第7話 はじめての違和感(1)
リネン類やおまるを取り換えるのがハウスメイド。
他にも邸内の掃除や備品の整備など、日がな一日忙しく屋敷を走り回っている。
一方で女主人のドレスを見繕ったり、化粧を施したりするのが侍女の役割で、こちらはたいして部屋から出てこない。
しかし国境伯夫人エミリエンヌの侍女、カトリーヌは所在なさげに三階廊下に佇んでいたので、すぐに捕まえることができた。
「おはようカトリーヌ。奥方様は体調が優れないの?」
「お、お前ッ!? ここをどこだとお思い!?」
予想通り、カトリーヌは目を吊り上げて怒鳴りつけてきた。
「奥様のお部屋の前よ! 立ち去りなさい!」
平手打ちも飛んできそうだったので後ずさると、──部屋の中からか細い
「だれかいるの……?」
弱弱しい女性の声――エミリエンヌである。
カトリーヌはパッと怒りを収めて「いいえ、奥様。ねずみがうろついていたので追い払いましたわ」と、優しく応えた。
「アフラゴーラから珍しい果物が届いたので、氷菓子にいたしましょう。サンルームにご用意いたしますので、ぜひいらしてください」
「……」
扉の中から返事はない。
アリアも耳を澄ませてみたが、人が動く衣擦れも聞こえてこない。
カトリーヌは笑顔を浮かべたまま、どこかすがるような目で言いつのった。
「もうずっとお部屋にこもりきりではありませんか。お身体が弱くなってしまいますわ、もともとお強くないというのに……! どうかこのカトリーヌをお部屋に入れて、御髪を整えさせてくださいませ。邪魔なものは全てお目に入らぬよういたしますから、一歩でもお外に」
「うるさいわ。下がりなさい」
やっと返ってきた一言は、冷たいものだった。
「……かしこまりました」
侍女は唇を引き結んで、きびすを返した。
アリアは夫人の部屋の扉をチラリと見てから、そのあとを追った。
(鍵がかかっているのね……)
行く当てがあったわけではないが、カトリーヌはほとんど走るような勢いで三階から庭園まで足早に飛び出した。
後ろを小さな足音がずっとついてきているのは知っていた。
とうとう我慢できず、彼女は庭園の端の野ばらの茂みまで来ると、憎しみを込めて振り向いた。
「どこまでついてくる気なの!?」
――厚顔無恥な
己の犯した罪も知らず、平然と屋敷中をうろついている。
いまこの娘が身に付けているワンピースも靴も髪飾りも、金目当ての売女が生んだ孤児のためのものではない。
誇り高い国境守護者の一族のためのものだ。
「あなたが止まるまで」
「うっとおしい子ね!」
今度こそ、風を切って平手打ちが飛んできた。
避けようと思えばこれも避けられたが、アリアは身動きせずに受け止めた。
パン! という衝撃のあとに遅れて、熱がじわじわと左頬から沁みる。
「全部――全部、あんたのせいよ! 旦那様に何をしたか知らないけど、のうのうと貴族のふりをして……! あんたみたいにひと様の金をあてにして媚びへつらう貧民、腐るほど見てきたわ! 自分のせいで高貴な方々の家庭を壊したってこともどうせ理解できないんでしょうね……! 他人事みたいな顔しているんじゃないわよ、この悪魔!」
「ええそうね。ごめんなさい」
正直に言えば、何も根回しせずに連れてきた国境伯のせいだと思っているが、それは些事である。
アリアには、ここまでついてきた目的があるのだ。
「謝って済むと思ってるの!?」
「思わないわ。だからわたしにできることをするのよ」
「そんなの、あんたがこの家を出ていく以外にあると思って――」
「国境伯は、わたしの顔を見ればだれの娘かわかるって言っていたわ。そしたら夫人も、なぜ引き取ったのか納得するって。――つまり、グウェナエル卿が不貞なんてしようがない相手が、わたしの母なんだと思うの」
カトリーヌは、きつい
この侍女の眉間から皺が取れたのを見たのは初めてである。感慨深い。
「わたしは姿を消したってかまわない。もともと分不相応な身の上だもの。でもそうしたら、夫人はずっと、夫に不貞を働かれたと思い込むわ。出ていくにしろ何にしろ、国境伯は不貞なんて働いていなくて、夫人だけを愛しているってことを示してからにしたいの」
「……」
琥珀に近い茶色い瞳が、アリアを映しこんで揺れた。
――お察しかと思うが、出ていくのがやぶさかでないという姿勢は見せかけである。
昨日ティータイムに宣言したように、未成年のうちは国境伯家の資金で教育を受けて付加価値を高め、成人したら独立して成り上がる算段なのだから。
だがそれ以外は本心だった。
「本当に……? 本当にあんたは、旦那様の子じゃないの?」
いまだ疑わし気な声に、アリアは「プランケットの血は一滴も入っていないって、国境伯から言質を取ってあるわ」と頷いてみせた。
「じゃ、じゃあなぜ引き取られたの? おかしいじゃないの、赤の他人の娘ってことでしょ」
「わたしも卿に何度も聞いているのよ。でも今は言えないって言うの」
「……グウェナエル領でもない遠く離れた町の、貧しい孤児を、わざわざ探し出して引き取ったって言うの? そんなの、ふつうに考えたらありえないじゃない……」
口に出すうちに、カトリーヌも奇妙な点を実感していった。
――大国ユスティフの高位貴族プランケット家当主が、不貞を働きようがない相手。
絵空事のような話だが、目の前の少女はたしかに、高貴といっても差し支えない淡い髪色と、童話から出てきた小さな姫君のような顔をしている。
人間離れした色合いの瞳は、今でこそ蔑みの対象だが、まだカトリーヌが娘時代だったころは、畏れと憧れを以てこの国で迎え入れられていた。
常人とは明らかに異なる、朝焼けのような桃色の光彩。
何よりそれが確かなら、わが主が部屋から出られないほど苦しむ理由がなくなるのだ。
気勢をそがれた様子を見て、アリアはカトリーヌの手を握ると、ベンチに導いて座らせた。
このあたりは庭師も手を入れていないので、勝手に生えたポピーが風に吹かれている。
「カトリーヌ、あなたは夫人のことが心から大切なのね。いくら侍女だって言っても、主人にそこまで忠誠を誓えるのは並大抵のことじゃないわ」
仇敵からとつぜん労われて、釣り目気味の瞳がパチパチと瞬いた。
小さな手が、さらにそっと肩に置かれる。
「夫人に締め出されても、毎日ああしてずっとお部屋の前で待っていたのね。あなたの夫人への忠誠が本物だって、わたしにもわかったわ。それなのに頼ってもらえなくて、辛かったわね……」
静かにこんこんと慰めをかけると、ややあって肩がふるふると震えだす。
背中を撫でてあげたら、おさえた嗚咽も聞こえてきた。
「じゅっ、十四のときから、奥様に仕えていて……あの方がまだ、ルフトシェン家のエミリー様だったころから……」
「うん」
「気難しい方だから、わたし以外の侍女はみんな長続きしなかったけど、わたしだけはずっとお傍にいることを許された。いつも……一番、そばにいたのよ。婚約者よりも、夫よりも、長い時間……! エミリーさまのことは何だってわかるわ。エミリーさまだってそうなのに、わたしがこんなに心配してるってわかってるはずなのに、なにも、なにも言ってくれない……!」
一度こぼれると、抑えようもなくこぼれてしまう。
アリアは小さい身体を伸ばして、絹のドレスごとカトリーヌを抱きしめた。
「こっ、このまま、部屋から出ないで、エミリーさまが死んじゃったらどうしようって考えるの。大伯母さまも夫をなくしてから屋敷にこもりきりになって、流行り病でしんじゃったもの! お元気な方だったのに、すっかりやせ細ってしまって……!」
アリアはかすかに眉をひそめた。
母も二年前の冬、熱病に打ち勝てずにこの世を去ったのだ。
この世で何よりも愛している人と二度と会えない日がくるなんて――しかもその日が必ず訪れるだなんて、アリアはついぞ知らなかった。
すでに別離を味わっているから、この年上の侍女が抱くあてどない恐怖も、行きどころのない怒りもよくわかった。
アリアは、カトリーヌの嗚咽を聞きながら、気が済むまでいつまでも背中を撫でた。
影が少し伸びるまでそうしていただろうか。
「……取り乱して悪かったわね」
赤くなった目をハンカチで隠して気まずげにつぶやいた侍女に、アリアはいつもどおりニッコリと笑い返した。
「なんとかして、この顔を見ていただくことはできないかしら?」
「……残念だけど、それは無理よ。わたしもお部屋に入れていただけないんだから」
「昨日、水と薬を運んでいたのは?」
「扉の前に置かされるのよ。お食事だってそう。開けてなんていただけないわ。お声を聞いたのだって、さっきのが五日ぶりだったんだから」
琥珀色の瞳とピンク色の瞳は、思案するようにそろって空を見上げた。
「……いえ、日に一度だけ、ハウスメイドは扉を開けて頂いているわね」
「やっぱりそうよね」
ご不浄や寝具の取り換えは、いかに引きこもりと言えど必要である。
何せトイレは室内のおまるにしているのだ。一日だって放置したらとんでもないことになるだろう。
「それって時間は決まってるの?」
「夜の十一時くらいよ。でも本当に一瞬だけ。たぶんメイドが入ってこないように、あらかじめ扉近くに置かれているんだと思うわ」
「一瞬でも鍵を開けていただけるなら問題ないわ」
「……」
カトリーヌはここで、アリアを上から下まで眺めて、不審そうに眉を寄せた。
「今更だけどあなた、まだ子供じゃない。夜中まで起きていられるの?」
「あはっ! ほんとに今更よ」
アリアはおかしくなって笑い声をあげた。
「孤児はたくましいのよ。なんてことないわ」
勝気そうに見上げるピンクの瞳を受けて、カトリーヌはようやく、ぎこちない笑みを浮かべたのだった。
その後のティータイムはいつもどおりであった。
こちらにばかり話を振ってくる養父と、全く話さない義姉に挟まれ、アリアはブラックカラントのタルトに舌鼓を打った。
相変わらずこの時間は胃が痛いが、緊張して味もわからないということはさすがになくなった。
瑞々しくて甘酸っぱいタルトは、頭を使ったあとの疲れた精神によく沁みた。
アリアのことを思って作ってくれたということを知っているので二倍おいしい。あとで厨房にお礼の手紙を書かなくては。
「ジャクリーヌ先生が、アリアには専門のピアノ教師をつけた方がいいと言ってきたよ。手に負えないほど優秀なんだって? 有名な先生に師事して、オルセーヌ音楽学校に進むのはどうかっておっしゃっているよ」
「え?」
降ってわいた教育投資の話に、アリアは瞬きし、しばし黙考した。
確かに音楽は好きだ。だが、音楽家となると話は別である。
(三歳から英才教育を受ける神童がごまんといる世界で、下町育ちのわたしが大成できるとは思えないわ。ありがたいけど、時間と金をかけるなら将来的に金になることを優先していただきたいのよね。わたし、自分で稼がないといけないんだもの)
「音楽家はボロ儲けできなさそうだからありがた迷惑だわ、という顔をしているね」
「やだぁ、何のことですか?」
「ふふふ、アリアは正直ものだね」
フレデリクはいつも楽しそうである。うらやましい。
こちらは横で死んだ目でチョコレートケーキを食べているセレスティーネが気になって仕方がない。いったい今日はどんな話を振ろうか……。
「一度聞いた曲を、譜面を見ずに再現できるらしいね。天才だって言っていたよ」
――その言葉で、懐かしい情景がふと脳裏を横切った。
カビの臭いのする集合住宅。上階から足音のたびに落ちてくる埃と砂。路地から聞こえる物売りと喧嘩の声。ボロ布のようなカーテンが風を孕んで、ひしゃげた窓枠がガタガタと音を立てている。
雑多な物音がつねに満ちていた貧しい一室でも、その指が弦をはじくと、旋律以外のすべてが耳から消え失せた。
「……ありがとうございます」
母もそうだった。
部屋には古い竪琴があって、街角で聞いた曲をよく再現してくれていた。
彼女はその喉だけでなく指先もまた、巧みに音楽を奏でたものだった。
――あなたは特別な耳を持っていると、遠い記憶で聞いた気がする。
いったいいつのことだったのか、どんな内容だったのか、よく思い出せない。
「音楽学校はともかくとして、貴族社会では高い教養を持った女性は安定して人気があるからね。潰しがきく。ピアノ以外にも習いたいものはある? 好きな教師をつけてあげるよ」
「お姉さまは何をやられているのですか?」
「……」
「セレスは、アリアと同じ基礎教養と、刺繍にダンス。あとは……何があったかな?」
「……歴史と語学と、魔術式ですわ」
「ああそうそう」
まじゅつしき。
聞き慣れない、だが俄然興味をそそられる単語に、アリアは身を乗り出した。
「ま、まじゅつしきとは……?」
「おや、知らなかったか。たしかに平民は使わないだろう」
フレデリクは窓辺のゼラニウムに目を付け「あれでいいか」とつぶやいた。
胸元から小さな紙を二枚取り出して何か書きつけると、ゼラニウムの鉢に一枚差し込み、もう一枚を、ティーカップを下したソーサーにのせた。
「アポルト ゲラニウマス」
ペン先を紙につけて、フレデリクがなにごとか唱えると、いつの間にか鉢植えがティーテーブルにのっていた。
「!?」
窓辺を見ると、さっきまで花が咲いていた場所にソーサーがある。アリアは何度もまばたきをした。
「……えっ?」
「これが魔術式。術式のこめられた紙に、術式のこめられたペンで式を書いて、決まった文言を唱えることで発動する」
「まっ、まっ、まほうですか?」
「まあそんなようなものだね」
フレデリクはあっさり首肯した。
「でもいわゆる、魔法使いが使うような便利なものじゃない。そもそも資材が高価だから練習もそうできないし、呪文を唱えるより前に、どれだけ抜かりなく準備したかにかかってる。困難なことを望めば高い対価も要求される。けっこう面倒なんだよ」
「……」
そうは言っても、とても便利そうである。何に使えるかは残念ながらパッと思いつかないが、無限の可能性をひしひしと感じる。
「興味があるなら、アリア、セレスといっしょの授業を受けてみる?」
「いいんですか!?」
「嫌ですわ」
間髪入れずに飛んできた拒絶に、アリアはショックでしおしおと小さくなり、フレデリクは苦笑した。
「術式使いは領内にも数が少ない。きみの時だって、どうしても学びたいって言うから苦労して探してきてあげただろう? そうそう別の教師を手配はできないよ」
「魔術式なんて、貴族令嬢が日常生活で使うものは限られます。アカデミーに入ってから学べばよろしいわ」
「おや。きみだって同年輩より先に準備をしておきたいから、いま習っているんだろう? 術式の難解さを知っていて、
フレデリクの言葉に、セレスティーネの動きがぴたりと止まった。
「い、いじわる? ……わ、わたくしが? そんな、そんなはずないわ……!」
顔色はさっと青ざめて、手元がわなわなと震えている。
アリアは慌てて「お父さま!」と割って入った。
「お姉さまがいやならしょうがないですわ! 他のことをがんばります! お姉さま、わたしはお邪魔をしないので安心してください」
「……」
精一杯優し気な笑みを浮かべたつもりだが、目をそらされてしまった。
いったいどう接すればいいのか、まだ掴めない。
「そうだ、狩猟の先生とかいらっしゃいませんか? あとは、槍とか、斧とか……乗馬とかサバイバルもいいわね。筋骨隆々な、歴戦の猛者みたいな方がいたらお願いします」
「ン゛ン゛ッ……! 冒険者になる道はまだあきらめてないの?」
「選択肢は多い方がいいですから!」
フレデリクは笑いをかみ殺したまま、「わかった。期待してくれていいよ」と応じた。
この日も、いつもどおり盛り上がることのないままティータイムは終わった。
いつもと違うこととしては、アリアが二階に戻ると、部屋の前にセレスティーネが佇んでいたことだった。
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