第5話 国境伯邸の一日(1)

「おじいちゃん! じゃがいも畑のお邪魔虫さん、たくさん殺したわ!」


「でかした、お嬢!」


 春の日の昼下がり。


 自分の背丈ほども伸びた野菜畑で、アリアは大量のイモムシを叩き潰しながら気持ち良く汗を拭った。


 国境伯という大貴族といえど、子どものタイムテーブルは孤児院と似たようなものだ。


 起床は朝七時。メラニーが洗面用のお湯を持って起こしに来る。


 三十分ほどかけて身支度を整えて、朝のお祈りを捧げてから子ども用の食堂で朝食を摂る。


 献立は粥や甘いミルクに浸したパン。


 もともと粥は好物だが、これまで食べてきた粥とは比べようがないおいしさだ。


 セレスティーネは朝が弱いらしく、自室で済ましているとメラニーが教えてくれた。


 食事が片付くと、邸内に住み込みの家庭教師ガヴァネスがやってきて、お昼までお勉強。


 まだ年若い女教師、ジャクリーヌ先生は、グウェナエル領の男爵家三女である。


 貧乏子だくさんのご家庭で苦労したらしく、みなしごのアリアにも最初から同情的で、ピンクの瞳を見ても動じるどころか、顔合わせの時にはお手製のくまのぬいぐるみまで贈ってくれたほど。


 ぬいぐるみを持つには少し育ちすぎているかもしれないが、子どもらしいおもちゃを与えられたのが初めてだったアリアは感動して、いつも抱っこして持ち運んでいる。


 授業の内容は、読み書き計算と行儀作法をベースに、日によって刺繍をしたりピアノを弾いたりと、貴族令嬢の基礎教養をまんべんなく学べるカリキュラムを組まれていた。


 すでに初歩的な内容は母から学んでいたこともあって、出だしは順調である。


「まあ、何をやらせても筋がいいのね! 優秀だわ。これなら他の言語も並行して問題ないわね」


「えへへ、先生の教え方がいいからです!」


「その上、こんなに愛くるしいなんて……先生ちょっと、目の前の現実が受け止めきれないわ。天空神の奇跡かしら……?」


「そんな……! アリアこそ、優しくて美人な先生に教えてもらって、とっても幸せです!」


「ウグゥッ! 眩しいッ!」


 授業の途中のおやつタイムでは、全力で愛想を振りまいている。


 ここは戦場。いついかなる時も手を抜いてはならないのだ。


 正午にはジャクリーヌ先生が帰り、お昼ごはんになる。


 今日の献立はスープとお魚。チキンと日替わりで供されるようである。


 マナーブックを読む限り、子どもは子ども用の食堂で昼食を摂る慣例のはずだが、ここでもセレスティーネは自室で食べるため会うことはできない。


 昼食後は、午後のドレスに着替えたらしばらく自由時間となる。


 だが、休んでいる暇はない。


 アリアは邸内で立ち入りを許されているあらゆる場所に出向いて、挨拶やお手伝いに精を出すことにしていた。


 お手伝いと言っても、家政婦長の目についたら担当使用人が叱責されかねないので、虫取りや草むしりなど、遊びの延長線上のようなことだけである。


 それでも足しげく通ったおかげで、庭師や馬丁からは近所の子のように親しんでもらえるようになった。


 厨房や洗濯室をウロウロするのはやめておいた。危ないものがある狭い仕事場を子どもにうろつかれたら、たまったものではないからだ。


 とはいえ毎日の生活の場は屋内、最も接するのも屋内の家事使用人である。


 厨房から出てこない料理人も専門職のため、邸内ヒエラルキーの高位に位置していた。


(何とか心証を良くしておきたいわね。ごはんを抜かれた時のためにも)


 媚びと愛想を売ることにはひときわよく回る頭脳を働かせた結果、──手紙を書くことにした。


 大した内容である必要はない。むしろ「きょうのおさかなおいしかったです ありがとう」とか「おふとんをふかふかにしてくれてありがとう たくさんねむれました」とかそんな感じでいい。もともとうまくない文字もいい味を出していると思っている。


 どんな仕事をしていても感謝されたら嬉しいものだということは、下町で仕事をしていた少女はよく知っていた。


「あっアリアお嬢さまからまた手紙が来てる!」


「今日はなんて書いてあるんだ!?」


「おにくのうえの、あかいソースがおいしかったです……ラズベリージュレのことか?」


「甘酸っぱい味が好きみたいだな。木苺のムースも褒めてたし」


「子供は酸っぱいのは苦手だと思ってたが、大人舌なんだな。さすがお嬢さま!」


「かわいいだけでなく舌まで優れているなんて天使か?」


「よし! 明日のティータイムにはブラックカラントたっぷりのタルトを作るぞ! おい新米、すぐに市場に走れ! 店じまいしちまう前にな!」


「はいっ先輩!」


(いいわね、順調順調……)


 物陰で耳をそばだてたアリアはほくそ笑んだ。


 小銭の入った巾着を手に駆けてきた新米料理人は、しゃがみ込んでいる小さな子どもがいることに気づかずに角を曲がり、たくましい太ももで吹っ飛ばした。


「うわごめ、えっ、……えっ!? アリアお嬢さま!? もっ、ももも申し訳ありません! どこかお怪我はないっすか!?」


 すっとんきょうな叫び声を聞いて、厨房から他の料理人たちもわらわらと飛び出し、地面に転がっている少女を見て目をひん剥いた。


「新米! てめえ……お嬢さまに何してんだ!」


「ひえ~! 慌てて曲がったら、小さすぎて見えなくって突き飛ばしちゃいました!」


「お前えええ!」


「うふふ、大丈夫よ」


 料理人たちの太い腕を借りて立ち上がったアリアは、垂れた鼻血を平然と拭いながら、あどけなくも上品な笑みをこぼした。


「オリヴィエ料理長、ジャンを怒らないで。こんなとこにいたわたしが悪いの。お手紙を読んでもらったか気になっちゃって」


「お、お嬢さま! ……よっ、読みましたとも! 毎日読んでます!」


「うれしい! いつもおいしいごはんをありがとう!」


「ウグゥッ!」


 料理長が目頭を押さえてうずくまると、新米は胸ぐらを解放されて息をついた。


「ジャン、急いでいたんでしょ? 行って大丈夫よ」


「……お嬢さま、まさか、おれの名前を?」


「ジャン・バティスト・ジュイノー。もちろん覚えてるわ」


「ひええ!?」


 邸内の人間は全員初日に覚えている。


 何なら誕生日、出身地、家族構成も記憶しているが、言ったらこの感動の眼差しが他人の個人情報を握ることが趣味のえげつないバケモノを見る目になるとわかりきっているので、黙っておく。


 目を白黒させた青年に向かって「お仕事、がんばってね」とさらにダメ押しでウインクすると、ジャンは真っ赤になりながら「がんばります!」と頭を下げ、巾着を掴んで駆け出していった。


 涙声であった。


 この国ユスティフは、皇帝を頂点とした厳然たる階級社会である。


 上の人間が下の人間に対していかに感謝が足りないか、最底辺から見上げていたアリアは身に染みてよくわかっていた。


 貴族にとって、平民を見下げることは当たり前だということも、軽んじられた平民が静かに傷つき失望していることも。


(自分のためにやっていることだけど、こんなことで毎日の仕事が少しでも楽しくなれば、みんな得しかなくて素敵よね)


 日差しに黄金が混ざりはじめる頃、お茶の時間となる。


 フレデリクの顔を見ることができるのはこの時間だけだ。


 初日のように大人と子供が一緒に晩餐の席につけるのは特別な日だけだと、メラニーに教えられた。


 同じ邸宅内だが、フレデリクが仕事をする南棟には子供の出入りは許されていない。国境伯夫人エミリエンヌの部屋は同じ棟の三階にあるが、まだ一度もお見かけできていない。


 貴族の館は、大人と子供の生活が完全に切り離されているのだ。


 セレスティーネに会えるのもティータイムだけだが、こちらは慣例に関係なく、ただ避けられているだけである。


 どうもあちら側が、義妹の目につかないように徹底しているようだ。


「ジャクリーヌ先生が、アリアはとても優秀な生徒だっていつも褒めているよ。彼女は領内でも有名な才女なんだ」


「わあ! そんな立派な先生をつけてくださって嬉しいです!」


 ティータイムでフレデリクが話しかけるのは、ほとんどアリアに対してであった。


 屋敷には慣れたか、授業はどうだ、マナーが身についてきたね……などなど。


 新参者に気を使ってくれているのはわかるが、アリアは黙ってケーキを食べているセレスティーネがもう気になって気になって、仕方がなかった。


 横で苦痛な時間を味わっている人がいたら、お茶どころではないではないか。


「でも明日から、ユスティフ語だけじゃなくて他の国の言葉もやるって聞いて不安なんです。ついていけるかしら……」


 何とかこの無口なお嬢さまに会話のボールを渡すために、ない知恵を絞って質問をひねり出しているのだ。


「お姉さまはどうでした? 語学のお勉強、お好きですか?」


「別に……」


「わたしもです! 早くピアノの時間にならないかしらって思ってるの! お姉さまはお好きな授業、何かありますか?」


「特には……」


「好き嫌いなくこなされているんですね! さすがです!」


 セレスティーネの返事は短い。


 ああ、会話したくないんだろうな……と誰だって察する。


 察するのだが、唯一会えるのがお茶の時間なのだ。


 なんとか、少しでも打ち解けたいのだ。


「お父さまが、お姉さまのこと、落ち着いてしっかり者のすばらしい娘だって褒めてました。きっと語学もピアノも、すっごく上手なんでしょうね。わたしもお姉さまを見習ってがんばります!」


 ――ガチャン! と手元で派手な音がした。


 おかわりを注がれたティーカップが、荒々しく置かれたためだ。


「失礼」


 給仕は、例の灰髪の少年だった。


 彼はセレスティーネの専属らしかった。


 幼い令嬢に侍従がいるというのも珍しいものだが、それが異性となると普通ではない。


 なにか深い事情があるのだろうと触らずにいる。


「気をつけなさい、リクハルト」


「申し訳ありません、旦那様」


 つつましく伏せられた紅茶色の瞳が、横目では険をこめてアリアを映していた。


「アリアにも、セレスティーネに対するように敬意を持って接するように」


「は……」


 否とも諾ともつきがたい返答に、フレデリクのアイスブルーの瞳がわずかに険しくなった。


 ちなみに、同じく給仕についてくれているメラニーは、リクハルトへの怒りを隠そうともせず、噛みつきそうな顔で睨みつけている。


 国境伯邸での暮らしが始まって二週間余り。


 心中でいかように思えど、ほとんどの使用人はもともとの主家の一族に対するようにアリアに接してくれている。


 離れたところから冷たい視線が飛んでくることはあるが、下町の孤児院育ちの娘──それも半獣セーミスが表立って排斥されないのは、国境伯家という大貴族に属する使用人の練度を表していた。

 

 だがその中でいまだ打ち解けられていない家事使用人は二つある。


 一つが、このセレスティーネの侍従ヴァレットだった。


 いや、理由はわかる。当然よくわかる。


 一人っ子だったものが二人になったら、単純に相続できるものが目減りする。


 自分の主人の財産をかすめ取る者なんて、敵に他ならない。


 セレスティーネから見ても、父の関心を取られたと感じているかもしれないし、よそで作った子供だと思ってショックを受けているかもしれない。


(……こういうのは、早いことはっきり言わないからこじれるのよね)


 アリアは芳しい紅茶を一口飲んで喉を潤すと、カップをそっと置いた。


 雑に淹れられても、お高い紅茶がおいしいことは変わらない。


「お父さま、お姉さま。わたし成人したらすぐにプランケットのお家を出ていきます」


「は?」


「え?」


 二対のアイスブルーの瞳が、パチパチと瞬いてアリアを映した。


「きゅ、急に何を言い出すの?」


 セレスティーネから質問が来たのは、これが初である。


(感慨深いわ~)


「結婚するなり士官するなり道はあります。あっ、冒険者になってもいいわね、たくましさには自信があるから。どういう形であれこのお家を出ていって、そして……一山あてるわ」


 鋭い眼光でこぶしを握ったアリアを、国境伯親子はぽかんと見つめた。


「生きていくのに困らないくらいの収入は自分でつかみ取ります。だから、お父さまが死んでもプランケットの財産はビタ一銅貨ノルクいらないわ」


「えっそれは……唐突な絶縁宣言かい?」


「いいえ。プランケットの教育投資を当て込んでの宣言だもの。成人までは大事に育ててください、よろしくお願いします!」


「ン゛ッ」


 妙な音がしたと思ったら、フレデリクが小刻みに震えていた。


 また笑っているらしい。


「だからリクハルト。プランケット家の財産は心配しないで。わたしお姉さまのものを取る気なんてこれぽっちもないのよ」


 紅茶色の瞳もまた、珍獣を見るように見開かれてアリアを映していた。


「お姉さま」


「えっはい……ヒッ!」


 身を乗り出して顔を見つめると、小さく悲鳴が上がった。


 真正面からこんな近くで見たのは初めてだが、やっぱりとても美しい顔立ちをしている。


 波打つ豊かな黒髪、氷のような淡い青い瞳を囲む長い睫毛、柔らかさより怜悧さの光る美貌。


(雪の妖精がいたら、こんな感じかしら……)


「見当違いのことを言っていたらごめんなさい。お父さまの関心を取られたって感じていらっしゃる? それなら勘違いですから安心してください。国境伯はわたしに、これっぽっっっちも! 興味なんてありませんから。だっていつも質問が薄っぺらいもの。たぶん、何かに利用しようと企んで引き取ったのよ」


「ンッグ! ……ふっふふ、本人の目の前でひどすぎないかい?」


「ほら、平然と笑っているでしょ。違ったら否定するはずよ。もともと子どもに関心が薄いのを、うまいことごまかせてると思ってるんだわ」


「ふっ、ふふふ……! あははははは! 面白すぎる……」


 とうとう我慢できずに笑い声を上げ始めた。笑っている場合か。


 セレスティーネの白い手に、そっと自分の手を置いて、アリアは優しく語りかけた。


「貴族の親ってそういうものなのかもしれないけど、お姉さま。さみしいと思ったら怒っていいんですよ。……実の親なんだもの」


 長いまつげにふちどられたアイスブルーの瞳が、弾かれたように瞬いた。


「それとグウェナエル卿とわたしは血がつながっていないわ。馬車でずばり聞いてみたけど違うって本人が言ってました。違うのよね、お父さま」


「あははっ! 違うよ。アリアは、さるお方の忘れ形見だ。プランケットの血は一滴も入ってない」


「つまり、お父さまがよそで作った子じゃないってこと。お父さまの本当の娘は、お姉さまだけなんですよ」


 セレスティーネはぽかんとしたまま、アリアとフレデリクを交互に見つめた。


「考えてみれば、あのぽやぽやしたお母さんがこういう腹黒いタイプと恋愛するの、しっくり来なかったのよ。わたしのお父さんはきっと、もっと実直で誠実な人だったと思うの」


「ぶはっ! あははははは!」


 腹を抱えて笑い出したフレデリクは、「参った、参った……! 降参だよ」と謎の白旗を上げた。


「もとより平凡とは思っていなかったが、本当に面白い子だ」


「笑っている場合じゃありませんよ! お姉さま、お父さまになにか言いたいことはありませんか?」


「と、特にないわ」


「ないの!? 聖人君子!?」


 納得は行かないが、これであちらが憂いていることは取り除けたのではないだろうか。


 期待を込めて、アリアはセレスティーネを見つめた。


「で、では……わたしと、仲良くしてもらえますか……!?」


「……」


 氷色の瞳は、スッと横に逸らされた。


 拒絶……である。


「そんな……」


 アリアは顔を覆い、セレスティーネはかすかに嘆息すると、カップを優雅な手付きでソーサーに戻した。


「お父さまが親としてどうかしているのは知っているわ。財産も別に期待していないし、愛人の子を連れてきたとしてもどうでもいい」


「えっセレス?」


 娘のあんまりな発言に、フレデリクはさすがに顔を硬直させた。


「それでもわたくし、あなたと仲良くはできないわ」


 生粋のお嬢さまはこともなげにそう告げると、「食べ終わりましたので下がります」と立ち上がった。


 リクハルドも付き従い、扉を開けた。


 去り際、チュベローズの香る風に乗って小さな呟きが耳に届く。


「……あなたがヒロインでわたくしが悪役令嬢なのに、仲良くできるわけないじゃない」


 忠実な侍従の手によって、ティールームの扉は静かに閉じられた。

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