あしたの天気

乃々沢亮

~断崖の草原にて~

 梢の間から空がのぞくその木立の道を抜けると、はっとするように視界が開け平らな草原へと出る。

 道は草原にも続いていて、その先へ行けば海を一望できる断崖へと通じている。

 ここはこの辺りでは景勝地と知られる観光公園だった。公園と言っても遊歩道のところどころにベンチが設えてある他は、売店も遊具も展望鏡もないのである。


 朝海あさみは草原の道を海に向かってゆっくりと歩いていた。灰色の低い雲に覆われている空が、秋の終わりの寂寥を感じさせる。

 海風はもうだいぶ弱くなっていたが、それでももうずいぶんと肌寒い。朝海は何か羽織ってくればよかったと後悔したが、すぐにそう思った自分に苦笑した。

 

 朝海はこの公園によく来るが、ここが好きだというわけではない。この地に生まれ育った朝海からすればこれは見慣れた風景であり、景勝地といわれてももはや綺麗だとか雄大だとかの感想は失っていた。

 ではなぜ、と問われるなら、ただ何かに誘われるように、としか朝海にも答えようがない。


 道の先をただ見つめながら朝海は歩いていた。空も海も光の輝きを飲み込んで愚鈍な顔をしている。

 こんな日のこんな時間に観光客なぞいるはずもなく、公園は荒涼としていた。だから道の先のベンチに人影を見たとき、朝海はぎょっとして思わず歩を止めてしまった。

 少しの不安を覚えつつ朝海はまた歩き出した。ゆっくりと警戒しながら。

 近づくにつれその人影が野球のユニフォームを着た少年であるらしいことがわかって、朝海はほっとするとともに怪訝に思った。少年はキャップを目深にかぶり俯いたままで、景色を見に来ているふうではなかった。

 朝海の胸にざらりとした感情が流れ込む。


「キミ?」


 呼びかけたが少年は反応しなかった。小学四年生くらいだろか、膝に乗せたスポーツバックを抱える腕が、夏を過ごしてきたにしては白かった。

 朝海はさらに数歩近づいてまた声を掛けた。


「ねえ、キミ」


 少年は弾かれたように顔をあげびっくりした顔で朝海を見た。そして次の瞬間、微かに怖れるようなひるんだ表情をしたことに朝海は気づいたのだった。 朝海はもうそれ以上近づくのをやめた。


「ごめんね、驚かせちゃったね。なんかキミが一人でポツンと座ってるから気になっちゃって。具合でも悪いのかなって」


 少年はなにも言わずにただ首を横に振る。


「そう。でももうすぐ五時になるし、これからどんどん暗くなって寒くなってくるから、もうお家に帰った方がいいんじゃない? お家の方が心配するよ」

「まだ、帰りたくないんだ」


 即答した少年の声は想像していたよりしっかりしたものだった。朝海は少しだけ少年に近寄った。


「なぜ?」

「ママの期待にぜんぜん応えられなかったから」


 朝海はまたざらりとした感触を胸に覚えた。


「キミ、何年生?」

「五年生」

「期待に応えられなかったって、野球?」

「野球も勉強も。テストの点また悪かったし、試合ではエラーするし打てなかったし。…成績も上がらない、野球もぜんぜん上手くならない。どっちも頑張ってるつもりなのに…」

「お母さんに怒られる?」

「…怒られない。ママも監督も怒らない。ただ一生懸命にやればいいって…。僕、期待されてない」

「そんなことないよ」


 そう言う朝海の胸にはどんどんざらりとしたものが流れ込んでくる。

 しかし少年は朝海の言葉など聞こえなかったように続けた。


「勉強はやめられないから、野球をやめなきゃって思ってるんだ。両方は無理だったけど勉強だけすれば成績はあがるでしょう?」

「それでお母さん、喜ぶかな? 野球をやめちゃうことを悲しまない?」

「だけど、どっちもダメなのよりいい」

  

 少年が初めて不貞腐れたような顔をした。


「野球、本当は楽しくないんじゃない?」

「そんなことないよ!」

「エラーしても、打てなくても?」

「僕だって上手く捕れるときも打てるときもあるよ。そんな時は嬉しいし楽しいよ。それに僕は上手くないけど、みんなで戦って勝ったら嬉しいし、勉強より楽しいに決まってる! でも、でもしょうがないでしょっ! 僕にはどっちも上手くなるなんてできないんだからっ!」


 少年の目から涙が溢れた。少年はキャップの鍔をぐいっと乱暴に引き下げ、腕で顔を拭った。


「だったらやめちゃダメだよ。そんなに楽しくて好きで頑張ってるなら。お母さんもきっと悲しむよ。ううん、今度こそ怒られるかも。そんなに頑張ってることを途中でやめるなんて。それにキミは期待されてないんじゃない。キミが頑張ってるのをお母さんは知ってるから、きっとこれ以上頑張れって言わないんだよ」


 不意に朝海の目にも涙が溢れ頬にこぼれ落ちた。

 これには朝海自身が驚いて慌てて頬の涙を払い、そして微笑んだ。


「なにより一番大切なのは」


 朝海の声のトーンが上がった。少年が顔を上げその朝海の笑顔を見ると、くすみのない子供らしい表情になった。


「キミはキミ自身のために頑張ればいいってこと。誰のため、の前に自分のために一生懸命に努力して、精一杯頑張ったって思えればいいんだよ。きっとお母さんもそれを期待してるはずだよ」


 少年はこくんと頷いた。

 どこまで理解できたのか、納得したのかはわからない。でも、被り直したキャップの鍔はもう深く下がってはいなかった。


「お家に、帰ろうか?」


 再びこくんと頷くと少年はスポーツバックを斜め掛けにして立ち上がり、上目がちにじっと朝海の顔を見た。


「お姉ちゃんは、帰らないの?」


 意表を衝かれたかのように朝海はたじろぎ、言葉に詰まった。


「これからどんどん暗くなって寒くなってくるってお姉ちゃんが言ったんだよ。それなのにまだ先に行くの? この先にはもう誰もいないし、暗くて景色もきっと見えないよ。…お姉ちゃんも、帰ろうよ」


 朝海は何も言えずにただ少年の顔を見つめた。


「あしたまた来なよ。あしたは天気が良いんだって。僕、あしたも試合だから天気を調べたんだ。快晴だって。あしただったら景色もきれいに見えるよ。…だから、今日はもう、帰ろうよ」


 ――あしたは、晴れる。


「ねぇ、お姉ちゃん。…大丈夫?」


 朝海は慌てて空を仰いだ。


 ――どんな顔をしてこの道を歩いていたんだろう。


 声を掛けたとき、少年がひるんだ表情をしたことを朝海は思い出していた。

 潤む視界に暗雲の切れ間が僅かに映った、気がした。


「あははは、そうだよね。きょうは行ってもしょうがないよね。帰ろう!」


 朝海は素早く両の目尻を指で拭うと、少年に向き直って笑った。

 それを見て少年もはにかむように笑った。いや、安心したように、だったかもしれない。


「キミ、お名前を訊いてもいい?」

佑久たすく。遠藤佑久」

「たすく君か。カッコイイお名前ね。お姉ちゃんは朝海。篠宮しのみや朝海」

「か、かわいい名前ですね」

「ははは、たすく君はお世辞も言えるんだね。大人でしょ」

「い、いや…」

「お姉ちゃんもこれからはたすく君のことを応援するね。がんばってね」


 佑久はモジモジとして何かをためらっている素振りをみせていたが、ようやく思い切ったように、しかし小さな声で言った。


「お姉ちゃんもな」


(終わり)

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あしたの天気 乃々沢亮 @ettsugu361

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