先住猫の帰還
男子寮のベッドに飛び込むと、体が嘘みたいに重たかった。あの収容員との会話は、俺に緊張感という精神的な負荷を与え続けていたらしい。
「あぁ……」
仰向けになって天井を見上げた。
スマホを取り出して、時刻を確認する。
時間は夜9時をまわっていた。
俺はベッドに投げていた身体を起こして、机のうえのマグカップを手に取り、キッチンで洗い、温かい紅茶をいれる。ミルクと砂糖はたっぷり投入だ。
財団の収容員は俺にスキルツリーの所有を認めさせたいようだった。
結果からいうと、俺は今夜のところは、その件をうやむやにして返ってこれた。
俺の論理展開としては、とにかく彼が信用できる存在に見えないという一点突破だ。
財団の収容員は「そんなに怪しいかい?(ニチャア)」とキモ男の笑みを浮かべるような隙があったので、俺の言説には説得力があった。
長谷川学長に直接、この収容員の身元を保証をしてもらうことで合意……のようなものに達した。「長谷川学長に確認してもらいます。僕はそれまであなたのような不審な人間とは関わりたくないです。今夜は恐怖で眠れないことでしょう」と吐き捨てて、ムーンバックスコーヒーから逃げてきたのだから。
「ツリーキャット、会いたい、お前はいまどこにいるんだよ?」
紅茶を握りしめ、外を見つめる。ちいさく開きっぱなしになっている窓は、空虚な秋の夜をのぞかせるばかりだ。もうしばらくあの子はこの部屋に来ていない。
「聖地、祝福の樹、収容、蒼い笑顔……」
俺はどうするべきなのだろう。
まるで世界の命運を託された思春期になった気分だ。
こういう時、得てして大事な選択は子どものもとにまわってくる。
気持ちで言えば収容員に協力することはいいことに思える。
森の里キャンプ場で『
この世界にアレを許していい道理などあるはずがない。
あんな者たちが力を持つべきではない。
力は使い方が大事なのだ。
それを託せるのはダンジョン財団以外には存在しないように思う。
でも、ツリーキャットはそうは思わないだろう。
彼女はスキルツリーについて誰よりも詳しい神秘的なニャンだ。
財団よりも理をわきまえたうえで、財団にスキルツリーの存在を隠匿しているのだ。
だとするならば、何も物事が見えていない俺が勝手なことをして、恩猫の意思を無下にすることはできない。
「はぁ、飯でも食うか」
寮の夕食を食べ損ねてしまったので自分で作ろう。
俺は紅茶を飲みながら、ある食材をつかって、ペペロンチーノをこしらえた。
イタリアンパセリとバターやペコリーノなどを使うことで、地道に進化を遂げた一皿は、自分でもうなずいてしまうほどに美味い。
「にゃあ(訳:美味しそうな香りだにゃ~)」
「そうだろう? いいバターは食べれば食べるほど健康になるってイタリア人のシェフが言ってたんだ。見よ、このバターの海を」
俺はペペロンチーノをフォークで巻いて口に含んだ。
ふと、固まった。このにゃん語が理解できる、だと?
俺は横を見やる。ベッドに黒い猫が座していた。前脚をそろえて、尻尾を巻きつけて、口元をむにゃむにゃさせ、顔を洗っている。
「にゃあ(訳:ずいぶんと他の猫の匂いがするにゃ。赤谷くん、浮気したにゃ?)」
俺は思わず立ちあがり、口内のブツを放出、おおきくせき込んだ。
ツリーキャットだ! 帰ってきたんだ! 見間違えようがない!
「にゃ、にゃあ!(訳:ひどいにゃ、赤谷くん、どうしてこんなことを!?)」
ツリーキャットは目をウルウルさせて、ペペロンチーノまみれを嘆いた。
「ごめんごめん、まさか帰ってくるとは思わなくてさ」
「にゃぁ、にゃぁ(訳:バターの香りがするにゃあ)」
積もる話はあったが、ひとまずペペチーキャットをガシッと掴んで、お風呂場へ輸送、だらーんと伸びてされるがままのこの子をたくさん洗ってあげることにした。
「にゃあ~(訳:赤谷くん、元気にしていたかにゃ? ひとりにしてしまって寂しい思いをしていたかにゃ?)」
お風呂場でさるがまま、泡だらけのツリーキャットはたずねてきた。
「それはもう大変だったよ。お前が導いてくれないから自分で考えないといけなかった」
「にゃにゃ~ん(訳:大事な存在はいなくなって初めて気づくというやつだにゃん。でも、赤谷くんは立派にやっていたみたいだにゃ。すごく成長したにゃ)」
「わかるのか?」
「にゃん(訳:当然だにゃん。私たちは心で繋がっているにゃん)」
自然と頬が綻んでいた。
この神秘的な猫とのあいだに確かな絆を感じたからだ。
ゴシゴシと洗ってあげたあと、ホカホカキャットをドライキャットにするために拭いてやって、ドライヤーで温風を浴びせた。
「よーし、綺麗になったぞ~!」
「にゃん(訳:ありがとう、赤谷くん。気持ちよかったにゃ~)」
ツリーキャットは目を細め、喉をゴロゴロと鳴らして言った。
あまりに可愛いのでモフモフして、猫吸いをキメる。
2カ月ぶりのツリーキャットは実によくキマる。
「きゅいーん! ずずずぅぅぅう! すぅはぁすぅぅはぁ!」
「にゃ、にゃにゃ……(訳:魂を吸いだしてきそうな吸引力だにゃ……! お、落ち着いてほしいにゃ、赤谷くん、壊れちゃうにゃあ……!)」
「これが落ち着いていられるかぁ! こんなにモフモフしたお腹をするなんてどういうつもりなんだいツリーキャット。これは吸引されても文句は言えないよね?」
「にゃん(訳:なんという言いがかりにゃ……にゃ、にゃにゃあ~! やめるにゃあ! ほかの猫にもこういうことするのかにゃあ!?)」
ツリーキャットは前脚をつっかえ棒のようにして俺に抵抗を示したが、そんなもので人間の欲望がおさまるわけもない。いっぱい吸引した。
「にゃ、にゃあ(訳:帰ってきて早々、ひどい目にあったにゃ、ここは実家ではないのかにゃ……)」
「ツリーキャット、帰ってきて嬉しいよ。本当に。お前に会いたかったんだ」
黒猫を膝のうえに乗せて、ベッドであぐらをかく。
「なぁ、実は相談したいことがあって」
「にゃあ(訳:それは猫耳と猫尻尾が生えていることと関係があるのかにゃ!)」
「あぁ、そうだな、これは、まぁ、もう解決した問題というか」
「にゃあ(訳:私にとってはとても興味深いお話に思えるにゃあ。よかったら話をしてほしいにゃあ。赤谷くんのことをもっと)」
「そうだなぁ、それじゃあ、可愛い黒猫ちゃんには、夏休みのことから話してあげよう」
俺はツリーキャットを撫でながら語りかけた。
腕のなかの黒猫は喉をゴロゴロ鳴らしながらお話を聞いてくれた。
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