第6話 国境伯邸の一日(2)

「……ヒロイン? 悪役?」


「言っていたね」


「仰ってました」


 室内には、バッチリと聞こえていた。


(そういえば……出会いがしらに倒れた時にも何か仰っていたような……? あれも悪役令嬢と言っていたのかしら?)


 フレデリクは肘をついて「そういう物語があるの?」と、室内に残る若い娘二人に尋ねた。


「うーんと、わたしがヒロインで、お姉さまが悪役にあたるお話……? 孤児の女の子が大貴族に引き取られて、そこのお嬢さまにいじめられる物語ってことかしら? ……心当たりはありませんね」


 もとより骨の髄まで染み込んだ現実主義、孤児院で読んだ絵本や物語も右から左であった。


「メラニーある?」


「いやー、下町から貴族のお城まで飛ぶのは知らないです」


 問いかけられたハウスメイドは、屋敷の主人を前にしても臆した様子もなく、自然体で頭を捻った。


「そりゃあ、似たようなお話はごまんとありますよ。主人公のみなし子が困難に負けずにがんばっていたら、大金持ちの叔父に引き取られるっていう程度なら。でも資産家の上流階級って言っても、平民が引き取られるなら平民の家に決まってます。海を股にかけた大商人とか」


「そうよねえ」


 うなずいていると、メラニーはさらに「あたし、実はバレエが好きなんですが」と続けた。


「町民が主人公なら町中、村人が主人公なら村の中、貴族が主人公ならお城の中が舞台っていうのが、お決まりじゃあないですか?」


「ふむふむ、同じ階層で物語が完結しているということか。ぼくは物語に詳しくないけど、そんな気がするねえ」


「平民がそんなお話を作ったら怒られるだろうし、貴族が観ても楽しむどころかムカつくだろうし」


 三者三様に「うーん……」と悩んでみたものの、空になったケーキの皿の上に答えはない。


「ま、何にせよあの子は自分とアリアを物語の登場人物になぞらえているわけだ。そのうち飽きるだろうさ」


 考えることをやめた当主は身を起こすと、意味深な笑みをアリアに向けた。


「君の必死な様子にほだされるのが先かもね」


 全力で屋敷中に愛想を振りまいていることはバレていたらしい。


「仕方ないでしょ」とアリアは唇をとがらせた。


「みなしごの娘が大貴族に引き取られた理由が、とんでもなくふわふわしてるんだもの。必死になって媚びと愛想を振りまきもするわ」


「えっ! お嬢さま、あれ素じゃなかったんですか!? てっきり天使かと思っていました!」


「うふふ、素よ。誰だっていろんな面があるじゃない? その中の一つよ。お屋敷のみんなと仲良くしたいのは心から思っていることだもの」


「おませさんだねえ」


 面白そうに目を細めているだけの養父を、アリアは恨みがましく睨んだ。


「お父さまが、わたしの両親が何者なのか教えてくれたら、もっと安心して暮らせるのよ。わかってます?」


「ふふっあははは、それは言えない。まだね」


「もう!」


 ティールームの扉がノックされ、「閣下、お時間です」と声がかかった。


 フレデリクは席を立ちながら、白金の小さな頭に大きな手を乗せた。


「存外、ぼくはきみを気に入っているよ。安心して暮らすといい、我が娘よ」


 再び閉じられた扉を見つめて、アリアはため息をついた。


 とにかくセレスティーネがごっこ遊びに飽きない限り、距離を取られ続けるのは仕方がないことであるらしい。


 お茶のあとは子供用の図書館で読書である。


 ジャクリーヌ先生も驚いていたことだが、アリアは母の手ほどきによって、帝国ユスティフの文字であればスラスラと読むことができた。


 日が沈むころ、一人きりの夕食を摂ったら――当然セレスティーネは部屋から出てこない――、寝支度を済ませて、八時に早々就寝である。


 下町で暮らしていた頃は、寝る間も惜しんで内職をしたり、孤児院の年下を寝かしつけたりと夜も忙しかった。


 それに比べれば、貴族令嬢の暮らしはやることがかなり少ない。


 食事、お勉強、着替えの他は、言ってしまえば長い長い暇つぶしである。


 おとなしい令嬢のタイムスケジュールでは、アリアの体力はあり余ってしまい、毎晩なかなか寝付けなかった。


「……お水でももらおうかしら」


 廊下には、まだ灯りがついている。


 大人が寝るには早すぎる時間、食堂のある一階からは忙しく働く音が聞こえてくる。


「トゥーサン、お水をいただけるかしら」


「あっアリアお嬢さま! かしこまりました、少々お待ちを」


 水を頼んだ厨房小姓キッチンポーターと入れ違いに、背の高い女性が厨房から出てきた。


 黒いお仕着せではなく、型落ちだが仕立ての良いドレスを身にまとっている。


 国境伯夫人エミリエンヌの侍女レディーズメイドである。


「……いやだ、薄汚いネズミがうろついているじゃない。フットマンは何をしているのかしら?」


 アリアがいまだ距離を詰められていない、最後の使用人だ。


「こんばんはカトリーヌ」


「話しかけないでちょうだい。わたしは男爵家の娘よ」


 水差しと小瓶をトレイに乗せた侍女は、不快そうに顔をしかめた。


 アリアは聞こえていないようにニコニコしたまま、「知っているわ」と応えた。


「デュノア男爵家の三女でしょ。奥様の遠縁なのよね。お輿入れの前からお仕えしてるとは、長いお付き合いじゃない」


「ヒッ! きっ、気持ち悪いわね……!?」


 神経質そうな顔にぞわっと鳥肌が立ったが、実家の場所、二人の姉の輿入れ先、両親は完全なるかかあ天下で、飲み歩いて帰ってきた父親が家から締め出される様がよく目撃されていること、夫は部下から氷の紳士と呼ばれていること──カッコいい理由ではなく、寒いオヤジギャグをよく飛ばすためである──などなど、さまざまな評判も握っていることは言わないでおく。


「だったらわかるでしょ! 娼婦の娘が話しかけていい存在じゃないのよ!」


「娼婦の娘? だれが娼婦なの?」


 表情を消したアリアを見て、ようやく溜飲が下がったカトリーヌは、「あなたのアバズレの母親よ」と嘲笑を浮かべた。


 だがアリアは無表情のまま、「……母が?」と聞き返した。


「何回人さらいに遭っても学習せずに世の中にはいい人しかいないと思いこんでいた母が? 三十路にもなって聖ヤヌアリウスを信じていた母が? 聖餐日ヴァノーチェの朝、枕元にプレゼントがなくて落ち込んでいた母が?」


「え??」


「道端で客寄せをしているお姉さんたちは全員耳かき屋だと思いこんでいた母が? 赤ちゃんは満月の晩にコウノトリが運んでくるって信じていた母が?」


「いや、いやいやいや。あなたを生んでいるのにそれはないでしょ?」


「本当なのよ! 隣の部屋の新婚さんがおめでただって聞いて『コウノトリ見られた? わたしの時は寝てたから見られなかったの~』って真剣に聞いていたもの! あの人、頭がお花畑なのよ! 娼婦なんてしてたら、もうちょっとしっかりしてたに違いないわ!」


「ヒッ!」


 鬼気迫る形相で詰め寄られて、カトリーヌは後ずさった。


「あの、お嬢さま、お水をお持ちしましたが……」


「あら、ありがとう」


 厨房小姓キッチンポーターがおそるおそる声をかけると、アリアは一瞬にして天使のような笑みを浮かべた。


「それじゃ、おやすみなさい。カトリーヌ、トゥーサン」


「おやすみなさいませ、お嬢さま。いい夢を」


「……」


 カトリーヌからは気味が悪そうな視線しか返ってこなかったが、些事である。


 国境伯夫人がアリアのことを許さないかぎり、どうしようもないのだから。


 ふたたびベッドにもぐりこむと、アリアはジャクリーヌ先生がくれたクマのぬいぐるみを抱きしめた。


 明日は南側のうねにじゃがいもを植えるとヘルマンニおじいちゃんが言っていた。


(きっと土を掘り返すと芋虫が出てくるだろうから、またたんまりやっつけなくっちゃ……)


 洗濯婦のエンマのお誕生日だし、お花を贈ろう。早朝には念のためアフラゴーラ語の予習もして、ピアノの譜面も確認しておかなくては。


「それにしても、カトリーヌ、薬を持っていたわね。夫人は具合がわるいのかしら……」


 考えることは尽きないが、健康優良児なのでまもなく眠りについた。

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