第4話 アリアという少女(2)

 国境伯邸は、西南部の起伏豊かな広大な敷地に建つ、つたの絡んだ壮麗な白亜の城であった。


 いざとなったら逃げ出せるように城下町までの経路を叩き込みながら、漆黒の四輪馬車ブルーアムに運ばれて、アリアは鋼鉄製の門をくぐり抜けた。


「ようこそ、姫君。我がグウェナエル城へ」


 差し出されたのは、革手袋を嵌めた大きな手。


 フレデリクに導かれたアリアが馬車から降りると、総勢七十名ほどの家事使用人が、全く同じ角度で礼をしてみせた。


 上等なウールのお仕着せは、午後用の黒。


 揃いの金ボタンと磨き抜かれた革靴が、日差しを反射してまぶしいほど。


 髪から靴まできっちりと整えられた使用人たちは、悟られぬほどかすかに目を上げて、値踏みするようにアリアを見つめた。


「……!」


 歓迎されているわけがないことは、わかりきっていた。


 当たり前だ。ふわふわした納得の行かない理由で、孤児の――それもあろうことか半獣セーミスの娘を、主人の家族として迎えるのだから。


(気圧されてる場合じゃないわ……)


 アリアは、そっと一つ息を吐いた。


 もう孤児院とは遠く離れてしまった。


 ここで生きていく他ないのだから、腹を決めるのだ。


 ふと、いつかの母が『お姫さまのお辞儀よ~』と教えてくれた挨拶があったことを、思い出した。


 週に一度の酒場の仕事で、歌い終わったあとに披露していたその仕草があまりに素敵だったから、教えてほしいとせがんだのだ。


 母がその礼をすると、下町のうらびれたアパルトマンでも、着ているのが灰色のゴワゴワしたワンピースであっても、窓辺から差し込む夕日が光り輝き、どこからかスミレの花の匂いまでしてくるようだったことを覚えている。


 左足は、後方内側に。


 右足を少し曲げて、スカートを軽く持ちあげ、背筋はすっと伸ばしたまま、真っすぐ前を見据える。


 胸のうちに何を抱えていようとも、かんばせに浮かべるのは花のような微笑みだけ。


 母がいつだって、そうであったように。


「アリアと申します。どうぞ、仲良くしてくださいね」


 その小さな弦楽器が爪弾つまびかれた途端、張り詰めた空気はふわりと揺らぎ、ここが春の花咲き乱れる庭園であったことを、人々の鼻腔に思い出させた。


「……驚いた。カーテシーなんていつ覚えたんだい?」


「カーテシー? このお辞儀のことですか? お母さんが教えてくれたんです、お姫様の挨拶よって」


「そうか。あの方が……」


 アイスブルーの双眸は、風に溶けた思い出がそこにあるかのように、淡くかすむ庭を遠い眼差しで眺めたが、天涯孤独のもらわれ子はただ、必死であった。


(使えるものは、何でも使うわ……!)


 なにせ、何が起こるかまるで未知数のこの絢爛たる魔窟を、たった一人でサバイブしなくてはいけないのだ。


 年若いお仕着せ姿の女性がしゃがみ込み、ニッコリと目線を合わせた。


「メラニーと申します、アリアお嬢さま。お部屋をご案内しますね」


「えっ? も、もしかして……わたしの部屋が、あるんですか?」


「はい、もちろんです!」


「ひえっ! じ、自分の部屋……!」


 この驚きは素であった。


 母がいた頃は、カビの臭いが漂い他人の生活音に囲まれた狭苦しい集合住宅アパルトマン


 母を失ってからは、カビどころか下水の臭いが立ち込めた孤児院暮らしで、生活音を通り越して耳をつんざくようなやかましさに囲まれて生きてきたものだから、自分の部屋なんてすばらしいものは、夢に出てきたこともなかったのだ。


「あたしはハウスメイド、東翼の二階担当です。アリアお嬢さまはもうプランケットのお嬢さまなんですから、あたし相手には敬語を使わなくていいんですよ」


「はい、気をつけます! あっ」


 思わずといった様子で口元を抑えると、周囲から微笑ましげな笑い声が上がった。


 ……よし! そこそこの掴みではないか!


 この調子で、主人一家を脅かさないかわいげのある居候として認知してもらおう。


 アリアが心中で小さくこぶしを握った時。


「イッ……イヤアアアアアー!」


 甲高い悲鳴が、のどかな春の空気を切り裂いた。


 開け放された玄関からは、両翼造りの重厚な階段が見える。


 深い臙脂色の絨毯、いくつもの古めかしい絵画、金のタッセルがついたビロードの分厚いカーテン。


 重たげな布類に埋もれるようにして、左側の階段で少女が立ちすくんでいた。


 氷のような美しい少女だった。


 艶めく長い黒髪に、アイスブルーの切れ長の瞳。


 黒に近い濃紺のドレスを纏うと、日差しに当たったことなどまるでなさそうな真っ白な肌が、ひときわ眩しく照り映えて見える。


 フレデリクと全く同じ色彩を持つ彼女こそが、孤児を引き取ると聞いて卒倒したという義姉、セレスティーネに間違いなかった。


(は……はちゃめちゃに美少女! 美人! ……なんかすっごい顔をしてるけど……!)


「おっお姉さま……い、いえ! セレスティーネお嬢さま!」


 挨拶をしようと歩を進めると、階段上の少女は、心臓でも痛むかのように両手で胸を押さえた。


 頬に血の気はなく真っ青だ。


 いくら深窓の令嬢とはいえ顔色があまりにも悪いことに気がついたアリアは、慌てて走り寄った。


「だ、大丈夫ですか!? どこかお身体が……!?」


「本当に来たわ、……」


 そして、いまだ誰からも呼ばれていない、新しい名前を耳にしたのだった。


(え、なぜフルネーム?)


「嫌……! わたくし、本当に悪役令嬢なんだわ……! 義妹に全てを奪われたうえに濡れ衣を着せられて、断罪されてしまうんだわ!」


「えっなんて??」


「ああ……っ!」


 黒髪がふわりと舞ったのもつかの間。


 受け止めようとしたアリアの手は、誰かにパシッと叩きのけられた。


「あいたっ」


 いつの間にか傍らに佇んでいた少年が、壊れもののようにセレスティーネの肩を抱きながら、アリアをきつく睨みつけていた。


「触れるな、下賤の者が」


 灰をかぶったような白髪に、煮詰めた紅茶のような紅い瞳。


 ハッとするような美形だが、こちらを映す目元には色濃く険が滲む。


(この子……わたしと同じだわ)


 アリアは、自分と同じ半獣セーミスを初めて見た。


「この屋敷にお嬢さまは、セレスさまただお一人だけ。身の程を知っているなら、さっさと出ていけ」


 したたかな敵意をぶつけると、さほど体格の変わらない少女を苦もなく横抱きにした少年は、あっという間に階段を上がってカーテンの向こうに消えてしまった。


(ど、どちらさまかしら……?)


 ひとり残されたアリアは、返ってこない誰何すいかをむなしく投げた。


「やあ、驚いただろう。今のが君の姉セレスティーネ。君の一つ上で、この冬に9歳になるよ」


 娘が倒れたというのにのんびり階段を上がってきたフレデリクは、アリアの肩に手をおいた。


「あの、わたしを見て倒れてしまったのですが……?」


「まあ問題ないよ。先日倒れたあとも、夕飯はよく食べていたから」


「ええー……。そういう態度はよくないと思いますよ。来たばかりだから何も言いませんけど」


「グッ……! 言ってるよ……」


 変な音がしたので見上げると、フレデリクは口に拳を当てて震えていた。笑っているらしい。


 その日の晩餐は、フレデリクとセレスティーネが共にテーブルに付いた。


「初めてのディナーだから、今日だけはどんな食べ方をしてもお咎めなしだよ」


 養父はそう気遣ってくれたが、アリアは二人の手付きを凝視して、必死に真似をした。


 すぐ同じように振る舞うのは無理でも、馴染もうという気持ちが伝わることが大事なのだ。


 見たこともない美しい肉や野菜、嗅いだこともない芳しい匂い。


 正直必死すぎて味どころではなかったが、料理の感想を聞かれたので「すっごくおいしいです!」と満面の笑みを浮かべた。


 正解がわかっている質問は助かる。


 国境伯夫人は、出迎えの場にも、その日のディナーにも姿を現さなかった。


 一日目にして見えている地雷を抱きながら、アリアの貴族生活は始まったのだった。





+++++++++++++





 苔の匂い立ち込める、深い深い森。


 たしかにユスティフの国土の一部ではあるが、その森は地図にない。


 無数のコウモリの羽ばたきと耳障りな鳴き声が、葉擦れの音を掻き消す黄昏刻たそがれどき


 獣道の先に、サフランイエローの扉を持つ館があった。


 ――ガリッガリガリガリガリッ!


 無数のランプが灯り始めた館に響くのは、羊皮紙を彫り込むかのように激しい羽ペンの音。


「……シャマシュ、シン、イシュタル、ネルガル、ナブ、マルドゥク、ニニブ……はあ~~、ダメだダメだ。これも第一質料を踏破できそうもない……」


 書物が雪崩れそうな机に、分厚いローブを纏った小柄な人影が向かっていた。


 隈をこさえたその顔は、まだ年若い少年である。


 ――コンコンッガチャ!


 軽いノックのあと返事を待たずに無遠慮に扉が開かれて、少年は羊皮紙から顔を上げないまま、ぎゅっと眉を寄せた。


「今日なんかコウモリ、多くない?」


 扉にもたれた青年は、背を向けた少年が不機嫌な顔をしていることを承知の上で、おっとりとそう告げた。


「そんなことで話しかけてこないでください。研究中ですよ」


「どうやら言いたいことがありそうだよ」


「……」


 要は自分の代わりに見に行けと言っているのだ。


 少年は深々とため息をつくと、重い腰を上げて部屋を出た。


 廊下の壁に危なげなく足をかけ、天窓を開ける。


 待ってましたとばかりに、数匹のコウモリが飛び込んできた。


「キキッ! キーッ」


「キーッキッキッ!」


「ピギッ!」


「はいはい、落ち着いて。順番に話してください」


 手の中に飛び込んできたコウモリの鳴き声に、二対の耳が傾けられる。


「えっと、それで何ですか? ……『姫』、『ミツケタ』」


 しごく単純な二語文。


 だが、ロードライトガーネットのような紅い目と、かがり火のように光る黄金色の瞳は、パッと見開かれた。


「「……え?」」


 少年の手が、ぐわし! とコウモリたちを鷲掴わしづかむ。


「どっどこで!? いつ!? どんな様子でしたか!?」


「ピギィッ……!」


 薬品で荒れた手に握りしめられたコウモリたちは、怯えて悲鳴を上げた。


 長く使い魔として仕える彼らでも、こんなに感情を露わにする主人を目の当たりにすることは初めてだった。


 夕刻が迫る西の空に似た紅紫マゼンタの瞳に、うっすらと涙の膜が張る。


 星のような金の炎がまたたく。


「……二十年……! この地獄を、よくぞ、生きて……!」

 

 そのまま感極まったように目を閉じたが、「……いや」と次に開いた時には、双眸から歓喜の痕跡は跡形もなく消し去られていた。


「本物とは限らない。ぬか喜びなど、たまったものではない」


 そう独りごちると、コウモリたちを手放した。


「おや。場所を聞いておかなくていいのかい?」


「必要ありません。――その者が本当に、ぼくたちのたった一人の小さな姫ならば」


 天窓から逃げていくコウモリを目で追いながら、少年は朱い西の空を見上げた。


「必ず、歌うはずです。――さすれば歌が、ぼくを導く」

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