確変猫のあまがみ
その朝、志波姫は自分の身におこった仰天するべき事態にとまどった。
自分がニャンだと思っていたら、実際は人間だったのだ。
驚くべき事態だ。
人間なのにニャンニャンしてしまったのだ。
恥ずべきことだ。目も当てられない羞恥だ。
目の前には泣きそうな顔のナマズ。「殴らないでください!」あるいは「来るならこいよ! カモン!」そんな情けなさとも覚悟とも取れる表情だ。
きっとわかっているのだろう。
このあと一撃をもらう未来が見えているのだろう。
志波姫は「ニャっ!」と猫しぐさを残しながら拳でナマズを仕留めた。
華麗なる顎へのパンチ。ナマズはぐえーっとベッドのうえで白目を剥く。
「わたしはなんてことを……」
ナマズを仕留めた。そのことは別に悔いていない。
悔いているのは、ニャンニャンしてしまった事実だ。
志波姫は静かにかけ布団を頭までかぶった。
もうこのまま消えてしまいたかった。
顔が熱い。燃えるような熱さだ。
心臓の律動が絶え間なく胸をたたいてくる。
かつてこれほど羞恥はなかった。
「赤谷君の頭を強打しつづければ記憶を破壊できるかしら……?」
そんな乱暴なことさえ思いついてしまう。
志波姫は黒い耳をぴょこぴょこさせながら顔をだし、連続で猫パンチをあびせることを真面目に思案しだした。しかし、流石にすでに気絶している者へそこまで暴力的に追撃をするのはためらわれた。
志波姫は再びかけ布団を頭までかぶり、束の間の安寧を享受することにした。
時間は多くを解決してくれる。
それはこの奇想天外な朝の事件においても例外ではない。
見られてしまったものは仕方がない。
志波姫は冷静な頭でそう思うことにした。
何も初めてのことではなかった。
野良猫に「にゃーにゃー」と話しかけているのを見られた時だって、顔から火がでそうな気分だった。
女子寮のお風呂の壁が壊れてなぜか赤谷誠がいて裸をみられかけた夜も死にたくなった。
瀕死の赤谷誠を背負った時だって身体に触れさせることを抵抗があった。
体育祭でポメラニアンになったあともひどく後悔した。
そのほか志波姫には数えきれないほど、赤谷誠関連で恥ずかしいことがあり、そのたびにナマズをさばくか、自死を選ぶかを悩んできたが、いつだって最後の答えはどうしたって過ぎたことは仕方がないというところだった。
ゆえに志波姫は今回も眉根をピクピク痙攣させながら羞恥を受けいれた。
代わりにせめて報酬をもらっていくことにした。
赤谷から学んだポジティブな思考である。
ニャンニャンを見られてしまったのだ。
おおきな損失である。言い換えればコストを払ったことになる。
赤谷にニャンニャンを見せてあげて、良い思いをさせてあげたのならば、その分、自分だっていい思いをしていいはずだ。そういう道理が通るはずだ。
ゆえに志波姫はかけ布団のなかで開き直った。
まずは赤谷にくっついてみることにした。
なに。気にすることはない。このナマズは気絶している。なにをしてもよい。
「ごろにゃーん」
そう言いながら赤谷のお腹、胸、首とクンクンしながらのぼっていく。
赤谷の匂いは志波姫にリラックス効果をもたらしてくれた。
ひと通りクンクンしたあとは、先ほどストップさせられてしまった衝動が再燃した。志波姫は心臓を高鳴らせて、赤谷の顔に近づいていった。
「……ニャ!」
志波姫はひとまず赤谷を手ではたいてみた。いたずらではない。入念に石橋をたたいているのだ。もしかしたら赤谷が寝ているフリをしているかもしれない。そのせいでこれから行うことを記憶領域にとどめ、将来、弱みとして脅迫材料に使ってくるかもしれない。志波姫は聡明だ。あらゆるリスクを常に想定している。
だから合計17回に渡る完全失神チェックをおこなった。
ニャ! ニャ! ニャ! ニャ! ニャア! ニャアッ!
たくさん叩いてみた。それでも起きる気配はなかった。完全に気を失っている。
志波姫は満足して、眠る赤谷の顔をじーっと見つめる。
視線は耳、頬、鼻、おでこ、そして唇と映っていく。
悩む。どうしよう。どうしたものか。
そんなことしていいのか。寝ている人間に。
志波姫はすっかり頬を染め、熟考の末、動いた。
かぷっ。
赤谷の耳に噛みついた。
それは衝動だった。口で触れてみたいという衝動。
「はむはむはむ、うーんこれも猫しぐさなのかしら?」
なぜ口で触れたいと思ったのか。
自分が猫だからか、それとも相手が捕食対象の魚属性だからか。
否、あるいは赤谷誠だからか……理由は志波姫にもわからなかった。
「不思議なものね、はむはむはむはむ」
志波姫はたっぷり10秒ほど甘噛みして耳を堪能。ひとまず衝動はおさまった。
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