよ」

「――え」

「うん。普通気付かないと思う」

 保管小屋というのは、言うまでもなくお参りの布や下がりの品を保管している小屋の事だ。他にそう呼ばれる小屋はない。正しく、先程まで八咫がいた場所で、今も父が中で作業をしている。

「あと――これはすまん、八咫は知り得ない事だと思うが、白い玉様の祠に向かう石段の起点の脇にも同じように石碑があるだろう? さっき父達が話をしていた場所だ。あれな、石段自体の脇にも同じ石で作られた石塔が点々と続いていて、祠周りも、その裏にある堂もそれで囲われているんだ」

 熊掌は、食い終わった果実の芯を腰の袋にしまい込んだ。その辺りに捨ててしまわない辺り、変に行儀がよくて、少し笑ってしまった。

「ふつう、ああいったものは何かと何かを隔てるためにあるんだ。じゃあ保管小屋と白い玉様を隔てる理由はなんだ? 白い玉様は村を守ってくださるんだろう? 村人から隔離する理由がない」

「あの、敢えて聖域だから、という扱いって事は……?」

「それじゃあ、他の家はみんなその聖域とやらから遠巻きに建てられているのに、ここ、村長うちの邸だけ石碑の内側に立てられているのはどうしてだ? 僕達は聖域の住民なのか?」

「ああ……確かに」

 熊掌は、心底気持ちが悪そうに「他にも色々と引っかかる事がある。僕はずっと、気持ち悪くてならなかったんだ」と小さくつぶやいた。

 八咫は今度こそ、自分は考えを改めるべきだったと反省した。先の寝棲とのやり取りで、村の人間は皆、何の疑問もなく諾々と生きているような気がしていたが、自分が馬鹿だったのだ。皆恐らく、一々口には出さないだけで、あらゆる考えがその中に泥の如く沈んでいる。

 要はその泥を、胸襟を開いて打ち明けて貰えない自分に原因があったのだ。心をさらすに値しないと思われているから、自分は誰の泥にも触れられなかったのだ。

 熊掌はただの大食漢ではないし、愚鈍な村長の息子でもなかった。今、彼が八咫に泥を触らせてくれているのは、計らずも彼等が同じ脅威に遭遇し、共有したからに他ならなかった。八咫自身の評価ではなく、偶然という名の産物である。八咫の身の内に今生まれたのは、心からの謙虚と呼ばざるを得ないものだった。

「ねぇ八咫。さっきの表情から察するに、何だか分からないけれど、何かの残党とお前、接触しているね?」

 八咫は腹を括った。心の中でおすくに、ついでにおっさんもすまん、話すぞと詫びる。ごそっと被り続けていた頭巾を外す。いい加減汗が滴り落ち始めていた。

「ああ。それらしい奴を見た」

「見ただけか?」

 思わず笑ってしまった。誤魔化せる隙が無い。

「いや。話した。追われている事は認めていた」

「村の中にいるのか?」

「――いや、辛うじて外、と言っていい気がする」

「ふむ」

 熊掌はわずか眉間に皺を寄せた。

「それは、八咫。お前、知られたらかなりまずいな」

「すげぇ拙いよ! だから」

「ああ、言わない言わない。口が裂けても言わないから安心しろ」

 くつくつと喉の奥で笑いながら熊掌は八咫の頭をがしがしと撫でた。扱いが完全に弟に対するものだった。どぎまぎしながらその手を払いのける。

「おいっ、お前果実それ食ってた手、拭いてねぇだろ!」

「あ」

「俺の髪で拭くんじゃねぇよ! ああもうっ! べったべたじゃねぇか!」

「悪い悪い。勘弁してくれ」

 言いながら手拭いで八咫の髪を拭いてくるのがくすぐったくて、八咫はそれからもしかめっ面で逃げようとしたが、腕を掴まれ、彼の前に力尽くで座らされた。抵抗などしようがない腕力と握力だ。年長者からこうやって構われる事などついぞなかったので、八咫は只々ぶすくれた顔をして見せるしか出来なかった。


 ――熊掌は、そんな不器用な少年のうなじを微笑みながら見下ろした。


 今、この少年にまつろう事態は思う以上に重いであろう事を、熊掌は理解していた。それを胸の内に留め置いたまま、自身が汚した少年の髪をぬぐう。時を置かずして八咫も大人しくされるがままになった。諦めたのだろう。

天網恢恢てんもうかいかいにして漏らさずとは言うが、僕はお前を悪とは思わないから、大丈夫だろう」

 八咫は「はあ?」と難しい顔で熊掌を振り仰いだ。

「熊掌の言葉は難しい。何を言っているのかサッパリ分からん」

「そりゃ僕の家の人間は文字を学ばされるからね。多少の知識は人より上回っておかないと、何のための優遇か知れたもんじゃないだろう?」

「の割に、お前の弟は全く賢そうに見えないんだが?」

 熊掌はぶっと噴き出した。

「あいつは中々、優しすぎるところがあるからな」

「優しいだ? あいつは単に日和見で流されやすいだけだろ。だから止めるべきも止められないでかじの腰巾着になってんじゃねぇのか?」

 思わず本音を漏らした八咫に、熊掌は呵々大笑した。

「手厳しいな。まあ、馬鹿にしか見えない部分もまだまだあるだろうが、長鳴は実は僕よりも余程学が身についているんだよ」

「学があるなら病身の者に無体を強いる無益を理解しろって言ってやってくれ。梶火のほうにもな」

「ああ。それはもう本当に申し開きのしようがないんだが、あいつらはあいつらで思うところもあるんだよ。だからといって許される話ではないがな。姿勢の未熟は僕が代わりに謝ろう。済まない」

 と、遠くから八咫の名を呼ばわる声がする。熊掌がふいと顔を上げた。あれは、この目の前にいる少年の父親の声だ。彼は村で唯一の薬師で村長邸への出入りも頻繁だから、熊掌が聞き間違えるはずはない。

「八咫、呼ばれているの、それの件じゃないか?」

 大籠の中身を指して見せると、「いけねぇ!」と八咫は飛び起きて籠を抱えると走り出した。と、ふいと立ち止まって真剣な顔で振り返った。

「熊掌」

 名を呼ぶ声に、熊掌は真顔で頷く。

「誰にも言わん。信じろ。行ってこい」

 八咫もこくりと頷くと、今度こそ彼の父の元へ駆け出して行った。



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