確変猫のおかえり
志波姫は十分に赤谷の耳を堪能したあと顔を離す。
ぺろりと舌なめずりをする。さて次はどこを食べようか。
そんな思考がよぎった時、志波姫はハッと我に帰った。
自分は何をしているのだろう、と。寝ている男子の耳をハムハムするなんて。
ましてや相手はあの赤谷誠だ。因縁浅からぬ相手だ。敵といってもいい。
「……うんん、そんなわけがないわ」
志波姫はすっかり赤くなった顔をブンブンと横にふった。
いますぐにでもその邪な考えをふりはらわないといけなかった。
己が抱いている感情を理性で否定しなければいけなかった。
頬を染め、おでこを押さえ、弱った様子の少女。
垂れる黒髪を耳にかける。横目に赤谷を見やる。
表情は変わっていない。変わらずアホ面で気絶している。
「変質者」
志波姫は自分を棚にあげて、ナマズに罵倒をあびせて、ベッドを離れた。
この部屋を出るためには服がなければいけない。
一糸まとわず外を出歩けるほど豪胆ではない。
志波姫は赤谷のクローゼットを物色する。
女性物の服があるわけもない。
でも、贅沢はいわない。
ここから女子寮に帰るために着れるのならなんでもよい。
「服が少ない?」
ハンガーにかかっている服は必要最低限とでも言いたげな数着だけ。
志波姫は「ミニマリストに目覚めたのかしら」と考えながら、少ない服を順番に手に取っていく。裏返してみたり、生地を確かめたあと、鼻を近づける。
「くんくん、すんすん」
目を細めて、胸いっぱいに匂いを吸いこむ。
「すっごい赤谷君臭い……」
志波姫は男女共有のデザインをもつ体操着を着込むことにした。
半袖半ズボンをまずいただき、そのうえジャージもいただいた。
サイズがブカブカで、胸元が心もとない気がした。
服を着こむと全身が赤谷の香りに包まれる。
志波姫はフワフワした気分になり、自分がいけないことをしている気分になった。奇妙な罪悪感。いけないことを先にしたのはナマズだというのに。自分はその報復をおこなっているだけだというのに。どうしてこんな気持ちになるというのだ。
志波姫はなんだかイライラしたので、体操着一式だけでなく、シャツを2枚ほど余分に頂戴することにした。これもまた赤谷が悪いのである。少なくとも志波姫神華の道理ではそうだった。
「ん」
改めて部屋を見渡してみる。
志波姫はひとりで赤谷の部屋にはいったことがなかった。
この部屋にくるときはいつだって猫状態で、赤谷がいた。
人間の状態で、冷静な思考のままで、この場所にいることは初めてだった。
ゆえになんでもない男子の部屋がいつもと違ってみえた。
「これは……?」
志波姫は発見する。
机のうえに置かれた木彫りの梟のストラップに。
そっと手にとる。それはある夏のキャンプ場で手に入れたアイテムだ。
志波姫と赤谷だけがそれを所有している。
志波姫はストラップを眺め、言い知れぬ満足感を感じた。
「大事にしてくれているのね。そう。ふーん」
ストラップを元の位置にもどす。
視線が新しいものに惹かれた。
開かれたノートパソコンのそば、マグカップがあった。
茶渋が色濃くついており、部屋の主に愛用されている品であることがわかった。
志波姫は目を細めて、マグカップを手に取る。
そのデザインに見覚えがあった。以前、スイスの娘が部屋の主に贈った品だ。
志波姫は自分の機嫌が急速に悪くなっているのを自覚した。
マグカップを机に置いて、服を借りた旨について書置きを残し、最後に寝ている赤谷を「ニャア!」と、一発叩いてストレス発散したあと部屋をあとにした。
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