第3話 アリアという少女(1)

 初めて覗き込んだ鏡は、三面鏡造りのドレッサーだった。


 上品なエクリュに塗られたそれには、贈り主が使用者に求める態度を表すように、素朴で愛らしい小鳥のレリーフが彫られている。


「ホムンクルスかってくらい、生き写しね……」


 アリアは自分の頬に手を当て、まじまじと鏡に映された顔を見つめた。


 こちらを見つめるのは、宝石のような桃色の瞳。


 オレンジにも近い澄んだ虹彩には、よく見ると瞳孔の周りに金の光冠がある。


 鏡なんて望むべくもない環境で育ったから、自分が母と同じ瞳をしていることは、八年生きてきて初めて知った。


 聞こえすぎる耳に、門扉をくぐる重たい車輪の音が届く。


 アリアはピョンと窓に近づくと、玉石舗装の庭園を抜けて玄関へ近づく黒塗りの馬車を確かめるが早いか、鏡の前で手早く身だしなみを整えた。


「いけない、リボンがほどけてる。お高い服ってあちこち結ぶところがあるのね」


 淡いピンク色のドレスはしっとりとしたシルク製で、まだ落ち着かない肌触り。


 胸元にある何も結んでいない無用のリボンをきゅっと締めて、小さな女の子は部屋を飛び出した。


「お父さま!」


 両翼造りの階段の上から響くのは、衆耳を惹きつける春風のような声。


「おや」


 ほんの数日前に会ったばかりの養父は目を丸くして、口元を綻ばせた。


 アリアは、大人たちを上目遣いで見上げられる場所まで階段を駆け下りると、恥ずかしそうに「……あっ」と口元を抑えて頬を染めた。


「国境伯さま……! 呼び間違えてしまいました。ごめんなさい」


 コートを受け取る従僕フットマンも、侯爵の後ろに控える家令も、周りに集まってきたメイドたちも、愛くるしいものを眺める笑みを浮かべた。


 グウェナエル卿フレデリク・プランケットも笑いながら「お父さまと呼んでくれて構わないとも」と、新たな娘の頭を撫でた。


「ありがとうございます! 嬉しい……!」


 はにかみ混じりの非現実的に可憐な笑顔を見せる少女は、まるで宝物がそこにあるかのように、自らの白金色の頭に触れた。


 ――呼び間違えたのは演技ではないかとお考えだろう。


 もちろん、演技に決まっている。


 厳しいが愛情深い孤児院の監督者や近所の司祭、世話焼きのパン屋のおじさんならまだしも、数日前に会ったばかりの人間を父親と重ねるわけがない。


 そもそも母のことはよく覚えているが、父とかいう未確認生物UMAなど、記憶の片隅に上ったこともなかった。


「屋敷には慣れたかい?」


「はい。ミセス・マルゴもメラニーも優しくしてくれます。あっ、そうそう。今日はお庭でヘルマンニおじいちゃんをお手伝いして、薔薇を植え替えました!」


 マルゴは家政婦長のことで、メラニーはアリアの部屋がある二階を担当するハウスメイドのことだ。


「あたしの名前を覚えてくださって……!」と感激しているのが、視界の端に映る。


「おや。うちに来てから二日しか経たないというのに、もうすっかり馴染んだようだね」


「はい、皆さんが優しいから!」


 大勢いる家事使用人の顔と名前は、ここに連れてこられた日の晩、見た目の特徴とともに紙に書きつけて記憶した。夜中までかかって大変眠たかった。


 初日に渡された子供向けマナーブックはすでにメモがぎっしりと書き込まれ、集合体恐怖症が見れば絶叫しそうな代物になり果てている。


 家事使用人の中でも家政婦長には特別に「ミセス」と付けなければ失礼にあたることは、それで知った。


 アリアは二日前、孤児院から国境伯邸にもらわれてきた。


「伯に所縁ある女性の忘れ形見と思われる」という、まことにふんわりした理由とともに。






++++++++++






「こちらは西方国境伯……グウェナエル卿、フレデリク・プランケットさまだ」


 院長からそう紹介されたその人は、アリアを見ると驚いたように目を見開き、ややあって絵画のように美しい笑みを浮かべた。


「これはこれは……きみは、御母堂ごぼどうにそっくりだね。いや、本当に。院長先生。彼女が探し人だ、間違いない」


(……この人、お母さんを知ってる)


 地方都市ブランシュ、リエヴル孤児院。


 野菜売りのバスケットを手にしたまま友人に引っ張ってこられたアリアは、話の前後すらわからない状態で、貴族だという男をただ見上げた。


(……もしかしたら……)


「アリア。グウェナエル卿は、お前を養女として引き取りたいと仰せだ」


「!」


(やっぱり……!)


 朝焼けの瞳が、期待を込めてキラキラと輝く。


 ――血縁は、母しかいないと思っていた。


 もう、温かな手は永遠に失われてしまったのだと。


「あのっ……」


 ――あなたが、わたしのお父さんですか?


 そう問いかけようとした声は、院長が次に語る言葉で引っ込んだ。


「国境伯ご夫妻と浅からぬ縁のあった女性の、忘れ形見と思われる……という理由だそうだ」


「……」


 ――いや、あんたの落しだねではないんかい。


 朝焼けの瞳は、うさんくさそうに男を見上げた。




「今後の予定に関わるので、正っ直に答えていただきたいのですが。わたしは国境伯さまの実の娘……ってわけじゃあないんですか?」


 ズバッと聞いてみたのは、わけもわからぬ乗った馬車でのこと。


 地方都市ブランシュの孤児院から国境沿いのグウェナエル領まで、距離にして五日。


 上質な座面は尻も背も深く沈み込んで座り心地はいいが、何時間も座っているとあちこち痛くなってくる。


「ングッ」


 歯に衣着せず、ろくでもない不審者を見るような目でハッキリ尋ねられたフレデリクは、口元を押さえて奇妙な音を発した。


「……そういうわけではないんだよ。本当に」


 しばらくして上げられた顔には、含み笑いの痕跡が残っていた。


 氷のようなアイスブルーの瞳は少し垂れ目がちで、黒髪にはまだ白髪の一本も見当たらない。


 下町では見たこともないような男前である。


「……」


 嘘などどうとでも吐けるだろうが、当人に否定されては探るすべはない。


 アリアは大人しく──『絶対に裏を取るからな』という意思を顔面で雄弁に語りながら──、「わかりました」と引き下がった。


「それじゃあ赤の他人の娘を、どうして養女に?」


「アハハ~、ごめんね。それはまだ内緒なんだ」


「!? な、内緒……!?」


(なっなにゆえ!? なんの意味があって内緒にするの!? ものっすごく重要なところでしょ!? 聖餐日ヴァノーチェのプレゼントじゃないんだから……!)


 にわかに不安が立ち込めてきた道行みちゆきに、こめかみから汗が流れ落ちた。


 ──この大人、大人として大丈夫なのだろうか?


 ──もしかしてこの馬車、優雅な貴賓車両キャリッジのフリをした、戦場に向かうトロッコだったりしないだろうか?


「……念のためお聞きしますが、当っ然、奥方さまにはお話を通してありますよね?」


「いや~、ハハハ! それがまだなんだ!」


「!?」


「君を引き取るよって切り出した瞬間に、グラスを叩きつけて部屋を出ていってしまってね。そこから自室にこもりきりで」


「……」


「心配はしなくていいよ! 君の顔は御母堂にそっくりだから! エミリーもひと目見れば、だれの子かわかるはずさ」


(終わった……! やっぱりトロッコのほうだった……!)


 アリアは癖一つないプラチナブロンドをくしゃくしゃにして頭を抱えた。


「あっそうそう、アリア。君には姉がいるんだよ」


「おっお姉ちゃんが……!?」


 どん底まで落ちかけた気持ちが少し浮上する。


 一人っ子だったアリアは、ずっと姉妹がほしかったのだ。


「セレスティーネという名で、年の割に落ち着いたしっかり者でね。きっと、いい姉妹になれると思うよ」


「……!」


 女神のような美少女がお上品な遊興を手ほどきしてくれるイメージ映像が、瞬く間に脳裏を駆け抜けていく。


(わたしに、お姉ちゃんができるなんて……! しかも大貴族の、おとしやかで麗しいお嬢さまだなんて!)


 咲き誇る薔薇の花園を背景に、鈴を転がすように可憐な声で『まあアリア、それはジュヴァーンじゃなくてドヴォーンよ。アシカラドヴォーンとカタマデチャポーンを合わせると、フロニジャポーンになるのよ』と謎の高等遊戯を優しく教えてくれる美少女を再生したアリアは、パアッと頬を染めた。


「う、嬉しいです……っ!」


「まあ、セレスも君の話をした瞬間、悲鳴を上げて倒れちゃったんだけどね」


「……! ぬか喜びさせるのはやめていただけますか……!?」


「ン゛フッ! 失敬」


 ふたたび一瞬にして絶望したピンクの瞳は、とうとう窓の外の空をあおいだ。


 西方国境伯とは、広大な領地を持つどえらい大貴族のご当主だということを、院長先生から教えてもらった。


 だが、家族の同意を一つも取り付けていないまま強行突破してきたとあっては、いかなる大金持ちといえど、お先真っ暗の養子生活である。


(お母さん、アリアはこれから戦場に行くみたい。どうか天国で、無事を祈っていてください……)


 さて。


(屋敷の女主人とお嬢様からの反発は避けられそうもない。となると、あとは数の勝負ね)


 白金の頭は瞬時に気持ちを切り替え、今後の展望をざっと計算した。


 貴族の屋敷に貴族より多くいる者、──すなわち、使用人。


 女主人から食事を抜かれたり、お嬢さまから折檻されたりは甘受しなくてはなるまい。


 何せ家族に分け入る異分子なのだから。


 しかし、食事の余り物や傷薬を融通してもらえるよう、家事使用人にしっかりとつなぎをつけておきさえすれば、たとえどれだけ過酷な家中であっても、成人までなんとかサバイブできるはずだ。


 アリアは、肝が座っていた。


 下町の荒波を生き抜いてきたからだ。面構えが違う。


 孤児院が劣悪だったわけではない。


 いや、労働は長時間だし食事は薄い粥だけだし、じゅうぶんにひどい環境ではあったが、それ以上に母と暮らしていた時のほうが大変であった。


 亡き母は、「西のドブ町に女神がいる」と噂されるほど美しい人だった。


 その通り抜きん出た美貌の持ち主だったが、――同時に並外れて、ポンコツでもあった。


 勤め先から家までの道で迷子になる、そこらへんの行き倒れを拾ってしまう、子供でも騙されない手口の詐欺にひっかかる……などなど、本人が原因のトラブルはさることながら、ナンパ、人さらい、チンピラからの求婚、ドラ息子からの求婚、ヤクザ者から流れの冒険者から謎の貴族からの求婚と、彼方からやってくるトラブルもそりゃもうたくさんあった。


 家に帰ったら押しかけ女房ならぬ押しかけ旦那がいたことも一度や二度ではない。


 とち狂った大富豪から、勝手に豪邸の名義人にされたこともあった。あの時は早朝に自分の家の家具が運び出される音で目が覚めたから、たいそう慌てたことを覚えている。


 寝間着のまま近所に助けを呼びに走り、頼みの大人たちを連れて戻ったアリアは、家財があらかた運び出されてしまった部屋で、「あら~リアちゃんのベッドなくなっちゃったわね。今夜からお母さんと寝る?」と屈託なく笑っている母を見て、徒労感でどっと崩れ落ちたのだった。


 もちろん誘拐された回数は両手足の本数では足りない。


 そんな時も、母がいないと泣いている暇はなかった。


 自宅の2ブロック先の他人様の家に「ただいま~」と帰ってしまうような犬ころ以下の人が、自力で帰って来られるわけがないからだ。


 大人への救援要請、捜索、後始末をしてくれる人材へのつなぎ。


 そしていざという時に助けてもらえるよう、日頃の親切のたゆまぬ積み重ね。


 母由来の数々の災難に鍛えられたアリアは、齢8歳にして、そこらの新人騎士より世間擦れした、根性のある娘に育っていた。

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