確変継続の朝、天才でもたまにミスはする

 朝起きると、身体の上に心地よい重さを感じた。

 それはにゃんというにはやや重みがありすぎた。

 全体的に柔らかく、特に一部分に関しては、よりふかふかしている。


 俺はねぼけ眼をこすりながら眼を開けようとした。

 俺のうえに乗っかる黒髪の美少女がうつった。

 彼女はすーすーっと穏やかな寝息をたてて眠っていた。まるで森の奥地でしずかにお昼寝をする自然の里のエルフみたいに、この世界のどこにも彼女を害するものがないかのように。白い肢体は木に抱き着いているみたいに俺の背中にまわされ、艶やかな黒髪は白いシーツに流れる川のごとく支流をつくって広がっていた。


 かけ布団の足音のほうからは、長く優美な黒い尻尾が出ていた。その尻尾は視界からの情報ではわからないが、実は布団のなかで俺の右足に2回転ほどクルクルと巻き付いている。ゴロゴロゴロ、ゴロゴロゴロ──喉もとても鳴っていらっしゃる。


 俺の意識がはっきりする頃、大声をださなかったのは褒められるべき偉業であろう。口があんぐり開いたが、それでも先日、似たような猫事件があったため、耐えることができた。すごくいい匂いがすることを後の人類史のために俺は記録しなければならない。俺は人類史のために学校一の美少女の頭をかぐことにする。くんくん。


 俺の胸に顔を半分埋めるように押し付ける志波姫が、猫耳をピクピク動かした。姫の気まぐれにより俺の喉ぼとけは毛先でくすぐられてしまう。くすぐったくて体が動く。ビクッと。志波姫の穏やかな寝息がとまった。しまった。

 

 志波姫の眼がゆっくりと開いた。長いまつげばパチパチとして、墨色の瞳が世界を水晶体にとりこむ。ちゅんちゅんとさえずる小鳥の声。美しい瞳がこちらを見た。


 それと視線があった。時間がとまる。

 志波姫はすこしだけ上体を起こした。肘を支えに俺の胸を押し、俺との密着がやや希薄になる。すると、新しい宇宙がそこに誕生する。

 俺の視線が引力にしたがい小惑星へとひきよせられていた。俺と志波姫の体がすこしだけ離れたことにより生まれた神の領域は、たとえそれがどれほど慎ましかろうと人類には抗いがたい引力をもっていた。


 ギリギリ見えない! あとすこしあと2度上体を起こしてくれ! この緩やかな小丘の頂上をひと目見たい。命を失おうとも!

 

 いや、しかし、それでいいのか。

 本当にいいのか、赤谷誠。

 それは誠実ではないだろう。


 これは世界の均衡をとるための試練なのではないか。

 俺は昨日いい思いをしすぎだ。であるならば、これ以上良い思いをしていいわけがない。これ以上のご褒美は俺の命では償えなくなる。


 俺にできるのは志波姫のために、早々に彼女のミステイクを伝え、そして打撃を受け入れ、意識を刈り取られることなのではないだろうか。


「志波姫」


 人生谷あり山あり。良いことがあれば悪いことがある。まぁ志波姫の懐にたとえ谷がなかろうともな。HAHAHA。


「おはよう、良い朝だな」

「ニャア~」


 志波姫は耳をピコピコさせながら鳴いた。

 ニャアと鳴いた。そして喉をゴロゴロと激しく鳴らした。

 

 人体ニャンニャン学を専攻する学士・赤谷誠のもとには、猫状態で寝て人間状態で起床すると当人は「己をまだ猫だと思い込む」という研究結果が届いている。


 それはかの氷の令嬢、博学多才、文武両道、唯我独尊の志波姫神華であろうと例外ではないようだ。完全に自分のことをにゃんこだと思い込んでいる。


「ニャア♪」

「よーしよしよし、良い子だな~」


 俺は志波姫の艶のある綺麗な髪を撫でた。撫でた。撫でた。


 数秒あるいは十数秒後には崩壊するであろう楽園は、しかし、俺自身の手で壊すことはできなかった。それは人体ニャンニャン学の専門家として、己を猫だと思い込む美少女が猫とおなじようなリアクションを行うのかを確かめる必要があると思ったからである。


「よーしよしよし、顎もかいてやるぞ~」

「ニャア」

「そうかぁ、ここが好きなんだなぁ」

「ニャアァ〜♪」


 志波姫は目を細め、頬を染めて、心地よさそうにする。表情が自然と微笑みを浮かべてしまっている。可愛い。普段の彼女ではここまで素直な笑顔を見せることはありえない。

 

 志波姫が俺を登ってくる。顔を近づけて、スンスンと匂いと嗅いでくる。


「ちょ、ちょま、落ち着け、志波姫、それは……!」

「スンスン、スンスン、ニャア~」

「志波姫ぇぇえ! 手! 手!」


 俺はそう言い志波姫の肩をおさえ──そこで彼女は静止した。

 彼女は自分の手を不思議そうに見つめていた。

 それは丸っこくてふわふわした猫のお手手ではない。白くて細い指を備えた美少女の御手である。志波姫はそれを見つめたあと、俺のほうを見てきた。


「あはは、や、やあ、良い朝だな」

「ニャッ!」


 という可愛い声とともに拳が放たれた。

 それは寝起きの俺を極至近距離から破壊的に襲い、意識を刈り取った。


「ぐへっ」


 次に目を覚ました時、時刻は午前8時をまわっていた。

 普段の俺からしたらかなり遅い起床である。


 当然、俺のうえから重みはなくなっており、顎には的確に打ちぬいたかのような鈍痛が残っていた。骨にヒビが入っているような感覚もある。


「強く打ちすぎだろ……いてて」


 起きあがり机のうえを見やる。


─────────────────

変質者の赤谷君へ

   服をもらっていきます

            猫より

─────────────────


 と綺麗な字で書置きが残されていた。

 

「もらうんじゃねえよ……」


 俺は顎を押さえながら、のそのそと朝の支度をはじめた。

 強烈にぶん殴られ、服も奪われて。

 だのに悪い朝ではない。そう思えた。

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