スケベ系催眠アプリ作品の「アレっ?」と思ったところに踏み込んだ傑作。
人の心を操るということは別に超常現象を使わずとも引き起こせると認知されつつある今の世の中で、もはや催眠アプリはそこまで我々読者を凌駕させる装置ではないでしょう。
しかし、それはあくまでスケベ物語、スケベワールドで、スケベな行為にだけしか使われないからです。これがもし、スケベが軸となっていない作品で登場したのであれば……。
催眠という手段は時間や体力や選別が必要となる中で、それらの行為を全て省略できる存在というのは、もしかしたら核兵器以上に末恐ろしい兵器なのかもしれません。
それを知らしめる前編。まさしく虚をつかれたとしか表現のしようがありません。我々読者は、スケベ物語の良心を改めて噛みしめなければなりません。
その良心からの決別にまみれてしまったのが中編です。
開発者だけがスケベワールド的な良心を持っているというのがまた憎い。もし彼がスケベワールドの良心を持っていることを見せつけなければ、主人公は最悪な結末を迎えたでしょう。
もしも、開発者が良心を持たなかった場合、この作品は末恐ろしい暴力と殺戮にまみれた作品になっていたでしょう。そうなっていればこの作品はいくらカクヨムというインターネット投稿サイトとて、許されざる作品になっていました。
しかし彼は持っていた。持っていて、それをきちんと主人公に見せつけた。事実上、この時の彼の行為こそが、この物語を決定づけたようなものです。
そしてそんな開発者を目にした後に始まった後半、バトル。
ここでは催眠アプリの恐ろしさをこれでもかと表現されています。
それ以上に、戦いの本気度が窺えます。
孫子の言葉に『戦いは始まる前に終わっている』というものがあります。
これはフィクションでこの理屈はあまり通用しないものです。いかんせん、我々読者というのは秒殺を好みません。血の滾る一進一退の攻防の上での決着こそ尊いと思ってしまいます。
しかしこの物語ではそれを平然とやってしまった。これがやはり、この物語の真剣度、並びに良心の欠如の表現というものを現しています。
もしもここで、催眠合戦をしていたら、この緊張感、アプリの恐ろしさは半減していたでしょう。だけども、我々が見せられたのは秒殺。フィクションではなく、より現実的な恐怖を見せつけてきました。
しかしその恐怖は、死者復活催眠をより意味をもたらしました。不合理不条理かもしれません。しかし現実には催眠はあっても催眠アプリはありません。その圧倒的な暴力装置は、反転して救済にもなる。
これは現実における軍事技術が様々なモノに転用されていることに似ています。
今現在(2022/12/04)行われているサッカーワールドカップカタール大会においても、例えばドローン撮影などがそれにあたります。
人を傷つけるだけの技術が、転じて人々を楽しませる技術に変身する。
これはこの物語事態がそうなのかもしれません。幾らでも残酷で惨たらしい話に変貌してしまう空気を持っている中で、いいや違う、恐ろしいアプリだって人々を癒やす力を持っている。この世に誕生したモノは、複数面を持っていると我々にハッとさせて教えてくれるのです。
その後、ついに始まってしまった主人公の戦い。
相手は当然、良心が欠如してしまった存在。催眠アプリ歴が短い主人公にとっては人生最大の危機でしょう。
もしもここで、主人公が我々浅薄読者の想像通りの戦いをして勝ってしまったのであれば、この物語は凡百の作品の中に埋もれるただの一つの作品となっていたでしょう。
しかしながら、そうではない。そうではないのです。勝利至上主義である世の中において、こういう第三の選択肢を見せつける。
ここまで良心の欠如を見せつけられてきた読者に、驕らない、それでいて良心的な手段を取る。この勇気ある行為こそが主人公に選ばれた理由でしょう。
そしてその勇気が、最後のハッピーエンドに繋がった。
この物語は、良心なき世界にそれでも良心に従った、勇気の物語なのです。