第9話 謎の軍手と夜の闇
「落ち着いて、おかしなことなんて起きてないわ。そう、一度整理するのよ」
アリアは混乱していた。
自分の吐しゃ物が落ちているはずの場所に、自分が吐いたとは思えないものが落ちているのだから当然である。
やたら大きい独り言をつぶやくと、おもむろに落ち着き払って立ち上がる。
「まず……そうだ! リクハルトに殴られたわね。あいつは絶対泣かす。それからお姉さまにここに閉じ込められて、リクハルトの腹パンのせいで気持ち悪くなって、吐いてすっきりした。で、口からは軍手が出てきた、と」
ふむふむ。
「……おかしすぎるわ!」
アリアは、いまだバケツの底に鎮座している軍手を恐ろしげに見た。
バケツの中に何もなかったから、ボエッと一発出したのだ。
たとえ軍手であってもなにか入っていたら、取り出してから吐くに決まっている。
それなのに、何度見ても、バケツの中には軍手がある。
論理的に考えればアリアが軍手を吐いたのだが、常識的に考えさせてもらえれば全く納得はできない。そもそも軍手を食べた覚えはない。これだけは信じてほしい。
「……」
アリアはバケツを壁際に寄せて、目をそらした。
「……目にも止まらない速さで横から軍手が飛んできて、バケツに入った。間違いないわ。よし終わり! さて超常現象のことは忘れて、ここから出る方法を考えないと」
いつもどおり考えても理解できない事象は宇宙の彼方に投げ飛ばし、指を鳴らして立ち上がった。
一応ドアノブを回してみたが、やはりマホガニーの扉には外から鍵がかかっているらしく、びくともしない。
「夕飯前だし、絶対に誰か通りかかるわよね。……あっ」
そう呟いたそばから、階段を上がってやってくる音が聞こえてきた。
積み革のローヒールブーツが立てる足音は軽やかで、若い女性のものだとわかった。
アリアの耳はやたらと性能がよく、聞き慣れた足音なら誰のものかも判別できる。
「ラッキー、メラニーね! メラニー! 開ーけて!」
ベシベシと手のひらで扉を叩きながら、アリアは廊下に呼びかけた。足音はどんどん近づいてくる。
ガチャリと向かいの部屋の扉が開く音がした。アリアの部屋のドアだ。
「……あら? ここにもいない。お嬢さまったらどこにいるのかなあ」
「メラニーここよ! 開けてー!」
さらに大きく声を張り上げてドアを叩いたが、返ってきたのは「庭かなあ。よく畑を手伝ってるみたいだし」という呟きだけだった。
「……うそ」
「もう、お嬢さまったらがんばりやさんなんだから。よし! いっちょ畑まで行ってきますかー」
「メラニー!? 聞こえないの!? お嬢さまはここよー!」
のんきなつぶやきを残して、仲良しのハウスメイドの足音は階下へ遠ざかっていってしまった。
「そんな……」
小部屋に取り残されたアリアは呆然と扉を見つめたが、すぐに頭を振った。
「あんなに近くにいて、声が聞こえないなんてこと、ある?」
メラニーが聞こえないふりをしたというのが一番現実的ではあるが、あの肝が座った気さくなメイドが、そんな嫌がらせをするようにはアリアには思えなかった。
そうなると、声が外に届かない仕掛けがあるとしか考えられないが……。
「魔法?」
ピンクの瞳が、再びマホガニーの扉を映した。
ティータイムに、フレデリクが披露してみせた不思議な術。
特殊な紙に術式を書いて、詠唱することで実行されると言っていた。
「ってことは、この扉の外側に、小部屋からの声が届かないような魔術式が張り付いている……かもってことね」
セレスティーネは、アカデミーとやらに先んじて、家庭教師から魔術式を学んでいると言っていた。
魔術式というもので何ができるのかは不明だが、ありえる話である。
「お手上げ〜!」
アリアは床に大の字になって転がった。
鍵のしまった扉の外に仕掛けがあるというのなら、できることはなにもない。
少し高い場所にある小窓から、暮れ始めた夕日が長く差し込んでいた。
風に揺れる葉擦れのざわめき、空を征くクロウタドリのさえずり、はるか上空で巻雲を作る風の音が、聡い耳に届く。
のどかな春の夕暮れである。
アリアが来た日より、少しだけ日の出る時刻が長くなっていた。
「メラニーは畑に行っちゃったのかしら……。夜になるまでに、誰か開けてくれるといいんだけど」
そもそもなんで閉じ込められたのか、さっぱりわからない。
セレスティーネは一生懸命、国境伯夫人が死なないと誰それを引き取れないだとか、何とかおじさんが味方になってくれないだとか、シナリオが崩れるのだと説明してくれたのだが、「それって全部空想では?」という疑問に尽きてしまうのだ。
孤児院で世話になったのは一年という短い期間だったが、年の割にしっかりしたアリアは年少の子たちの世話をよく任されていた。
鬼ごっこ、おままごと、お姫さまごっこ、海賊ロジャーごっこ……いろんなごっこ遊びによく付き合っていたが、ここまで一方的なものは初めてだった。
高価だという資材を使って、侍従と二人がかりで、ガチで閉じ込めに来ている。金持ちのなせる技である。
(ふつうに相当嫌われているわね。……あーあ。あれだけ、がんばったのになあ……)
今さら現実を直視しながら、おやつを食べて重たくなってきたまぶたを閉じた。
++++++++++
揮発したアルコール、少しカビた樫のテーブル、雑多なスパイスと油の匂い。
(……懐かしい)
ここは昔、母と暮らした港町、ベツィルクの酒場だ。
「リアちゃん、よだれが垂れているわよ」
優しい声とともに、口元を亜麻布で拭われた。
「おねむなの? お部屋に帰ってから寝ましょうね」
アリアは、ムーともングーともつかない音を口から漏らして返事した。
今日はがんばったのだ。
いや、最近はずっとがんばっている。体が重い。
「あらあら、そんなにお口を開けて。あなたの喉は特別製なんだから、何か出てきちゃうかもしれないわよ」
――あなたの目は特別よ。お母さんと同じように。
でも一番特別なのは耳。
いつかその耳は教えてくれるわ、あなたの喉から何が出てくるのか。――
++++++++++
ハッと目を開けると、外は夜闇に沈んでいた。
アリアは起き上がって、窓辺で背伸びをした。
月はもう中天に差し掛かっている。真夜中だ。
「……特別製の、喉?」
自分の喉に指先を当てると、小さな骨がこくりと上下した。
――何か出てきちゃうかもしれないわよ。
懐かしい母の声は、おかしそうにそうからかっていた。
アリアは、隅に避けたままのバケツを見やった。
夜闇の中で、無骨な木製の桶が白い月明かりに照らされている。
「……いやいやいやいや。いくらなんでもそれはないわ、お母さん」
小さな手がバケツを引き寄せて、おそるおそる中を見た。
やはり軍手がある。
もしや幻ではないかと指先でつついてみたが、残念ながら実体を持っていた。
「ん? なんかつぶつぶしてる」
持ち上げて月明かりにかざしてみると、手のひら側に黄色い粒々が貼り付けられているのがわかった。
触るとペタペタしているこれは、下町の工事現場でもよく使われていた手のひらの滑り止めであるということに思い至った。
「……」
アリアは、少し高いところにある窓を見た。
考えたくないことだが、この物置、あまり使われていないのではなかろうか。
夕方に閉じ込められたのでもう六時間は経とうとしているというのに、その間、誰も開けに来ていない。
――明日になっても誰も開けに来てくれなかったら?
――セレスティーネとリクハルトが、子供らしくうっかり忘れてしまっていたら?
白骨化した自分の姿が脳裏をよぎって、アリアは頭を振った。
階下では、夜更けだというのに足音が途切れない。
「アリアお嬢さまー」と遠くで呼ぶ声が聞こえてくる。
アリアの行方がわからないから、家事使用人たちが眠りにつけないのだ。
ほんの二週間前に突然現れた、どこの馬の骨かもしれぬ自分のために、明日も仕事のある者たちが疲れた身体に鞭打って、こんな時間まで働いている。
「……よし!」
闇の中で閉じ込められた少女は、自らを鼓舞するように両頬をパン! と叩いて、バケツの中に鎮座する軍手を引っ掴んだ。
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