あにおとうと(1300字程度)
話があるんだ、と弟が言った。
焼香の香り漂う、父の通夜のすぐ後だった。壮一は重い腰を上げた。大方、話題の方向は読めている。壮一は務めて何も知らぬ風に、薄く弱々しい笑みを浮かべた。
「どうしたんだ、宗次」
「おふくろのことだよ」
親族の群れから抜け出て、縁側に腰かけ、弟はポケットから煙草を取り出すとおもむろに吸い始めた。吸う前に一言聞けよ、と壮一は思ったが、おくびにも出さず、その隣に腰かける。
「母さんのこと?」
「おやじが死んで、もうこの家におふくろ一人っきりだ」
「――それで? それがどうした」
弟は信じられない、とばかりに壮一を見つめた。「わかんねえのかよ。誰がおふくろの面倒を見るんだ」
「俺には仕事と家庭がある」
「俺にだって、あやねがいる。あやねを大学に行かせてやらなきゃならない」
それはお前が犯罪者になるようなろくでもない嫁と離婚したからだろう、今からでも後妻を探せばいいだろうがよ。壮一はそう考えたが、やはり口には出さず、気弱な兄を演じる。
「だけど、東京からこっちに越してくるのは難しいよ、宗次……」
「俺だって、そばに住んでるからって何でもかんでもは無理だよ!」
弟は煙草の吸殻を庭に投げ捨て、冠婚葬祭の場でしか履かない、くたびれきった革靴でぐりぐり踏みにじった。
「兄貴が少しでも助けてくれるってんならまだ何とかなるんだよ、俺一人は無理だ」
「……」
壮一は黙り込んだ。彼の頭の中には、向こうで給仕を手伝っているであろう、若くて美しい愛妻がいた。彼女は「絶対にお義母さんの面倒は見ないから」と結婚の際に言っていた。もうすでに約束してしまっているのである。「約束を破れば離婚する」とも。だから壮一の答えははなから決まっている。
――お前ひとりで、頑張ればいいじゃん。
「……宗次の気持ちは痛いほどわかる。だけど俺には、そんな余裕がないんだ。仕事の合間を縫って来るにしたって、あんまり長居はできないし、母さんだって……」
薄い笑みを張り付けたままの壮一に向かって、弟は唾を吐きかけるような勢いで叫んだ。
「――演技くせーんだよいちいち!」
そして弟は壮一の胸倉をつかんだ。柔道部だった兄弟は、靴を脱ぎ捨て、黒い靴下のまま庭先に躍り出た。
「言うなら言えよ! 俺にはやる気が無いですう、ってよ! おふくろを見捨ててウハウハ暮らすってよ!」
「そんなこと、言うわけないだろ!そんな親不孝なことを言うわけ!」
「態度がそう言ってんだよくそが! てめえなりにも長男だろうがよ! なんで俺が、なんで俺ばっかり! 俺ばっかりこんな目に遭わなきゃなんねんだよ! カス!」
足を払われ、背負い投げられる。身に沁みついた受け身で衝撃を受け流すが、庭に置いてあった石に打ち付けられたらしく、背中がじくじく傷んだ。
「宗次っ!」
「なんで俺ばっかり!」
そこへ、騒ぎを聞きつけた親類がなんだなんだとやってきた。その人垣をかきわけて、まっすぐ向かって来るセーラー服の少女が、弟の腰にしがみついて、なおも殴りかかろうとする父親を止めた。
「お父さん、だめ。だめだよ。お父さんも犯罪者になっちゃうよお!」
ぼろぼろ涙をこぼす娘に感化されたのか、怒りを鎮めた弟は、泥まみれの喪服の壮一をきっと見下ろした。
「お前みたいなのが一番嫌いだ」
「……俺もだよ」
まだらぼけの母だけが、何も知らずに二人の息子を見下ろしていた。
ありふれた悪魔 紫陽_凛 @syw_rin
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