待っていたわ

木嶋うめ香

第1話

「今までありがとう、おかげで元気になった。それじゃあ!」

「それは何より。えぇ、それじゃあ。」


 役割の見送り、それを終えたのは寒い朝の事だった。

 空に昇る人を手を振り見送る。

 冬の朝、この時期には珍しい程の晴天は手がかじかむ程の寒さを私に伝えてきた。


「こんな日には、温かいミルク。蜂蜜をたっぷり入れたらきっと美味しいわ」


 一度店の中に戻り、煮干しを取ってもう一度外に出るといつもの様にのら猫が待っていたの。

 のら猫に好物の煮干しをあげている間しゃがみ込んでいたせいで凝り固まった体を、立ち上がり、ぐんと伸ばす。


 両手を上げて背中を反らすと、雲ひとつない青空が見えた。


「晴れているのに、こんなに寒いのは不思議」


 晴れた方が寒いのだったかしら、そんな話を以前店を訪ねてきて、見送った誰かが話していた様な覚えがあるけれど、記憶違いだったかしら。


「でも、どんより曇った空よりも晴れた空のほうが好き」


 自分が空に昇る日は、こんな風に晴れた日がいい。

 どんより曇った空は嫌い。

 あの人を見送った日を思い出すから。


 

 暑い日だった。

 皆が不安を抱えて、辛くて、悲しくて、それでも笑顔で見送るしかない。

 暑いのに、空は今にも雨が降りそうな程にどんよりと曇っていて、湿った空気に汗で髪が額に貼り付いていた。


 心の中で泣きながら、私は見送ったの。

 知らせが届いてから急いで買いに行った万年筆を渡して、約束をした。

 これを買えば半月はまともに食べられなくなるかもしれないけれど、それでもいいと質屋に向かい棚の奥に飾ってある万年筆を買ったのを、彼は多分気が付いていた。

 万年の時を生きてと、ただそれだけのゲン担ぎ、命を繋いで欲しい守って欲しいと願いを込めて渡した品だと、彼はきっと気付いて私に約束してくれたの。


 笑顔で万歳と言いながら、何が万歳だと心の中で罵りながら、それでもそうするしか無かったの。


 そんな事があの頃この国のあちらこちらで、何度も何度も繰り返されていた。


 不安なのに大丈夫だと笑って、悲しいのにそれは誉れだと無理矢理に胸を張った。


 陰でどれだけの人が泣いたのか。

 祈って祈って、でもその祈りは届かずに、小さな壷に入って戻ってきた愛しい人を、ただ抱きしめる。

 それすら出来ない人も多く居た、ボロボロになった手袋に「お帰り」と呼ぶ母の姿は未だ目の奥に残ってる。


「にゃあぁん」


 店の中に入ろうとして、のら猫の鳴き声に呼び止められた。

 私は長く外にはいられないのに、いつ来るか分からない人達を店の中で迎え、もてなし、見送るのが私の役目。

 その為に私は長く外には出ていられないの。


「猫、どうしたの」

「私が頼んだのですよ」


 猫に視線を向けていて、気が付かなかった。

 視線を上げて、あっと声を上げたの。


「ここは変わらないね」

「は、はい。な、中へ、どうぞ中へ」


 震えているのは声なのか、体なのか。

 ドアを開こうとして、上手く出来ないのはなぜなのか。


 視界が歪むの、ゆらゆらと揺れる。

 迎えて、もてなして、見送るのが私の役目なのに。


「お帰りと言ってはくれないの」


 震える私の体を、懐かしい腕が背中から抱きしめたの。


 冷たい体、あぁ、この人も。

 そうだ、だってあの日と同じ顔、同じ声。


「中へ」


 冷たい温度に冷静になって、私はやっとドアを開くことが出来たの。


「あぁ、昔のままだね、懐かしい」

「変わってないわ、何もかも昔のまま」


 だって燃えてしまったから。

 私も一緒に、何もかも燃えて。

 でも、私は空に昇る事が出来ずにこの地に留まって、哀れに思った神様から役割を頂いたのよ。


「お帰りなさい」


 変わらない顔のあなたを、振り向いて抱きしめた。


 必ず笑顔で迎えるから、あなたも笑顔で戻ってきて。


 必ず戻るよ、君の笑顔をもう一度見る為に。だから笑顔でお帰りと迎えて欲しい。

 

 あなたとの約束を守りたくて、私は空へ昇れなかったの。


「待っていてくれてありがとう。約束通り戻ってきたよ」

「はい、あなたは律儀な方だから、きっと約束を守って下さると信じていました」


 涙を流しながら、笑顔になる。

 大好きなあなたを抱きしめる。


「お帰りなさい」

「ただいま」


 言い合って笑った、その瞬間店はとろけるように消えていったの。


「あぁ、野原だ。小さい頃二人で遊んだ」

「春はタンポポを摘んで、夏は虫を追いかけ秋にはススキを取ってフクロウを作った」

「そして、冬は雪だるま、大きく作ろうとし過ぎて結局頭をのせられなくて、いつも寝転んだ雪だるまになった」

「そうね、楽しかった思い出しかないわ」


 手を繋ぎ、見上げると、雲一つない空。


『戦争当時、※※※※で亡くなった方々の遺留品が、この度日本へと戻されました。その中には万年筆や印鑑等が多くありますが……』


 遠くから聞こえてくるテレビの声に、沢山の人達が戻ってきたのだと、気がついたの。


「お帰りなさい。私はもう迎えられないけれどこの地に戻ってきてくれてありがとう」


 そう言って私は手を繋いだまま、空へと昇ったの。

 

「にゃあぁん」


 後にはただ、のら猫の声が青い空に高く響いてた。


※※※※※※※※

Chan茶菓様のイベント参加作品です。

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