旋律のアリアドネ-底辺ヒロインは王冠に手を伸ばす-

長谷川愛実(杉山めぐみ)

第1部 玉座のゆくえ - 1章 アリアという少女 -

第1話 孤児院の少女(1)

 その歌は挨拶をするようなさりげなさで始まった。


 港町ベツィルクの酒場は宵の口。


 労働者たちの昼間に持て余した熱がこもって息苦しいほどの騒々しさだが、張ったわけでもない声が広がった途端、こころよい風を浴びたようにみな目を細めた。


 ――朝露に濡れた丘、愛を教えてくれた美しい女性。

 夏のそよ風のような声は、この世の何より妙なる響き。

 でも露草色の瞳をした彼女は、海峡を渡って遠い大陸へ行ってしまった。

 ぼくはずっとこの町で馬蹄を叩いている。

 夏を目指す駒鳥レッドブレストよ、どうかこの金槌の音を届けておくれ。

 遠い街で彼女がぼくを思い出すように。


 捨てられた男の、哀れだがやけくそな軽妙さのある歌。


 酔いの回った男たちは、自分の身にもあった苦くも甘酸っぱい恋を思い出し、涙ぐんでは薄いビールをさらに飲み干した。


 歌うのは、嘘のように美しい女だった。


 長く柔らかなプラチナブロンドに、だいだい色にも近いピンクの瞳。


 うらびれた地方の小さな町には似つかわしくない女は、一曲歌い終えると、貴族のような礼をした。


「お母さん。どうしてお母さんはそんなにお歌が上手なの?」


 月が中天にのぼる頃。


 店じまいをした酒場で、甘い粥を食べながら娘が尋ねた。


 居酒屋イヴォーグでのお勤めは週に一度。


 パン屋の仕事がお休みになる前の晩だけで、まだ六歳の少女には眠いことこの上なかったが、深夜に食べられる蜂蜜入りのミルク粥のためについてきていた。


 歌う女は娘の髪を撫でながら、「あなたも同じよ」と答えた。


 ――あなたの目は特別よ。お母さんと同じように。でも一番特別なのは耳。

 いつかその耳は教えてくれるわ、あなたの喉から何が出てくるのか。――






++++++++++++++++++






「おはようございます! リエヴル孤児院で作ったお野菜です! アンディーヴ、ニンジン、セロリ、クレソン、全部ぜーんぶ今朝の採れたてですよ!」


 マラルメ通りは、ブランシュの胃袋と呼ばれる下町の大通り。


 昼間は果物屋や八百屋の出店が立ち並び、夜はレストランやバーが灯りをともす、往来の激しい名所だ。


 そんな中を、粗末だが清潔な木綿の衣服を着た三人の子どもたちが、手に手にカゴを持って練り歩いていた。


 呼び声を張るのは、一人の少女。


 はっきりとした、それでいて澄んだこころよい声は、朝のせわしない人並みの中でも人々の耳を惹きつけた。


「へ~、救貧院で野菜なんか作っているのか。どうだ~痩せっぽっちども。腹が減ったからってつまみ食いしてねえだろうな?」


 若い男がからかい半分でカゴの中を覗き込もうとすると、華奢な小さな手がその視線を遮った。


 見上げてくるのは、朝焼けに似た桃色の大きな瞳。


 癖のないプラチナブロンドが朝の日差しを反射して眩しいほど。


「そんなことしません! みんないい子ですもの!」


 いかにも心外そうに頬をふくらませた天使のような顔立ちの少女は、そう一言だけ抗議すると、ニッコリ笑ってバスケットを広げた。


「どうぞ! じっくりご覧ください!」


「あ、ああ」


「オススメはラディッシュです! 見てください、赤くて小さくてかわいいでしょう!? そのまま食べてもシャキシャキしておいしいし、お肉と一緒に蒸したりオーブンに入れたりしても、クタクタしておいしいですよ」


 堂々とした振る舞い、狂いのない敬語、雑踏に似つかわしくない容姿。


 少したじろいだ青年の頭へと、後ろから岩のごときゲンコツが振り下ろされる。


 ゴンッ!


「ぃいって!?」


「お~いお前さん、靴屋のとこの門弟だろ。小ちゃい子たちにちょっかい出してる暇あんのか? 親方が野菜を買ってこいってお使いに出したわけでもあるめえ」


「うっ……」


「働かねえ者はこの町じゃお払い箱だ。さあ、仕事仕事ォ! とっととてめえのことをやりな!」


 追い払われた若い男の背を見送って、アリアはソーセージ屋の主人をニッコリと見上げた。


「おはようございます、オーバンおじさま!」


「おはようアリアちゃん! 今朝もいい声だ! あんたの声を聞くと、いつも清々しい気分にならあ!」


「ありがとう! 母ゆずりなの!」


 少女の声は、雑踏の中でも不思議と、とてもよく届いた。


 その年頃の子どもの声がしばしば甲高く響くのとは別の、まるで正確に調律された小さな弦楽器のような響き。


「元気かい、アリアちゃん!」


「おはようございますジョゼおばさま! ぎっくり腰はよくなりましたか?」


「ああ! あの時はクローデル先生を呼んでくれて助かった。しっかし、魔女の一撃とはよく言ったもんだ」


「まだ無理をなさったらいけませんよ。重たいものを持つ時は呼んでくださいね!」


 アリアの左右でカゴを持つ少年と少女も、心配そうな眼差しでコクコクと頷いた。


 パン屋の女将は、「な、なんて優しい子たちなんだ……っ! 天使かい……!?」と、じんわり涙ぐんだ。


 先日、屋台の奥で倒れている女将にアリアが気づくや否や、少年が町医者を呼びに駆け、その間少女たち二人が女将の手を握って親身に励まし続けたことは、周囲の者たちの記憶に新しい。


「まったく、いじらしくて涙が出らあ。頼れる親も親戚もいないってのに、こんなに心根が優しい子らに育つとはな。うちの倅に見習わせてえもんだ」


「ああ! 孤児院の子だからってふざけた真似をするやつがいたら、あたしらが容赦しないよ!」


「おじさま、おばさま……っ!」


 アリアは胸の前で両手を握り、大きな瞳をうるうると潤ませて大人たちを見上げた。


 左右の少年少女はチラリとそれを見ると、――何も言わず、そっと目線を外した。


(ふふふっ……熟してる熟してる、好感度が……! 毎日欠かさず、野菜のついでに愛想と媚びを売った甲斐があったわね。その上、ちょうどいいタイミングで恩を売る機会までいただけるなんてこれはもう、神の思し召し! 媚び、愛想、それから運……! これさえあれば、世間の荒波もへっちゃらね!)


 ──おおかた、天使のような笑みの下ではこのようなことを考えているのだろうと、親しい友である彼らには充分に察せられたからだった。


 リエヴル孤児院は、リエヴル救貧院に併設されたみなしご用の施設である。


 数年前までは子どもも成人も同じ施設に収容していたが、ある作家の告発によって、ユスティフ国内の救貧院から孤児院が独立させられることになった。


 とはいえ、子どもだからと安穏とした暮らしをさせてもらえるわけではない。


 『貧者の監獄』、救貧院の別名である。


 貧しさとはすなわち、怠惰の帰結。


 救貧院に入るくらいなら死んだほうがマシと思わせる生活でなければ、怠け者の下層民がどんどん頼ってきて、いずれは収容能力を超えてパンクするに違いない。


 この国ユスティフの上層部はこのように考え、救貧院の暮らしを劣悪なものとするよう定めた。


 そこから独立したところで、経営層が同一である孤児院の環境もまた、朝から晩までの労働、貧しい衣服、粗末な食事が付き物であり、一歩外に出れば、市民たちからの侮蔑の目線に晒されるのも同じであった。


 変化が生じたのは、この一風変わった少女が一年前に孤児院の門戸を叩いてから。


「よし。だいたいさばけたわね!」


 昼過ぎ、バスケットいっぱいに持ってきた野菜をあらかた売り切ったアリアは気持ちよく伸びをした。


「ギーはお釣りを渡してただけだけどね。いつ挨拶できるようになるのかなあ?」


「う、うるさいぞセシル」


「うんうん、お会計も問題なさそう」


 少年の首から下げた巾着の中身を確認して、二人の友の頭をぽんぽんと撫でる。


「おつかれさま! 今日もたくさんがんばったわね! じゃあ早いとこ帰りましょ」


「おっ、おいアリア! 子ども扱いはやめろって言ってるだろ! おれはお前とタメなんだぞ!?」


「そうだったわね~。帰ったら畑の手入れにドブ掃除、それから教会のバザーに出す刺繍が残ってるわ」


「まだまだがんばらないとね」


 その時。


 ヒュッと風を切る音がして、プラチナブロンドの小さな頭部に衝撃が走った。


半獣セーミス!」


 赤い汁が視界に入り、キュッと目に沁みる。


「汚らしい半獣のくせに、どうして救貧院に収まってるんだ! おれが払った税金でよくもぬくぬくと……! くっせえ獣が作った野菜なんて、誰が買うかよッ!」

 

 店先のザクロを片手に唾を飛ばして怒鳴っているのは、こんな時間から酔っ払っている見知らぬ若い男だった。

 

 背後の果物屋の店主が青筋を立てて、「おい……どちらさんだァ? てめえ……」と凄んでいる。

 

 ――この国ユスティフ帝国には、被差別階級がある。


 最下層の貧民すらも忌避する、赤い目を持つ彼らのことを、半獣セーミスと呼んだ。

 

 二十年前に滅びた海上王国の末裔。


 神にも逆らう禍々しい力を持ち、夜ごと獣に姿を変えては人を喰らうのだと、まことしやかに囁かれる種族。


 アリアの瞳はオレンジがかったピンク色で、半獣セーミスの典型とされる柘榴色ガーネットの瞳とは異なるが、それでも血と黄金の半ばにあるこの熱い色は、人ならざる者の虹彩と判断された。


「……」


 頭の左側面をべったりと汚した少女は、まぶたについた赤い果汁を手の甲で拭うと、静かに男を見上げた。

 

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