第2話 孤児院の少女(2)
「おおい、みんなあ! こいつは半獣だぞ! あの気持ち悪い赤い目を見ろよ!」
「うるさいわよ」
張ったわけでもない声は、硬質な琴のように澄んで、いつだってよく響く。
「他人の目の色のことなんかに、よくまあ、そうも夢中になれるわね。わたしには無理だわ。だって朝から晩まで孤児院の先生のもとで働いて、畑の手入れに教会のお手伝いもして、小さい子の面倒も見て、食事と寝る前には神様に祈って、そんな暇、一秒だってないもの」
「! てめえ……! バカにしてんのか!?」
屋台の奥にいた男が血相を変え、拳を握って大股で近づいてくる。
セシルが小さく悲鳴を上げ、青ざめたギーが前に立とうとするのを、――スッと伸ばした腕で、アリアは言葉なく制した。
「たとえ、あなたがわたしを獣と呼ぼうとも」
衆耳を惹きつける声。
背筋を伸ばし、ひたとおのれを見上げる大きな瞳に、男はたじろいだ。
侮られるはずの赤い瞳は、むしろ傲然と軽蔑を滲ませて憚らなかったから。
「わたしは自分が何者か知ってるわ。生まれてこのかた獣になんてなったこともない、ただの人間だって。この目を遺した母が、生涯をかけて伝えてくれたから。人を人たらしめるのは、自分との約束を守ること。魂が恥じないよう生きることだって。だから、あなたにわざわざ教えてもらうことなんて、一つもないの……!」
強く怒りを湛えた、朝焼けの瞳。
一歩も引かずに大人の男を見据える堂々としたその様は、灰色の粗末な衣服をまとっていても、卑しい獣と定められた色をしていても、目を離せないほど気高かった。
「そうだそうだ! 言ってやれアリアちゃん!」
「働き者のあの子らより、お前さんのほうがよっぽど獣だよ!」
「違えねえ! ったく、昼間っから酒なんか飲んで、このろくでなしの若造が!」
周囲の店主たちが野次を飛ばす。
華奢な指が、ビシッ! と男の胸元に突きつけられた。
「そもそも果物のお金、払ってないでしょ? 農家さんは投げつけられるために育てたわけじゃないのよ。ダントンおじさまだって、おいしく食べてもらうためにここでお店を出してるのに。まず、ちゃんと代金を支払って!」
「よ~く言ってくれたアリアちゃん! おいてめえ、アル中のコソ泥さんよぉ? わかってんだろうなあ……?」
「ヒッ!」
ゴキゴキッ!
にこやかな笑顔と太い骨の鳴る音に、急速に酔いが冷めた男は慌てて懐から硬貨を取り出すと、屋台に置いた。
「……悪かった……」
どちらに対してかわからぬ、口の中で呟くような不明瞭な詫び。
だがアリアの聞こえすぎる耳には、当たり前のように届いた。
「待って」
「……まっ、まだなんか言いたりねえのか!?」
「これ、半分もらっていい?」
「は?」
そのまま足早に立ち去ろうとする男を呼び止めたアリアは、足元のザクロを拾うと、パカッと半分に割った。
「ザクロなんていいもの、こんな時じゃなきゃ食べられないもの。はい、半分返すわ! これでおあいこ、痛み分けね!」
差し出す少女の左の額は、血のように赤い果汁でべったりと汚れている。
「……」
だが見上げてくる顔はピカピカの曇りなき笑顔で、男はどう受け止めたら良いのかわからぬまま、引き寄せられるようにして割れた果物を手に取った。
(……あ~あ。いつもこうだ)
ギーは出番のなかったこぶしを収めながら、そっとため息を吐いた。
――この風変わりな少女が初めて孤児院へ来た日のことは、よく覚えている。
『アリアと言います! 年は七歳、夏生まれ。得意なものは歌とピアノ! これから仲良くしてね!』
明るい声、元気な挨拶、太陽のような笑顔。
場違いなそれに、孤児たちだけでなく監督者たちすらも、面食らったものだった。
ここに来るということは、家族を一人残らず失い、その上で庇護を申し出る者が一人もいなかったということ。
見渡すかぎりの全てに見捨てられたのだと、絶望の滲んだ目をして門をくぐってくる子どもしか、見たことはない。
ニコニコ笑って自己紹介をしてみせる孤児など、ありえなかった。
(ちょっと、足りないやつ……なのか? 状況が理解できてないのか? まあどうやら、あの喋り方といい特技といい、いいとこの温室育ちみてえだな。この分じゃ、三日と経たず絶望するだろうよ)
その予想が過ちだと気付かされるのに、時間はかからなかった。
瞬く間にあの手この手で孤児たちに溶け込んだ彼女は、いつの間にやら監督者たちも丸め込み、孤児院の前で立ち売りしていただけの野菜を、こうして朝市に向かう雑踏で売るように仕向けた。
最初は罵声を浴びることも、ゴミを投げつけられることもあった。
こんな人混みでスリでもするつもりだろうと、何もしていないのに疑いの目を向けられたことも何度もあった。
それでも、彼女の笑みはいささかも揺るがなかった。
『なんで……なんでわざわざ、人前に出るんだよ? バカにされて、嫌な目に遭うだけじゃねえか。これまでどおりおれたちみたいなみなしごは、路地裏でひっそり生きていきゃあいいだろ。……少なくとも、こんな目には遭わねえ』
とりわけて赤い目を持つ彼女への排斥は強く、今日と同じように悪罵を投げられ、災難なことに頭から生ゴミまでも浴びせられ、わずかな売り金とともに帰路についていた時のこと。
『それはね、ウッ! くっさ!』
悪臭に鼻をしかめながらも、その目の輝きはいささかも目減りしない。
『わたしは、バカにされていい人間じゃないからよ。ギーもセシルもそう。院の子は誰一人として、バカにされていい子なんていない。――であれば、外の人に教えてあげなくちゃ。わたしたちがどんな人間なのか、どう扱うべきなのか。たとえこんな分からず屋であっても、わかるまで辛抱強くね』
彼女が常に浮かべているのは、育ちの良さそうな朗らかな笑み。
だが皮を一枚めくれば、獰猛な炎が揺らめいているのを、知っている。
『道を開けるのは向こうのほうだわ。わたしが退くことなんてありえないから。……大丈夫! こわーい肉屋の店長も、すぐ手が出るお惣菜やの女将さんも、そこらへんのラリってる不良も、必ずわたしたちのファンにさせてみせる! だから、信じてついてきて!』
『……』
ピカピカの笑みが言うことを、無条件で信じたわけではなかったが。
気づけば本当に、その約束を実現してしまっていた。
(すげえやつだ、ほんと……)
だからこそ。
ギーの胸には、いつも不安が拭えなかった。
願わくば、どうか目立たないでほしいと思っていた。
孤児院への帰り道。
少年の懐に今日の売上が入っていることもあり、アリアたちは三等分したザクロを頬張りながら、ほぼ駆け足で帰っていた。
のんびり歩いていたら、
この細道はあまり治安がよくないのだ。
「……アリア。やっぱり前髪を伸ばしたりして、ちょっと目を隠したら? わたし、心配だよ……」
セシルの不安げな声に、アリアの歩が少し遅れた。
それに気づいたギーも駆け足を緩めて「セシル……」と咎めた。
「今までだって何とかなってきただろ? 気にしすぎだ」
「何とかなってきたのはたまたまだよ! 今日だって、もし投げられたのがザクロじゃなくて、石や酒瓶だったら? アリアは頭がいいけど、時々不安になるんだよ……」
アリアは足を止めると、大事な友人を抱きしめた。
「!」
「セシル、ありがとう! 大好きよ」
セシルもまた困ったように頬を染めて、「……わたしも……」と小さく答えた。
「心配してくれてうれしいわ。でも、髪で目を隠したら前が見えなくなっちゃうもの。たぶん十歩くらいでドブに落ちて足をくじくと思う」
「お前、運動神経そこそこ悪いもんな……」
「それにわたし、……お母さんの目が好きだった。同じ色かはわからないけど、お母さんのあの赤を継いでいるなら、隠したくなんかない。この目が何を引き寄せても、わたしは一緒に生きる」
セシルの優しいハシバミ色の瞳に、アリアは自分の顔を写し込んだ。
鏡なんて孤児院にはないから、自分の目が何色なのか実際には知らない。
だが、亡き母の宝石のような輝く瞳を、今でも覚えている。
「……うん。わたしもアリアの目、好きだよ。朝焼けみたいなきれいなピンク色」
「ふふ。セシルは晴れた夏の小川みたいな、澄んだヘーゼルアイだわ」
「おれは?」
「青」
「青」
「雑なんだよなあ」
悠長に足を止めていたからか、こちらへと向かう足音をアリアが聞きつけて、三人は慌てて孤児院への道を駆け出した。
「ああ、アリア! ちょうどよかった……! あんたにお客が来てるよ!」
「客?」
角から顔を覗かせた仲間にそう呼びかけられて、白金の頭は不思議そうに傾げられた。
母を失った一年前から天涯孤独の身。
訪ねてくる者など、心当たりはない。
「……」
ギーは黙したまま、眉間にシワを寄せた。
「ぼさっとしてないで、いいから来て! ――すっごいの! 早く!」
「すっごい?」
手を引かれるがままに駆けていく。
聡い耳が、視界よりも早く、大型動物の呼吸音を捉えた。
(……馬?)
角を曲がった目に飛び込んだのは、大型の
大きな四輪が支える黒塗りの車体には、金の紋章が施されている。
舗装されていない
(……とうとう、来たか……。だから、目立ってほしくなかったのに……)
「いま、院長と話してる! 応接間! ほら、早く行って!」
「待って待って。誰?」
「すっごい高そうな服着た、すんごい男前だよ! ――お貴族さまが、アリアを探してるんだって!」
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