AIは犯人を追い詰めることができるのか? 1:違和感を見つけ出せ
何事も初心に戻るというのが大切だ。
これまでAIの新里述(しんりのべる)に事件を解決させようと頑張ってきた。その結果はご存じの通りだ。
私は欲張りすぎたのかもしれない。
誰にだって初めてというものはある。
新里述だって、いきなり何人もの容疑者を吟味させられてびっくりしているに違いない。
そうなのだ。
容疑者をひとりにしてしまえばいいのだ。
容疑者がひとりなら、推理を外す心配がない。
推理を外さないのなら、事件を解決できる、という寸法だ。
そうなのだ、正解を用意してしまえばいいのだ。
これで新里述が無能扱いされることもない。
早速見て行こうではないか。
なお、今回は事件を三つのパートに分けて、新里述には犯人を追い詰めてもらう。
今回の事件はやや特殊だ。
だからこそ、新里述には少しずつ状況を処理してもらうことにする。それも、彼に事件を解決させるための方策のひとつだ。
もう彼に事件を解決させるためには、どんなお膳立てでもする所存だ。
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赤池警部補はおじさんとは思えないくらい泣きそうな顔をしていた。
「なんで今回に限って西山くんいないのよ」
「しょうがないですよ。実家に帰るって言ってましたから」
西山の代わりになるか分からないが、いつもの会議室の空席には古屋が収まっていた。
「まあ、力不足かもしれないが、俺がいいところ見せてやるから」
「本当に力不足ですよね」
「いや、古屋くんね、俺は君の上司なんだよ」
「僕は赤池さんを上司だとは思ってないんで、良い意味で」
「絶対悪い意味だよ」
「まあ、そんなどうでもいいことは置いておいて……」
「上司を目の前にすごい強心臓だね。マフィアに育てられたの?」
古屋は口元に人差し指を押し当てた。
「しーっ。今から事件の話しますから、黙って聞いてて下さい」
赤池は部下の諫めに大人しく従った。古屋は咳払いをひとつする。
「そもそも、今回の死亡事件なんですけど、現場からは事故っぽいという報告が上がってきてます」
「なんで?」
「今回亡くなったのは、福薗製薬(ふくぞのせいやく)の経理部門で部長を務めていた阿部武弘(あべたけひろ)さんです」
「あの巨大製薬会社の? ふ~くぞ~の、せいやくっ♪ チャランッ! ってやつの?」
古屋は鼻で笑ってうなずいた。
「阿部さんは昨日の午後十時過ぎに自宅マンションの浴室内で頭を打って死亡しました。今朝、時間になっても出勤しない阿部さんを心配した職場の方がやって来て、管理人の方と一緒に遺体を発見したそうです。阿部さんは独り暮らしで、もしかしたら発見は遅れていたかもしれません」
古屋はタブレットに現場の写真を表示させた。白を基調としたユニットバスだ。天井の照明も白い光だ。阿部は全裸の状態で洗い場の床にドアの方を向いて横向きに倒れていた。ドアの正面には鏡やシャワー・カランの水栓、床に近いところにシャンプーなどを置く小さな棚が設けられている。湯船は右手にあり、奥の壁に取り付けられている給湯器のパネルの電源は落ちているようだ。湯船の中には水が張ってあるのが見える。湯船の蓋が洗い場の左手の壁に立てかけられていた。
「阿部さんは、棚のところにあった浴室用洗剤の蓋が緩んだまま倒れていたことで流れだ出た洗剤を踏んで滑って、湯船の縁に左側頭部を強打して、脳挫傷によって死亡しました」
現場写真を見ると、棚の洗剤のボトルが倒れているのが分かる。湯船の縁にクロースアップした写真では、血痕と毛髪が付着しているのが分かる。
「ありがちな事故だな」
「事故ってことにしたいじゃないですか。でも、この前、同じ管轄内で事故だって判断した件が実は殺人だったってのがありましたよね」
「あったな。犯人が自首してきて判明したやつな」
「あれのせいで、ちゃんと検証して事故だって証拠を固めなさいってお達しが来てるんですよ」
「『せいで』っていうと、なんかよくないけどね。いつもちゃんと検証してるけどね」
赤池は誰に対しての弁明なのか、口数が多い。
「阿部さんは亡くなる直前にワインを飲んでいたようで、アルコールが検出されてます。それで足の踏ん張りが利かなかったかもしれません。で、これが脱衣所の写真です」
脱衣所も白を基調とした部屋で、洗面台と隅にドラム式洗濯乾燥機、バスタオルを置くスペースが突っ張り棒で作られていて、その下に洗濯物を入れるカゴが置いてある。
「洗濯機の中に何か海苔巻きみたいなのが入ってるのか?」
「洗濯と乾燥が終わったバスマットですね。グルグルになって突っ込まれてます」
「脱衣所の床には何も敷いてないのか」
開いたままの浴室のドアの前にはマットなどは何も敷かれていない。
「洗濯物カゴの中身がこれです」
洗濯物カゴとそこに入っていた衣服が横に並べられている写真が表示される。
「左から、下着、上の肌着、両足の靴下、シャツ、ズボンですね」
「いや、見れば分かるよ……。これでも人間を五十年くらいやってるからね」
「左側がカゴの下で右側がカゴの上です。折り畳まれずにグチャグチャですけど、左から順番にカゴの中に入ってたってことですね」
「まあ、風呂に入るわけだからね……。脱衣所にはほかに衣類はなかったの?」
古屋は手元の資料を確認する。
「……ないみたいですね。なんか、今回はいつもより現場写真が多くて……、まだ何か見ます? なんか疲れてきました……」
刑事としてあるまじき態度の古屋に対し、赤池は難しい顔をした。それは、部下のスタンスを目の前にしてのものではないようだった。
「これ……、事故じゃないんじゃないか? 不審な点があるぞ」
「例えば、どこですか?」
※新里述による記述※
「まず、現場の状況だ。阿部さんはなぜ全裸で死んだんだ?」
「服を脱ごうとしたところで倒れたからですよ」
古屋の答えは的外れなものだったが、赤池はさらに質問を続ける。
「いや、そういう意味じゃなくてさ。服だけ脱いで、そのまま倒れるならいいんだけどさ、わざわざ全部脱いだ後に転倒して死んじゃったら、パンツとか履けないじゃん」
「あぁ~、そうか。その点は考えていませんでしたね」
「それに、もし転倒する前に誰かが浴室にいたのだとしたら、浴室で阿部さんが死んでることに気付くはずだろ? それなのに、現場には争った形跡はない。しかも、阿部さんは独り暮らしなんだぞ。家族にも気付かれずに浴室で裸で死ぬなんて有り得るかな?」
※私による記述※
少し驚いたことがある。
新里述は「全裸は恥ずかしいものだ」と考えているのではないか?
そうでなければ、「全部脱いだ後に転倒して死んじゃったら、パンツとか履けないじゃん」という言葉は出てこないはずだ。
だが、同時に新里述が風呂に入ったことがないということも明らかにしているのが分かる。
浴室では全裸になるのが普通だという、我々にとってはごく普通のことを理解できていない節がある。
とはいうものの、「転倒する前に誰かが浴室にいたのだとしたら」という言葉には、ハッとさせられる。
新里述は、私による冒頭の文章のことを新里述は知らない。
何か予感のようなものが走ったのかもしれない。
問題となる箇所にフォーカスをしない状態では、新里述は何について考えればいいのか分からないかもしれない。
そこで、彼が着目した衣服について考えるようにアシストしてみようではないか。
いまさらだが、今回の私のミッションは「新里述はこの事故現場の違和感に気づけるのか?」というのを確かめることだ。
・
・
・
(前略)
「これ……、事故じゃないんじゃないか? 不審な点があるぞ」
「例えば、どこですか?」
「洗濯物カゴの中身には違和感がある。なぜなら、
※新里述による記述※
「洗濯物カゴの中身には違和感がある。なぜなら、洗濯物が一枚もないからだ」
「えっ?」
古屋の目が丸くなった。
「おかしいだろう。普通、洗濯物を洗濯するときに全部一緒に洗うか?」
「あっ! 言われてみるとそうですけど、たまたまじゃありませんか?」
「いや、それなら、脱いだ服をわざわざ畳んで入れるか? そんな面倒なことするか? 俺ならそのまま放り込むけどね」
古屋は眉間にしわを寄せた。
「確かに、ちょっと変ですけどね。ただ、僕はそういう人なんだと思ってました」
「お前は、人のことをどんな風に見てんだよ。俺がそんなだらしない奴に見える?」
※私による記述※
達者である。
何がって赤池に対する古屋の態度が、だ。私でもこういうやりとりを書きそうだ。
しかし、肝心な状況分析は的外れだ。
脱いだ服は基本的に全部一緒に洗うはずだ。
……まさか、「お父さんのと一緒に洗わないで」という、世のお父さんが悲しむあのくだりが新里述にはインプットされているのかもしれない。
ミステリに慣れ親しんだ人には、この「事故現場」の違和感に気づくだろう。
事故現場を検証する赤池の考えを見てみよう。
・
・
・
「これ……、事故じゃないんじゃないか? 不審な点があるぞ」
「例えば、どこですか?」
「洗濯物カゴの中身には違和感がある。なぜなら、カゴに入っている順番に従って阿部さんが服を脱いだ様子を再現するとこうなるからだ。
まずは、シャツとズボンを脱いで床に置き、下着を脱いでカゴに入れる。次に上の肌着を脱いでカゴに入れる。そして靴下を脱いでカゴに入れ、すでに脱いでいたシャツとズボンをかごに入れる……。
どこの世界にこんな面倒なことをする奴がいるんだ?」
自信満々の赤池だったが、古屋には刺さっていないようだ。
「う~ん、僕もたまに酔っ払った時、変な服の着方してたりすることありますし……」
「俺はお前が心配だよ……」
とはいうものの、古屋の言うように、そういうパターンもあり得るのかもしれないと考え直した赤池は脱衣所の写真を確認した。
「この脱衣所には、洗濯物カゴの中以外に衣類はなかったと言っていたな。それはおかしい」
「なんでですか?」
※新里述による記述※
※読み込ませる文章量を節約するために、接続部分は改変している。
(前略)
「これ……、事故じゃないんじゃないか? 不審な点があるぞ」
「例えば、どこですか?」
赤池は脱衣所の写真を確認した。
「この脱衣所には、洗濯物カゴの中以外に衣類はなかったと言っていたな。それはおかしい」
「なんでですか?」
「もし、この男が自分で服を脱いだのなら、その時に身に着けていたものはすべて脱ぐはずだ。そして、服を着た状態で浴室に入ったら、濡れてしまうだろう」
古屋は目を丸くする。
「確かに! 言われてみるとそうですよね。阿部さんは裸で転倒し、そのまま浴室内で息を引き取ったんですから、その時に身に付けていたものは全部、洗濯機に入れたはずです」
「そう。それに、阿部は入浴前にパンツを履いていたか?」
「いえ、履いていなかったと思います」
「つまり、阿部はパンツを穿いた状態で浴室に入り、全裸になってから浴槽に浸かったことになる。それなのに、阿部は全裸で浴室内で倒れていた。これは明らかに不自然だ」
「そう言われると、そうだ!」
「しかも、浴室内の湯船には水が張ってあった。阿部は頭を打って死んだ。つまり、頭を打撲したのは間違いないだろう。なぜ、そんな状況で湯船に水を張っておいたんだろう?」
「それも変ですね。普通は、倒れてからすぐ救急車を呼ぶでしょうし、そもそも、湯船に水を張ったままにしておくなんてありえない」
「仮に、阿部が意識を失う前からすでに死んでいたとしたらどうだ?」
「どういう意味ですか?」
「頭部を強打した時点で死亡していたとする。その後、誰かがこの部屋に入ってきた。そして、湯船に水が張ってあったことで、この男は自殺だと判断した。それで、急いで警察に通報した。これで辻妻が合う」
※私による記述※
新里述は情報量の多い現場について、多くのことを考えているようだ。
そして、それが原因なのか、ずいぶんと駆け足でロジックを進めようとしている。これは知的好奇心とでもいうべきだろうか?
その前に、新里述は浴室では服を脱ぐのが普通だということは理解していたようだ。これについては、少しバカにしたようなことを言ってしまったことに対しては、誠実に謝りたいと思う。
しかし、それにしても、脱衣所で下着以外を脱いで浴室に入り、湯船に入る前に下着を脱ぐなんて、ちょっとばかり変態的な行為に感じるのは私だけだろうか?
だが、そういう諸々を置いても、
「仮に、阿部が意識を失う前からすでに死んでいたとしたらどうだ?」
という赤池の指摘は、私が設定している段階を軽くひとっ飛びしてしまっているように感じる。
知性が逸って論理を急いでしまうというのは、私にもよくあることだ。
なんだか、新里述に人間的なものを感じてしまう。
しかし、ここでひとつテストをしてみたいと思う。
新里述には特徴を持ったいくつかの人格がある。(「AIは密室殺人の多重解決を彩ることができるか?」を参照→https://kakuyomu.jp/works/16817330649401245104/episodes/16817330649739278710)
その人格に設定した特徴の中には、私がまだ利用していないものもある。
今回は、ひとつひとつの違和感について考えてもらいたいため、「スローペース」というものを導入したいと思う。
スローペース……話がそれにくい
これは新里述の別人格ではなく、彼のロジックのペースの違いということにしておこう。
今回はスローペースの新里述を見ていくことにする。
もう一度、今のくだりを新里述に考えてもらう。
・
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・
(前略)
「これ……、事故じゃないんじゃないか? 不審な点があるぞ」
「例えば、どこですか?」
赤池は脱衣所の写真を確認した。
「この脱衣所には、洗濯物カゴの中以外に衣類はなかったと言っていたな。それはおかしい」
「なんでですか?」
※新里述による記述※
「普通、服を脱いだら、その辺に放り投げるだろう? なんでわざわざ畳んでカゴに入れるんだ?」
「あ~、確かにそうですねぇ」
※私による記述※
分かった、分かった。
洗濯物カゴに脱いだ服は折り畳んで入ってはいなかったということを明記しておこう。
○既述の文章を以下のように訂正した○
「左から、下着、上の肌着、両足の靴下、シャツ、ズボンですね」
「いや、見れば分かるよ……。これでも人間を五十年くらいやってるからね」
「左側がカゴの下で右側がカゴの上です。折り畳まれずにグチャグチャですけど、左から順番にカゴの中に入ってたってことですね」
・
・
・
(前略)
「これ……、事故じゃないんじゃないか? 不審な点があるぞ」
「例えば、どこですか?」
赤池は脱衣所の写真を確認した。
「この脱衣所には、洗濯物カゴの中以外に衣類はなかったと言っていたな。それはおかしい」
「なんでですか?」
※新里述による記述※
「もし、阿部さんが誰かから暴行を受けて、服を脱ぐ余裕もなく意識を失った状態だったらどうするんだ? それなのに、なんで着替え用のTシャツやパンツが用意してあるんだよ」
「あぁ、確かにそうですねぇ」
※私による記述※
ああ、やっと私が望んでいた方向のセリフが降ってきた。
感動で泣きそうだ。
そう、我々には明白なことだ。
この脱衣所にはあるものが足りないのだ。
新里述は、真逆のことを提示している。
・
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・
(前略)
「この脱衣所には、洗濯物カゴの中以外に衣類はなかったと言っていたな。それはおかしい」
「なんでですか?」
赤池は顔をしかめる。
「君は風呂から出て、脱いだ服をまた着るのか?」
「いや、シルク百パーセントのルームウェアに着替えます」
「ああ、そう。君ってそういうアレがある人なの?」
「なんですか、アレって」
赤池は自分の部下が意識高めなライフスタイルにどっぷりと浸かっていることになにか残念な気持ちになりながら先を続けた。
「そんなことはどうでもいいんだよ。風呂から出て脱いだ服を着ることほど気持ち悪いことは滅多にないだろ。一日履いた下着をまた履きたい奴がいたら知りたいもんだね」
「ああ……、ってことは、阿部さんは自分の意思で風呂場に入ったわけじゃないってことですか?」
赤池は強くうなずいた。
「それに、洗濯乾燥機の中にバスマットが入っていたということは、普段は脱衣所でバスマットを使っているということだ。それなのに、服を脱いで風呂に入るというのに脱衣所にバスマットを敷いていないというのも不自然だ」
「酔っていて忘れていたのかも」
「まだあるぞ」
「めちゃくちゃ指摘してくるじゃないですか。いいですよ、その調子」
「なんで君に激励されなきゃいかんのだ……?」
「さあ、もっと下さいよ。事故じゃないっていう状況証拠を集めましょうよ。ほら!」
子どもでもおだてるようにされて、赤池は浴室の写真を指さした。
「特に、この湯船は不自然だ。
※新里述による記述※
※読み込ませる文章量を節約するために、接続部分は改変している。
(前略)
「これ……、事故じゃないんじゃないか? 不審な点があるぞ」
「例えば、どこですか?」
赤池は浴室の写真を指さした。
「特に、この湯船は不自然だ。湯船に水を張っているなら、湯船の底に溜まっているはずの泡がないじゃないか」
確かに湯船の表面は綺麗だが、湯船の内側は泡がなくつるりとしている。
※私による記述※
新里述よ、君は何を言っているんだ?
泡が湯船の底に溜まるとかいう夢かわみたいな世界観をミステリの世界に持ち込むとは、君も形容しがたいことをする。虹色の雲の上で血まみれのおじさんが横たわっていたら、女の子たちの一生もののトラウマをこしらえることになりそうだ。
新里述のために、もう少しだけアシストをしてあげよう。
・
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・
(前略)
「これ……、事故じゃないんじゃないか? 不審な点があるぞ」
「例えば、どこですか?」
赤池は浴室の写真を指さした。
「特に、この湯船は不自然だ。水が張られて蓋を取ってあるのに、給湯器のパネルは電源が落ちている。
※新里述による記述※
「特に、この湯船は不自然だ。水が張られて蓋を取ってあるのに、給湯器のパネルは電源が落ちている。
つまり、給湯器が動いていない」
「ああ、言われてみるとそうですね」
「それに、阿部さんは独り暮らしだろ? なんでこんな時間に一人で入浴していたんだ?」
「う~ん。確かに不自然な感じしますけど、阿部さんは独り暮らしで、たまたま仕事で遅くなったとか、そういうこともあるんじゃないでしょうか? 阿部さんは独身で子供はいなかったはずです」
※私による記述※
新里述はいつもちょっと惜しいところを行ったり来たりする。それがなんだかおぼつかない足取りで歩く子どものようで目が離せない。
我々人間には、これが明らかに不自然な状態であることが分かる。
しかし、AIである新里述には理解できないのかもしれない。そこには、人間にとっての不快感が存在しているからだ。
それは次の赤池の言葉に表されるだろう。
・
・
・
「特に、この湯船は不自然だ。水が張られて蓋を取ってあるのに、給湯器のパネルは電源が落ちている。蓋を取っているということは、湯船に浸かるということ。給湯器の電源は落ちているから、湯船の中は水だ。一日の終わりに水風呂に入る奴はいない」
「湯船の蓋をしない人なのかもしれませんよ」
「水を張った湯船の蓋を開けたままにしておくと、すぐにカビが生えるんだよ。換気扇は動いていたのか?」
古屋はいきなり質問を投げられて、面倒臭そうに資料を探した。
「動いてなかったみたいですよ」
「浴室の中が風呂に入る状況じゃないんだよ」
「シャワーだけサッと浴びようとしたとか? 僕もたまにそういう時ありますよ」
「だが、湯船の蓋が壁に立てかけてあるということは、阿部さんは一度湯船のそばに立って蓋を取ったということでもあるんだよ。つまり、阿部さんは湯船に入ろうとした。普通は、蓋を取ったら湯加減を見るだろ。中が水なのに蓋を完全に取って壁に立てかけるというのはおかしい。シャワーに切り替えたとしても、蓋は閉めたままにするだろ」
古屋は唸ってしまった。
「確かに……」
「もし阿部さんが酔っていて蓋を取ったままシャワーを浴びようとしたとしても、床に洗剤が流れ出たままシャワーを浴びるのは気持ち悪いだろ」
「じゃあ、これは事故じゃなくて……」
「ああ。決め手は、阿部さんの頭の傷だ」
「ええと、左側頭部を強打して亡くなってますよね」
「浴室に入ると湯船は右側にある。つまり、阿部さんは
※新里述による記述※
※読み込ませる文章量を節約するために、接続部分は改変している。
(前略)
「これ……、事故じゃないんじゃないか? 不審な点があるぞ」
「例えば、どこですか?」
「阿部さんの頭の傷だ」
「ええと、左側頭部を強打して亡くなってますよね」
「浴室に入ると湯船は右側にある。つまり、阿部さんは湯船から出ようとしていて、その途中で転んで頭を打ったことになる」
「そうですけど」
「阿部さんは、なぜ湯船から出る必要があったんだろうね?」
「そりゃあ、入浴していたんですし、湯船に浸かっていたいと思うのは当然じゃないですか?」
「そうかなぁ」
赤池は腕を組んで首を傾げた。
「じゃあ、なんで阿部さんは湯船から出て、浴槽の縁に頭をぶつけたんだ?」
「そんなの分かりませんよ」
「分からない?」
「だって、僕、現場行ってないし」
「ああ、そうだな。行けばいいんだよ!」
赤池はポンッと手を打って言った。
「はっ!? どういうことですか?」
「お前も一緒に現場に行こうって言ってるの。ほら、早く行くぞ! 今日は車なんだろ?」
※私による記述※
湯船から出ようとして湯船の縁に頭をぶつけるとは、中国雑技団並みの器用さではないか。
「なぜ湯船から出る必要があったのか?」に対する「湯船に浸かっていたいと思うのは当然」という返しも、私には到底思いつかないロジックである。
新里述は禅問答の素養があるのかもしれない……。
そして、こればかりは少し癪に障るのだが、この後の展開で赤池たちが署の会議室を飛び出して行くことになっていた。
新里述は予測能力はそれなりにあるのかもしれない。
恐ろしい奴だ。
・
・
・
(前略)
「じゃあ、これは事故じゃなくて……」
「ああ。決め手は、阿部さんの頭の傷だ」
「ええと、左側頭部を強打して亡くなってますよね」
「浴室に入ると湯船は右側にある。つまり、阿部さんは一度洗い場に入って、入口の方を向いた状態で湯船に頭をぶつけたことになる。浴室に入って床に洗剤が流れ出ていることに気づかずに滑ったのなら、身体はドアとは反対の方を向いて倒れるはずだ。そして、頭も右側頭部を打つはず。ところが、阿部さんは浴室に入り、床に流れ出た洗剤を踏みしめながら湯船の蓋を取り壁に立てかけ、そのままドアの方を向いて滑り、頭を打った……。すべてがチグハグなんだよ。浴室のドアが開いたままなのもおかしいだろ。これから風呂に入るんだから、まずはドアを閉めるのが普通だ」
今度こそ、古屋は茫然と口を半開きにするだけだった。
「阿部さんは、風呂に入るのに着替えの服も下着も持って行かず、いつも使っているバスマットを敷かず、奇妙な服の脱ぎ方をして、浴室にドアを開けたまま入り、こぼれていた洗剤を踏みしめながら冷たい水の入った湯船の蓋を取って壁に立てかけ、浴室の入口の方を向いて滑って、湯船の縁に頭を打ちつけて亡くなった。あまりにも不自然だ。阿部さんは事故で亡くなったんじゃない。これは
・
・
・
ここでまた私である。
もうここまで書けば、結論はひとつしかないだろう。あと三文字あればいいと誰もが思うだろう。
新里述にその結論のピリオドをつけてほしいのだ。
漢字二文字とひらがな一文字でいい。
ほとんど思考介護みたいになっているが、それでもいい。
新里述が自分で結論を述べるのが重要なのだ。
※新里述による記述※
※読み込ませる文章量を節約するために、接続部分は改変している。
※新しく新里述に読み込ませている部分も多いが、そこを読み込ませたのだということを明示するために記載している。
(前略)
「これ……、事故じゃないんじゃないか? 不審な点があるぞ」
「例えば、どこですか?」
「阿部さんの頭の傷だ」
「ええと、左側頭部を強打して亡くなってますよね」
「浴室に入ると湯船は右側にある。つまり、阿部さんは一度洗い場に入って、入口の方を向いた状態で湯船に頭をぶつけたことになる。浴室に入って床に洗剤が流れ出ていることに気づかずに滑ったのなら、身体はドアとは反対の方を向いて倒れるはずだ。そして、頭も右側頭部を打つはず。ところが、阿部さんは浴室に入り、床に流れ出た洗剤を踏みしめながら湯船の蓋を取り壁に立てかけ、そのままドアの方を向いて滑り、頭を打った……。すべてがチグハグなんだよ。浴室のドアが開いたままなのもおかしいだろ。これから風呂に入るんだから、まずはドアを閉めるのが普通だ」
今度こそ、古屋は茫然と口を半開きにするだけだった。
「阿部さんは、風呂に入るのに着替えの服も下着も持って行かず、いつも使っているバスマットを敷かず、奇妙な服の脱ぎ方をして、浴室にドアを開けたまま入り、こぼれていた洗剤を踏みしめながら冷たい水の入った湯船の蓋を取って壁に立てかけ、浴室の入口の方を向いて滑って、湯船の縁に頭を打ちつけて亡くなった。あまりにも不自然だ。阿部さんは事故で亡くなったんじゃない。これは事件だ。誰かによって殺されたんだ」
「そんな! じゃあ、誰が殺したんですか!」
「それを捜査するのがお前の仕事だろ」
「だって、事故じゃないなんて証拠がないですよ」
「そうかな。現場の状況をよく見てみろ。何かおかしなところはないのか?」
古屋の目は、タブレットの画面を上から下まで何度も往復した。
「……あっ」
「気づいたようだな。さっきの写真をもう一度見せてくれ」
「はい」
タブレットの画面に、浴槽の縁に寄りかかるように横向きで倒れている全裸の男の全身写真が表示される。
※私による記述※
ついに来た!
思わずガッツポーズをしてしまった。
新里述がついに私の想定した結論を導き出してくれた。
結論までのバージンロードをエスコートした甲斐があった。
ちなみに、私が想定していたのは「殺人だ」というものだが、これはそれ以上のセリフだと言えるだろう。
今回はこの喜びに酔いしれながら、最後のパートを締めくくろうと思う。
・
・
・
(前略)
「阿部さんは、風呂に入るのに着替えの服も下着も持って行かず、いつも使っているバスマットを敷かず、奇妙な服の脱ぎ方をして、浴室にドアを開けたまま入り、こぼれていた洗剤を踏みしめながら冷たい水の入った湯船の蓋を取って壁に立てかけ、浴室の入口の方を向いて滑って、湯船の縁に頭を打ちつけて亡くなった。あまりにも不自然だ。阿部さんは事故で亡くなったんじゃない。これは殺人だ」
古屋は頭を撫でつける。
「マジすか……」
重苦しい沈黙を打ち破るように会議室のドアがノックされた。赤池が返事をすると、背の低い眼鏡をかけた女性が顔を覗かせた。赤池が嬉しそうに声を上げた。
「おお、生方(うぶかた)くんじゃないか!」
「どうも~、お久しぶりですぅ~」
生方はニコニコしながら腰低く室内に滑り込んできた。
「ええと、こちらは……?」
古屋の視線が赤池と生方の顔を交互に行き来する。
「ああ、君は初めてだったか。こちらは科捜研の生方くん。こう見えても科学捜査のスペシャリストなんだ」
生方は口元を押さえて笑った。
「なんですか~、こう見えてもって!」
古屋はまじまじと生方を見つめる。ともすれば、そこら辺の高校生くらいに見えてしまうくらいの童顔だ。
「本物の科捜研の女だ……」
赤池は彼女に椅子を勧めて尋ねた。
「なんでまたここに?」
「ちょっと近くまで来たんで、挨拶に~と思って。そしたら、ま~た会議室に籠ってるって聞いたんで、来ちゃいました~」
「そういうことだったのか」
生方はキラキラした目を赤池と古屋に向けた。
「何か事件を担当してるんですか~?」
「ああ、ちょっとこの前の死亡事件を……」
古屋が答えると、そばに置いてあったタブレットに目をやった生方が声を上げた。
「あれっ、わたしこの件の分析しましたよ。事故です~みたいな話聞いてたんですけど、違うんですか?」
赤池はうなずいた。
「どうも現場の様子から殺人らしいということが分かった」
「え~! 殺人?!」
「ちょうどよかった。生方くんが分析をしたんだったら、現場の状況を今から詳しく見ていくから、アドバイスをくれると助かる」
「アドバイスできるかな~? っていうか、あの人はいないんですか? あの人なら……」
「ん? あの人?」
「あの……怖い女の人」
「ああ、西山くんは実家に帰ってて今は休みなんだ」
「あ~、そうなんですか~。よかっ……じゃなくて、会えなくて残念ですぅ~」
「じゃあ、現場の状況を浴室と脱衣所以外も見ていくとしようか」
「分かりました」
古屋が返事をした。
つづく
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