ゲイカップル、犬を飼う

プロローグ 『はまち』

 その男は、子犬連れで俺の世界に踏み込んできた。


「一緒にこの子の名前を決めてほしいんだ」


 ベッドの上で男は裸のまま、スマホの画面に映る、小さな豆柴の幼犬を俺に見せてそう言った。

 同じく裸のまま俺はぼんやりとその子犬を見た。二日酔いでひどく頭が痛むせいか、そもそも俺が動物全般に興味がないせいか、画面の中の小さな犬を見ても、つゆ程の感慨も湧くことはなかった。

 だというのに。


「もうすぐブリーダーさんからお迎えするのに、まだ名前が決まらないんだ」

「じゃあポチでいいじゃねえか、もう」


 カーテンの隙間から差し込む光が眩しくて、俺は布団をかぶった。

 何が犬の名前だ。そもそも飲みすぎたせいで、昨夜初めて会ったばかりの、隣にいる(おそらく寝たであろう)男の名前も俺は思い出せずにいるというのに。タカシ?ヒロキ?マサキだっけ?

 SNSのゲイアカウントで知り合って、昨夜初めて飲みに行った。

 飲みながら俺は、目の前の男のことを、背が高くて、メガネをしていて、酒を飲むと頬だけ丸く赤くなるので、くいだおれ人形にそっくりだと思った。別に好みでもなんでもない。暇だったし、最近色々あったし、とにかく誰かと思いっきり酒を飲んで、あわよくば寝たかったというそれだけだった。誰か、俺をよく知らない男と。


「血統書の関係で、明後日までに決めなきゃいけないんだよ」

「なんで俺がそんなことを」


 どうせ一度きりだけの関係の相手に、なぜ自分の犬の名前を委ねようと思うのか。サイコパスとかなんだろうか。今すぐ服を着て、逃げるべきかもしれない。


「ねえ、明日の夜って暇?」


 ベッドから抜け出してシャツを羽織ると、男が言った。

 俺は怪訝な気持ちで男を振り返った。男は素っ裸で、俺の下半身はまだ丸出しだった。男の首筋にはいくつものキスマークが残っていた。俺がつけたんだろうか。



「僕さ、食べ物の名前なんか可愛いと思うんだよね。たとえば、おもちとか、つくねとか」

「犬鍋とか?」


 翌日の夜。

 どういうわけか俺は結局、新宿にあるヤニくさくて大してうまくもない行きつけの蕎麦屋で、くいだおれ人形そっくりの別に好みでもない男と、日本酒のお猪口片手に再び差し向かいで座っていた。

 なんでこんなにヤニくさい蕎麦屋の行きつけかと言うと、俺が死にぞこないのヘビースモーカーで、この辺りでタバコが思いっきり吸える店がここだけだからだ。

俺はマルボロライトに火をつける。ドラマ『セックスアンドザシティ』で、主演のサラ・ジェシカ・パーカーが吸っているのと同じタバコだ。だから何だ、という話だが。


「それかポール…ジョン」

「ポール?ジョン?芝犬に?」

「ビートルズが好きなんだよ」

「リンゴにしろよ」

「なんか女の子っぽくない?この子はオスなんだよ」

「リンゴ・スターだって男じゃねえか」


 だし巻きと刺し盛りと栃尾揚げをつつきながら、俺たちは大吟醸の冷やをグイグイ空けていった。

 男も俺と同じく、酒はかなりいける口らしい。


「はまち」

「え?」


 刺し盛りからはまちの刺身をひと切れ箸でつまみ上げて、俺は何の気なしにそう言った。


「ハマチ、なんていいじゃん。ちょっと気の抜けた感じで」


 俺は男から見せられた子犬の写真を思い出しながらそう言った。垂れ眉で、気が弱そうな、へっぽこそうな見た目に、同じく気の抜けた「ハマチ」という響きが、結構マッチしている気がした。

 もちろん完全に気まぐれだったが。


「ハマチ」


 男は俺と同じようにハマチの刺身をひと切つまみ上げてそうひとりごちた。


「最後に、チ、がつくのはいいね、確かに。可愛い」

「おいおい、本気にするなよ。冗談だよ。ハマチ、ハウマッチ。なんつって」


 しかし男はまんざらでもなさそうな表情で「ハマチ…ハマチ…」と何度も口の中で唱えていた。それからハマチの刺身にわさびを乗せてから、醤油をつけて口に運んだ。わさびを醤油に溶かさず刺身に直接乗せるその食べ方に、俺はひどく好感を持った。だから唇の端に醤油がひと雫ついているのを見つけた時、俺はそれをおしぼりで拭ってやった。


「大きくなると名前が変わるんだよね。出世魚っていうんだっけ。ブリの前がハマチ、だっけ?」


 男はまだハマチの話をしている。


「関東と関西で呼び方が違うんだよ。ツバス、ハマチ、メジロ、ブリ」

「へえ。あれイナダは?」

「それは関東。ワカシ、イナダ、ワラサ、ブリ」

「よく知ってるねえ。もしかして魚屋の息子とかなの?」

「常識だろ」


 本当はずっと昔、料理人のセックスフレンドが寝物語に教えてくれたのを、素晴らしき記憶力の無駄遣いをもってして、なんとなく覚えていただけだった。色が黒くて、手がゴツゴツしていて、気のせいか皮膚はいつも少し潮の味がした男だった。肌の味も、性器の形も、ブリの出世順もまだはっきりと思い描けるけれど、顔はモザイクがかかったかのように、もう思い出せない。当然だ。もう二度と寝ない男のことを、俺はわざわざ思い出したりはしない。


「出世魚か。縁起がいいね」

「じゃあ大きくなったらブリに改名するわけ?ブリちゃーんって?やめろやめろ。ブリトニー・スピアーズのファンだと思われるぞ。それじゃあまりにもゲイ丸出しだ」


 マルボロライトの煙の向こうで、男は何やら満足げな顔で笑っている。ブリトニー・スピアーズって、今も活動しているのだろうか。

 男が店員に新しい酒を頼んでいる。よく飲む男だ。


「ねえ、シメの蕎麦も頼むでしょ?何人前にする?」


 おまけによく食う。まったく、とんだ健啖家だ。


「4人前。あ、この二八蕎麦な。あと栃尾揚げおかわり。なあ、ハマチよりトチオの方が男らしくないか?」

「ねえねえ、穴子天半分こしない?」

「穴子ってキングオブ天ぷらだよな」

「それは舞茸でしょ。あ、ここ蕎麦寿司もあるよ。食べたくない?」

「このきったねえ店にそんな気の利いたもんあったっけ?じゃあそれ頼んで、シメの蕎麦は2人前にしとこうか」


 タバコが吸えるというだけで大してうまくもないと思っていたはずのこの店の料理や酒が、なぜかこの日はひどくよく進んだ。


「ハマチって漢字でどう書くんだろ。調べてみよっと」


 ひと通りオーダーしたものが揃ったあたりで、男がそう言いながらスマホに指を滑らせる。そういえばどう書くんだろう。これは料理人の男も教えてくれなかった。


「魚が反ると書いて、ハマチだってさ」

「エロいな」

「ええ、どこが?」

「反ってるなんて、まるであんたの×××みたいじゃねえか」


 男が飲みかけていた日本酒を吹き出した。もったいない。せっかくの秋田の名酒「まんさくの花」を。華やかで実にいい酒だ。俺は自分のお猪口を傾けて、その中身を一気に飲み干す。


「動揺することない。俺は好きだぞ」

「と、ところでハルカくん」


 突然男から自分の名前を呼ばれて、俺は一瞬手を止めた。

 ゲイには2丁目ネーム的な、偽名を使う奴が多いが、俺のこの名前は本名だ。

子供の頃は女みたいだとよく同級生にからかわれたし、中学時代のあだ名はセーラーウラヌスから取って「ウラヌス」だった。(『美少女戦士セーラームーン』シリーズに登場するセーラー戦士のひとり、セーラーウラヌスの変身前の本名は「天王はるか」)

 昔は死ぬほど嫌いだった自分の名前だが、しかしこうしてゲイになってしまった今、この少しばかり中性的な名前も何かの因果だろうと、愉快に受け入れている。


「なんだね」

「仕事は何してるひとなの?」

「官能小説家」


 男が再び酒を吹き出した。だから、勿体無いって言ってんだろ。


「なんていうか、キミはとてもユーモアのあるひとだね」

「…今、俺なんか面白いこと、言ったか?」


 どうやら男は俺の大真面目な答えを、小粋でウィットに富んだジョークだと受け取ったらしい。

 それにしても、他人から「キミ」だなんて呼ばれたのはなんだかひどく久しぶりな気がした。「ユーモア」と言う言葉を聞いたのも久しぶりだ。

 変わった男だ、と俺は思った。だから。


「ねえハルカくん、今夜もうちに泊まる?」


 そんな男の問いに「あーいいよ」と軽率に答えてしまった。まあ別に構わないだろう。俺はいつだって暇と時間と性欲を持て余している。

 それから、蕎麦寿司を口に放り込みながら、さっきからずっと聞こうと思っていた問いを男に返した。


「ところでさ。おたくの名前、なんだっけ」


 男はキョトンとした顔で穴子の天ぷらを咀嚼して、そして少し笑ってこう言った。


「ほんとにユーモアがあるひとだねえ」


 …今、俺なんか面白いこと、言ったか?


「ああ、ハマチに会うのが楽しみだなあ」


 男は楽しそうに、大根おろしと生姜を、めんつゆへドサっと投下した。そうだ、穴子の天ぷらはしゃらくさい塩よりも、びちゃびちゃめんつゆと大根おろしにに浸して食べた方がうまいに決まっている。

 さすがに酒が回ったのか、その頬は昨日と同じく丸く赤く染まっていて、本当にくいだおれ人形そっくりだと思った。

 俺はその夜何本目かのマルボロライトに火をつけた。


 ハマチ、ハウマッチ。


 煙を吐き出しながらそう呟くと、妙に愉快な気分になった。

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