第8話 はじめての違和感(2)

「お、お姉さま……!」


 速攻で部屋に戻ってしまうセレスティーネが廊下にいるのは、実に珍しかった。


 しかも「あなたを待っていたの」と言われ、うれしさのあまりアリアはパアッと頬を染めて満面の笑みを浮かべた。


「こっ、こちらでお話ししませんか!? ぜひお好きな本を教えてください」


 子ども用の食堂に引っ張って行こうと袖に触れると、そっけなく手を払いのけられる。


「お母さまの侍女に近づいたんですって?」

 

「え?」


 セレスティーネの後ろから、リクハルトが冷たくこちらを見据えていた。


「……」


 アリアは判断をはかりかねて、謎めいた主従を見つめ返した。


 セレスティーネがこの侍従以外の使用人と話しているのを見たことはない。


 リクハルト自身も、他の使用人たちと距離がある様子である。


 そういう状況からすると、リクハルトが直接目にして報告したのだと推測できるが、なぜこの侍従が、あんな何もない野ばらの茂み近くにいたのか?


(たまたま? それとも、わたしを監視しているの? ――考えたくはないけど)


「……カトリーヌが薬を運んでいたのを見て、奥方様の体調が優れないのかと思い、心配で様子を尋ねました」


「余計なことはしないで」


 言葉を選びながら答えたが、間髪いれずに静かな拒絶が返ってきた。

 

 しかしアイスブルーの瞳からは、怒りも動揺も、何も見いだせない。


「お部屋から、もう長いこと出られていないようなんです。このままでは流行り病なんかにかかったらひとたまりもないと、カトリーヌが胸を痛めていました」


「そうね。あなたが来たせいね。だから屋敷内をうろうろして、余計なことはしないでちょうだい」


 氷のような拒絶が重なっていく。

 

 同時に、違和感が胸中に積もる。


(この、眼差し……)


 セレスティーネはまるで人形を眺めるような冷たい温度の双眸で、アリアに対峙していた。


「……余計なこととは、具体的に?」


「間違ってもお母さまの前に姿を見せたりしないで」


「……」


 母の心労の原因である義妹に、とにかく波風を立ててほしくないというのがふつうの感情だろう。


 怒りや心配が顔に出にくい性質なのかもしれない。それならまだ理解できる。……だがどうしても、違和感がぬぐえない。


(いったいどういうお気持ちで、こうおっしゃっているのかしら?)


 アリアは「お怒りはごもっともです」と頷いた。


「でも、お姉さまもご存知でしょう? わたしはお父さまの子ではないと。お父さまは、わたしの顔を見れば引き取った理由がわかると言っていました。つまり、一度でもこの顔を見て頂ければ、不貞ではないってことが──」


「やめてって言っているのが聞こえないの!?」


「!?」


 本日、二度目の平手打ちが飛んできた。


 ふつうに避けたが、アリアは心底驚いた。


 楚々とした義姉の甲高い怒鳴り声も、手を出されたということも、その理由がつかみきれないということも。


「お、お姉さま……?」


 セレスティーネは、義妹にふりあげた手の置き場を探して黒髪をくしゃりと握りしめ、美しい顔をはじめて歪めた。


 ――雪の妖精のような美貌を曇らせるそれは、不安という感情であった。


「そんなことをしたら、シナリオが崩れるじゃない……」


「シナリオ?」


 もしかして、悪役令嬢がどうとかいう話のことだろうか。


(だ、だとしたら重症……!)

 

 アリアは固唾をのんで、次の言葉を待った。


「お母さまが死なないと、フランがうちに来ないじゃない。ジルベルト叔父様だって、わたくしの味方になってくれないわ……」

 

(ああ~~! 重症だったみたい~~~~)


 アリアは目を閉じて天を仰ぎ、即座に脳を切り替えた。


(お姉さまが、物語のなかに入り込んでしまうタイプの乙女だってことはわかったわ。うんうん、少しでも理解が進んで何より。先は長そうだけど……!)


「お姉さま、悪役ごっこは夫人がお元気でもできるじゃないですか。それにお姉さまが悪役と言わず、わたしが悪いやつでお姉さまがヒロインでも全然いいんですよ。任せてください、そういうの得意です!」


「いいえ。跡継ぎがいないままお母さまが身まかってしまったから、領地の子爵からフランをもらうのよ。お母さまがご存命では道筋が変わってしまうわ。あなたのせいでお母さまが亡くなるのが、物語の始まりなんだもの」


 しっかり設定があるらしい。アリアは同じ土俵上での説得をあきらめた。


「……よくわかりませんが、それは母親の命より大事なものなのですか?」


 セレスティーネは虚を突かれたように、表情を消した。


 ――綿菓子のようにふわふわと浮世離れしていて、ちょっと目を離せばやっかいごとに巻き込まれる。でもその愛は、この世の何より頼もしい。


 こうして永遠に遠く分かたれてしまった今も、片時も離れず支えてくれているほど。


 アリアにとって母とは、何かと引き換えにできるものではなかった。


 たとえ夢見がちな空想の中であっても、それを手放してしまえるのがただ不思議だったのだ。


 ――ドッ

 

 その時、腹部に衝撃が走った。


 視界が白く瞬く。

 

 膝から硬い床に崩れ落ちてやっと、拳を叩きこまれたのだと理解した。


「どの口でお嬢さまに道理を説く? 孤児の分際で何様のつもりだ?」


 頭上から降ってきた冷たい声に、リクハルトが殴ったのだと認識した。


「う、ぐぅっ……!」


 痛みと混乱は、一拍おいてからやってきた。


 ――なぜ? どうして殴られないといけないの? 痛い。痛い! 早く、逃げなくては!


 脳内に疑問と警報が鳴り響いたが、それ以上にアリアの身体を満たしたものがあった。


 怒り。

 

 アリアは激怒していた。


 ――ガッ!

 

「!」


 小さな手が、目の前の磨き抜かれた革靴を掴む。

 

 爪が食い込むほど渾身の力を込めて、地に這いつくばったまま、凶行の犯人をにらみ上げた。


「自分より、弱いものを、殴るなんて……ッ恥を知りなさい! リクハルト・ハーゼナイ!」


「……!」


 リクハルトは紅茶色の瞳を見開いて後ずさろうとした姿勢のまま、身体の自由を失ったように硬直した。

 

 冷や汗が額を滴り落ち、口内に苦味が溢れ、喉が焼けるように熱かった。


 瞳も溶け落ちそうに熱を持っていた。


 八歳の女の子が殴られたのだ、泣きもする。

 

「何よ、その顔? 殴っておいて怒られないとでも思ったの? おバカさんね」


 下町で暮らしていた時だって、こんな容赦なく腹を殴られたことなんてない。


 故意に傷つけられて、身体が混乱の悲鳴を上げている。


「わたしが小さい女の子で命拾いしたわね……!」

 

 背中に脂汗がじっとりと滲んでも、言ってやらずにはいられなかった。


「いつか絶対に、やり返すわ! 覚えておきなさい!」


 弾かれたように動いたのは、セレスティーネだった。


 いまだ固まったままのリクハルトを押しのけてアリアの腕をつかむと、ほとんど引きずるようにして近くの小部屋に押し込み、鍵をかける。


 扉の向こうから長く息をつく音がし、震える声が届いた。


「は、恥を知るのはあなたの方よ、アリア・プランケット! ひ、人の婚約者を奪って逆ハーレムを作る人に、リクを怒る資格なんかないわ!」


(いったい何の話??)


 一生懸命言い返しているというのがわかるのでこちらも理解したいのだが、心当たりが全くない。


 二人分の足音が逃げるように遠ざかるのを耳にして、アリアは床に手をついた。


 ……気持ち悪い。吐きそうだ。


「よくも腹パンなんてしてくれたわねあいつ……。ちょっと顔がいいからって許さないわよ。お姉さまもあんな暴力男を止めないなんて……うぷっ」


 ぼやいていても吐き気はおさまらない。


 アリアは押し込められた小部屋を見渡した。


 布のかかった木箱、モップ、バケツに雑巾。


 何部屋かはわからないが、高価なものは保管されていないだろう。


 よし、さっと吐くか。

 

 覚悟するが早いか、近くにあったバケツを抱えて口を開いた。


「ぼえっ」

 パサッ。


「……パサッ?」


 ――アリアは健康優良児である。


 下町の小汚い環境で八年生きてきて、寝込んだことは一度もない。


 熱病が流行った時もコレラが流行った時も、アリアだけぴんぴんしていた。


 それでもカビたものを食べたり落ちてるものを食べたりした結果、嘔吐した経験というものは何度かある。


 それからすると、いま口から抜け出たものは、なにかこう……明らかに変だった。


 まず口の中が違う。


 吐いたあとはだいたい酸っぱいとかえぐいとかの最悪な状態になるはずだが、普段と変わらない、ニュートラルな状態である。


 パサッという音もおかしい。吐しゃ物はなんかもっと、ベシャッとかポシャッとか、湿った音がするはずである。出てくるものを考えたら、パサッておかしくないか?


 しかし確かに、何かが喉をのぼって口から出た感覚があり、何より吐く前と比べて格段にすっきりしているのは認めざるを得ない。


 バケツの中を恐る恐る覗き込んで、アリアは絶句した。


「……軍手?」


 バケツには、軍手が入っていた。

 

 分厚くて頑丈な綿素材、黄色いラインの入った、まごうことなき軍手であった。

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