女の天啓(1400字程度)

 インターネットを眺めるのは楽しい。特に見当違いの意見がバズって私のタイムラインにまで流れてくると、笑いが込み上げてくる。これだからインターネットってやめられないのだ。

『抱っこ紐外しの犯人、間違いなく子供を持てなかった中年女の妬み』というツイートに500いいね。頼子はにじむ笑いを隠すことができずに、ふふと口元を緩めた。背後から、ドアが開く音がした。

「ママ、おやすみなさい」

「おやすみ。あったかくして寝るのよ」

 頼子は四十も半ばで、専業主婦をやって十年余り。子供を授かって八年。おそい結婚だったからか、お見合い結婚だったからか、夫とは冷えた関係である。彼女の唯一の楽しみは、適当な市営バスに乗り合わせた、子連れ女のおんぶ紐を外してやることだった。


 かつての頼子は外から聞こえてくる、団地の子供たちの奇声に悩まされ続けてきた。つんざくような喚き声は、偏頭痛持ちの頼子にはひとたまりもない。このままではヒステリーになってしまう。……そうやって頼子が必死に、真摯に指摘したというのに、団地の相手方の主張はこうだ。

「子供のしたことですから、大目に見てください」

 それは本来、頼子側が掛ける言葉ではないのか? 頼子の一人娘のあやねなどは、こんなに騒ぐことはなかった。しつけの問題じゃないのか。何故野放しにする? 

一層激しくなる子供の騒音にとうとう頼子も「キレ」て、初めての凶行に及んだ。


 実のところ、最初からそうしようと思ったのではなかった。思い付きのようなもの、神様からの天啓だったかもしれなかった。この留め具を外したらどうなるんだろう――積年の「子供とその若い母親」に対する恨みが、目の前で携帯を弄っている女の背中に延びる。バックルを外したらどうなるだろう。眠っている赤ん坊は落ちるだろうか。それともずり落ちる赤ん坊に気づいて、母親が悲鳴を上げるほうが先だろうか。

 そうして頼子は、もうすこしで次の停留所、というタイミングを見計らって女のおんぶ紐のバックルを外した。車内には母親の悲鳴が満ち、支えを失ったベビーカーが車内をゴロゴロ走り抜け、降りようとしていた女子高校生の脛にぶつかった。少女が悲痛な声をあげて脛を押さえた。

「痛い!」

 若い母親は子供を抱きしめて謝りどおしだった。頼子はすべてを見届けることなく、料金をきっちりと払ってその場を離れた。

「うふ、ふふふ」

 すっきりした。何より楽しい。こんなに楽しいのになぜ今までやらなかったんだろう。

 

 頼子は何度もそれを繰り返した。反応は母親によってさまざまだった。頼子はおかしくて、おかしくて、頬の筋肉が緩むのをこらえながら、毎回近場の停留所で降りた。気分は神様だった。

 その日も、頼子はウキウキで抱っこ紐のバックルに手をかけた。いつもと違ったのは……そこに目つきの鋭い男が乗り合わせていて、頼子の手首をぐっと掴んで捻り挙げたことだった。

「いたっ」

「警察だ!」

 私服の男は警察手帳をかざした。彼は怒気に満ち満ちて、その怒りのあまり体中震えていた。そして頼子が目をつけていた若い母親も、おとりの警察官だったらしい。冷ややかな目で、こちらを見つめている。頼子は嵌められたのだ、と気づいた。同じバスで同じことを繰り返したから――。


「なんでこんなことをするんだ!」


 目を血走らせて男性警察官が問う。頼子は激情を向けられて、きょとんとした。


「え?なんでって。……なんで、そんなことを聞くんですか?」

 

バスの中は沈黙してしまった。頼子だけが首を傾げていた。

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