第1話 『ピータン粥』

「ああ、ハルカ。可愛いよ」


 ヤスダさんの声がする。


「愛してるよ」


 愛してる、だって!!!!

 この世で一番安っぽい言葉。


 でもヤスダさんの発するその安っぽくてロマンチックな言葉の全ては、まるでタコ糸のように細長くなってその一本一本が俺の全身を絡め取っていく。絡まり合った無数の糸は俺の手足の動きも、呼吸も、頭で何か考える気力も、全部を奪っていってしまう。


「なんて綺麗なんだ」


 そうして何も考えられなくなって、身動きも取れなくなって、それが俺はとても気持ちがいい。


「君なしじゃ生きていられないよ」


 俺もです俺もあなたなしでなんて生きられませんだからどうか俺を捨てないでください。


 そう言おうとした俺の唇を、いつの間にか目の前に姿を現したヤスダさんの唇が塞ぐ。

 ああ、この世にこれほどまで俺の唇とぴったりフィットする唇が他にあるだろうか。

ヤ スダさんの熱い舌が俺の口腔の奥深くまで、蛇のように滑り込んでくる。ああ、これでは息ができない。息ができない。息ができない。苦しい。気持ちがいい。何も考えられなくて、苦しくて、とても気持ちがいい。


 妻とはもう終わってるんだ俺が好きなのはハルカだけだ娘が成人するまでは今日もとても綺麗だねごめんその日は娘の運動会があるんだハルカなんでも好きなものを買ってあげるこんな服似合うんじゃないかなハルカ今度一緒に旅行に行こう温泉にでも入ってのんびりしよう、ハルカハルカハルカ…


 ヤスダさんは嘘ばっかりだ。優しいけれど嘘つきだ。

 だから俺も嘘を突き返す。「大丈夫だよ」と。


「ハルカ」


 あなたの声で呼ばれる自分の名前が好きだ。


 ハルカ。ハルカ。ハルカ。


 ああもっと、もっと俺の名前を呼んでください。


 ハルカ、ハルカ、ハルカ…ニャン!


 ニャン?


 ニャンッ!ワニャンッ!ワニャニャンッ!



 奇妙な甲高い動物の鳴き声と、顔面を雑巾で撫で回されているような感触で目を覚ました。口を何かで塞がれて息ができない。

 慌てて飛び起きるとそこは見たことあるようなないような部屋で、白い清潔そうなカーテンの隙間からは朝日らしい光が燦々と差し込んでいた。全身が嫌な寝汗でびっしょりだった。


「おはよう、ハルカくん」


 声のする方に視線を向けると、そこにはいつぞやのくいだおれ人形そっくりの男が立っていた。


「あんた、なんで」

「ええ、もしかして覚えてないのぉ?」


 頭の芯が鈍く痛んで、胃液が今にも逆流してきそうだった。昨夜も俺はひどく飲んだらしい。


「突然やってきて、飲むぞ!って大騒ぎして、うちの冷蔵庫のビール全部飲んで、そのまま寝ちゃったんだよ」

「なーんも覚えとらん」

「じゃあこの子と会ったことも覚えてない?」


 吐き気を堪えながら男の方を見ると、その腕の中に、何やらモゾモゾと動く茶色い物体が見えた。

 犬だ。

 そこにいたのは信じられないほど小さな芝犬だった。子犬って、そんなに小さいのか。


「ほら、ハマチ。ハルカくん起きたから、ご挨拶して」


 男がそういうと、犬は「ワニャンッ」と鳴いた。俺が聞いた奇妙な鳴き声はどうやらこいつの鳴き声だったらしい。


「名付け親のハルカ君だよ〜嬉しいねぇ」

「おい、やめろ。あれは冗談で言ったんだぞ。それになんだその妙な鳴き声は。本当に犬なのかそいつは」

「ワニャンッ」

「頭に響くからやめてくれ…」

「お水飲む?コーヒーもあるけど」

「…コーヒーくれ。熱々で」


 男が子犬をケージに戻して、コーヒーを淹れている間、俺はベッドに仰向けになって昨夜の出来事を思い返してみた。

 昨夜はそうだ、ヤスダさんと会う約束だった。2週間ぶりだった。

 でもヤスダさんは「急な仕事」で突然来られなくなった。ヤスダさんの言う「急な仕事」とはつまり奥さんと子供のいる家から抜け出せそうにない、という意味だ。

 それ自体は別に珍しいことではない。彼との5年間にわたる関係の中で、何度もあったことだった。

 でも昨夜の俺はどうしてもヤスダさんに会いたかった。別にその事実に深い理由や意味はない。恋というのは時としてそういう理屈に沿わない作用をもたらすという、ただそれだけだ。(恋だって!なんて気持ち悪い言葉だ!)

 何かを振り切るように、俺はゲイが多く集まるクラブに行き、酒を煽りまくった。そして聞いたこともない最新の洋楽のナンバーに合わせてそこら辺のゲイたちと踊ったり騒いだり何がそんなに面白かったのかは全く思い出せないが爆笑したり、そんなことをしていた。確か2、3人とキスをしたり、ズボンの上から股間を揉み合ったり、そんなこともしたような気がする。

 それ以降の記憶は一切ない。


「はいどうぞ。インスタントだけど。砂糖とミルクは?」

「いらない」


 一度か二度寝ただけのこの男の家を覚えていたのは、単なる気まぐれだと思われる。

俺は起き上がってコーヒーを受け取り、それを啜りながらケージの中にいる犬を眺めた。

犬も俺をみている。警戒しているのか、時折後退りしながら「ワニャンッ」と鳴く。

 当然だ、俺が犬だったとしても、俺のような、夜中に突然家に押しかけるような胡散臭い男、警戒する。


「あいつ俺を怖がってるみたいだけど」

「ハルカ君は誤解されやすいタイプだから」

「あんた俺の何を知っているんだ」

「でも寝てるハルカくんを見て自分から起こしに行ったんだよ。ねえハマチ」

「ワニャンッ」


 なるほど、さっきのはこの犬に顔面を舐められてる感触だったのか。


「なあ、俺なんか、寝言言ってなかった?」

「…何も言ってなかったと思うけど」


 嘘だ、と思った。

 俺はうんざりした気分で、大きくひと口コーヒーを飲み込んだ。


「ちくしょう、なんてまずいコーヒーなんだ。泥水をすすっているようだ」

「最後に会ってから2週間ぶりだね」

「そうですか」

「僕もハマチのお迎えとか、慣れない世話でてんやわんやだったんだけどね」

「…犬を飼ったことは?」

「ない。猫とウサギとハムスターはあるんだけど。ハルカくんは?」

「あんた、俺が犬や猫を愛でるような男に見えるか?」

「うーん」


 男は困ったように笑った。


「見る角度による、かな」


 一体この男は何を言っているんだろう。
 馬鹿馬鹿しくなった俺はマグカップの中のまずいコーヒーの残りを一気に飲み干して、それを男に渡すと、再び横になった。

 その時ようやく、自分が下着一枚の姿だと言うことに気がついた。


「なあ、俺たち昨夜…」


 俺が天井を見たままそう言いかけると、男は「やってないよ」と言って笑った。


「そうですか」

「服を脱いで『やろうぜ』って言い出したと思ったら、そのまま寝ちゃった」

「…そうですか」

「何かあったの?」

「あんたは俺たち酔っ払いという人種が、みんなそれ相応の理由があって夜毎酔っ払ってると思っているタイプなのか?実におめでたいな」


 男は何も答えなかった。俺もそれ以上何も言う気はなかった。


「ハルカくん、とっても痩せてるね」

「そうかあ?」

「なんかご飯作るから、食べていかない?」

「いや、今はとてもそういう気分では…」

「お粥炊くからさ、ちょっとだけでも食べてみなよ。そんで出来上がるまで、もうひと眠りすればいいよ」

「いやだから…俺は」

「食べれば二日酔いも良くなるよ」


 そう言って男は台所へ消えていってしまった。

 俺は仕方なく枕元に置いてあったスマホを開いて、スライドする。

 ヤスダさんから不在着信やメッセージが何通かあったけど、開いて確認する気にはなれなかった。

 スマホを放り出すと横になったままの姿勢で、ケージの中の犬を眺めた。

 毛並みのいいその小さな茶色い芝犬は、俺と目が合うと「なんや?」とでも言いたそうな顔で首を傾けた。


 犬か。

 ふと、俺はかつてゲイ用のネット掲示板で自分が「雌犬」と書き込まれていたのがあったのを思い出して、吹き出しそうになった。大衆演劇や昼ドラじゃあるまいし「雌犬」って。ちなみにこの場合、読み方は「メスイヌ」ではなく「ビッチ」が正しい。

しかしその表現は皮肉ながらも言い得て妙で、つまり俺は新宿二丁目あたりじゃ少しばかり名の知れた尻軽のヤリマンのスケコマシで、そう呼ばれてもなんら反論の余地などないのであった。

その日会った男と簡単に寝るし、知り合いの彼氏や旦那とも平気で寝るし、そうして一度寝た男のことを簡単に忘れる。罪悪感も抱かない。

 登山家が山を目の前にすればまず登るのと同じように、本能で目の前の男と寝ているという、ただそれだけだ。セックスしたいと思った時、俺とセックスしてくれる人とする。それだけだ。

セックスなしでも会いたいと俺が思うのは、ヤスダさんと、ほんの僅か数人の酔っ払いの友人達だけだ。


 気がついたら少しだけ、眠っていたらしい。

 目を覚ますと部屋の中は、お粥の炊けたらしい甘い香りと、子犬の乳臭い体臭が入り混じった匂いが充満していた。


「起きられる?こっちおいでよ」


 男はテーブルにランチョンマットを引き、お粥の入った茶碗をふたつ手に持って運んできた。

それ以外にも、小皿や小鉢に入ったいくつかのおかずが並んでいた。梅干し、塩、メンマ、味のり、生卵、納豆、スライスしたピータン。


「ピータン?」

「ピータン粥って食べたことない?美味しいよ」

「そうじゃなくて、一般家庭にしれっとピータンがあるのが驚きなだけだ」

「そう?僕は良く食べるけどなあ」


 俺は椅子に座り、目の前で湯気を上げる真っ白なお粥を眺めた。

 男は向かい側に座り、そんな俺をただ見ていた。

 俺はレンゲを手にして、お粥をひと匙すくって、それから口に運ぶ。

 何の味付けもしていない、まっさらなお粥を食べたのは一体何年ぶりだろうか。

 何の味もしないかと思っていたのに、とても甘くて、温かった。

 黙々と食べ続ける俺を見ながら、男がちらとベッドの上の俺のスマホに視線を移したのが見えた。


「昨夜から、ちょいちょいスマホが鳴ってるみたいだけど」

「知ってる。ほっといていいから、あれは」

「…そう」


 男はお粥に梅干しを乗せて、それを崩しながらピンク色に染まった米をレンゲで口に運んだ。

 梅干しという食べ物が死ぬほど嫌いな俺はそれから視線を逸らし、ケージの中の犬を眺めた。

 犬も俺を見ていた。尻尾をゆらゆら左右に揺らしながら、時々鼻を「フンッ」と鳴らしたりしている。

 それを見ていたら、何だかよくわからないが涙が流れてきた。俺はそれを拭うこともせず、黙々と何の味付けもしてないお粥を口に運び続けた。

 それを見ても男は俺に何も聞かなかったし、犬も何も聞いてこなかった。男は梅干しを溶かしたお粥を食べ、犬は何もせずただこちらを眺めていた。


 気がつくと俺の茶碗は空になっていて、男は少し嬉しそうにそれを見て「おかわり、あるよ」と言った。

 俺は黙ったまま、空の茶碗を男に差し出した。

 そして二杯目のお粥は、ピータンをどっさり乗っけて勢いよくかきこんだ。


「ねえ、ピータン、って漢字で書ける?」


 男が唐突にそう言った。いつも唐突なことを言う男だと思った。


「書ける」

「嘘だぁ」


 俺は側にあったメモ帳とボールペンを取って、テーブルの上で「皮蛋」と書いてみせた。泣きながら。


「怖い字だよな」

「どこで覚えたの?」


 しばらく考えたが、二日酔いの頭では思い出せそうになかった。どうせまた、どこかの男のにでもベッドの上で教わったのだろう。台湾人とか。



「ハマチ、抱いてみない?」


 何だかよくわからない涙が収まって、食後に男と差し向かいでまずいコーヒーを飲んでいると、男がまたしても唐突にそんなことを言い出したので、俺はコーヒーを吹き出しそうになった。


「何を言い出すんだ」

「名付け親なんだから」

「だからあれは冗談だと…」

「なんで?可愛いし、僕は気に入ってるよ」


 そう言って男は犬…ハマチを抱き抱えると「ねーハマチも気に入ってるもんねー」と話しかけた。

 ハマチが再び「ワニャンッ」と鳴く。


「ほらね」

「そんなふざけた名前嫌だ、って怒ってるんじゃないのか?鳴き方が変だぞ」

「はい、ハマチ。もうひとりのお父さんですよ〜」

「お父…おい、こら」

「はい、ここに手を当てて…」


 男に促されるまま、犬の腹に手のひらを当てるようにして、両手で抱き抱える。

 思ったよりも重量感があり、骨太な感じがした。見た目よりも中身が詰まっているらしい。

 吠えたり暴れたりするかと思ったが、ハマチは俺の目をじっと見据えて微動だにしない。

 触れた手のひらから、ドクドクと心音が伝わってくる。こんなに小さな生き物が、こんなに強く心臓を脈打たせているのか、と思うと何だか不思議だった。あと口が臭かった。

 そのままの姿勢で、しばらくじっとハマチと顔を見合わせていた。するとハマチの両の口角が、クイっと上がった。笑っているようだった。


「ああ〜笑ってるね〜。きっと嬉しいんだよ〜」

「そ、そいうものなのか?」


 不覚にも、悪くない気分だった。

 黒目がちで、垂れ眉。でも少し吊り目。口の隙間からピンク色の舌がだらりと垂れている。

 その間の抜けた表情に、つられて俺も顔の筋肉が緩む。

 しかし次の瞬間。


「ワニャーン」


 泣きそうな声でハマチがそう鳴き声を上げると、何やら生暖かい感触が太ももの辺りに。


「あ、おしっこした」


 男が呑気な声でそう言う。


「お、おい、何とかしろ!」

「しょうがないよ、赤ちゃんだもん」

「しょうがなくない、お前の犬だろ、ほら、パス!」

「もう遅いよ〜。大丈夫、ハルカくんほとんど裸じゃん。お風呂貸すし、パンツは後で僕が洗ってあげるよ」

「そういう問題ではない!」

「赤ちゃんのおしっこは綺麗だから大丈夫」

「そういう問題でもない!」

「ハンサムなハルカくんに抱かれて嬉しくて、嬉ションしちゃったんだねえ、ハマチ」


 俺がハンサムなことに異論はないが、しかし一体この男の落ち着きようはどうだ。

 自分の飼い犬が来客に小便をかけたらもう少し動揺するものではないのだろうか。

 俺は初対面の時の男が、自分の犬の名前を俺に付けさせよとしたことを思い出した(そして実際に命名してしまったらしい)

 温厚そうな顔をしているがこの男、やはりサイコパスかも知れない。この犬だって、大きく育てて食べたりする気かも知れない。となればその次は俺か?さっき食べたのは本当に俺の知ってるピータンだったのだろうか。

 俺は警察に事情聴取を受ける時のことを考えて、男のデータを可能な限り握っておく必要があると考え、こう聞いた。


「で、ところで、おたく名前なんて言うんだっけ?」

「えぇ?まさかこの間の名前覚えてないってあれ、冗談じゃなくて、本当だったの?」


 呆れたように男が言う。


「ひどいなあ、僕はハルカくんのこと、好きになりそうって思ってるのに」

「いや、あの日はちょっと飲み過ぎちゃって…って、え、何?好き?

「いつも飲み過ぎてるなぁ、ハルカくんは」


 犬の小便にまみれながら、俺は今度こそシラフで男の名前を聞いた。

 こんなシチュエーションは多分人生のうちに二度とないので、きっともうその名前を忘れることはないだろう。この先、2人の間に何が起きても。


 男の名前は、ユウタと言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゲイカップル、犬を飼う @ryo0811

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ