第10話 あなたを迎えに来たのです

「扉がダメなら、窓から出るしかないわ。頼んだわよ、謎軍手!」


 軍手に手を入れると、まるでアリアの手に合わせて作られたかのようにピッタリと収まった。


(ぶ、不気味〜〜〜!)

 

 だが、脱げる心配はなさそうだ。


 この物置唯一の窓は、子どもの目線より少し上に嵌められている。


 踏み台として木箱を奥から引きずってくると、足をかけて窓枠に取り付いた。


「固ッ! かった……過去五年は開けてないでしょこの窓! ……グニィィーッ」


 変な唸り声だが真剣である。


 渾身の力をこめて窓枠を押すと、突然バコッと外れ、アリアの半身は空中に飛び出した。


「!」


 春の夜のまだ冷たい風が頬を刺す。


「ひえ~~ッ!」


 慌てて手の届くものにしがみついた。


 蔦だ。

 

 今さらながら、グウェナエル城は蔦に覆われた瀟洒な城だったことを思い出した。


「し、し、しぬとこだったわ……! 蔦、ありがとう。いい仕事をしてくれたわね」


 全身から冷や汗を噴き出しながら礼を言っておいた。

 

 どうか切れないでくれという頼みも込めてヨイショもしておく。


 腕の隙間から見下ろすと、かなり離れた場所に芝生が見えた。


「お、思ってたより高いわね……!」


 手を離したら落ちる状態で、この高さから下を見たのは初めてだ。


 花壇に張られた鉄の柵が、やたらトゲトゲしたデザインであることもたった今知った。


 あそこに落下して、柵が刺さって死ぬ自分のイメージ映像が脳裏を駆け巡り、アリアは思いっきり上を向いた。


「……あ」


 視界の右斜め上、空中に張り出した大理石の窓用花飾台フラワーボックス


 アリアが来て二週間、誰も扉から立ち入りを許されない開かずの間。

 

 国境伯夫人エミリエンヌの部屋が、頭のすぐ上にあった。


 ――跡継ぎがいないままお母さまが身まかってしまったから、領地の子爵からフランをもらうのよ。お母さまがご存命では道筋が変わってしまうわ。


 ふいに、切羽詰まった不安げな眼差しで語った、義姉の声を思い出した。


 ――あなたのせいでお母さまが亡くなるのが、物語の始まりなんだもの。


「わたしのせいで……」


 年上の侍女のよるべない涙も脳内に浮かんだ。

 

 絹のドレス越しに、とがった肩が震えていた。


 彼女は、エミリエンヌの身近に死が通りかかったら、たやすく引きずり込まれてしまうことを実感していたのだ。

 

 仇敵の小娘に涙を見せるほど追い詰められて。


 アリアのせいで、誰かの母が死ぬ。

 

 その可能性があるだけで、──許しがたい気がしてきた。


 朝焼け色の瞳が、頭上の窓を見上げた。


 なぜ閉じ込められたのかも、なぜ自分から軍手が出てきたのかもわからない。


 ただ、上に向かうべきだと直感した。


「ッ、……よい、しょおーーッ!」


 全身に力を込めて、一歩、壁を這い上がり始めた。


「ヌンッ……! ぬぅんッ! グッ……! ヌゥーン!」


 珍獣でしかないうめき声だが、登っている方は大真面目である。


 何せ、落ちたら死ぬ。


 木登りをしたことぐらいは何度もあるが、ここは三階建ての建物の外壁。


 手を滑らせれば終わりという恐怖で身体もこわばるし、足場として頼みの蔦は、当たり前だが人間が登れるようにはできていない。


 ブチッ! と右足の蔦が切れた。


「!」


 咄嗟に両腕の力を込めて蔦にしがみついた。軍手のおかげで腕は万全である。


「……ハァ、ハァ、ハァ……! あ、あ、あ、あぶなかった……」


 何とか次の足場を探して、両足を載せる。

 

 心臓が早鐘を打ち、こめかみがズキズキと痛いほどに脈打った。


「……うっ! グスッ……!」


 視界が熱く滲んだ。


 いったい、生まれ故郷から遠く離れ、貴族の豪邸の壁に取り付いて、自分は何をしているのか?

 

 今さらながら自分のみっともない姿を省みると、なんとも言えないみじめな気持ちになってきた。


 ――こんなことをしても、セレスティーネは妹とは思ってくれないだろう。


 エミリエンヌだって、きっと怒り狂うだけだというのに。


 アリアの家族なんて、もうどこにもいないのに。


「うっ、うるさいわね……!」


 脳内の情けない声を、アリアは噛み付くようにして弾き返した。


「そういうのは、暇でしょうがないときに考えればいいのよ!」


 こぼれそうな涙は、パシパシ瞬きをすることでなんとかこらえた。

 

 竦みそうな足を叱咤して、一歩、また一歩と這い上がっていく。


 朝焼け色の瞳は、目的地をまっすぐに見据えたまま。

 

 ──ガッ!

 

 やっとの思いで、小さなバルコニーに手をかけた。


「ゼェッ、ゼェッ! はあぁぁああ〜〜〜……。なんとかついたわ〜……」


 花飾台に上半身を乗せて息をつく。


 せっかく咲き乱れているヘリオトロープには悪いが、命がかかっているので許してほしい。


 分厚いカーテンの隙間から部屋を覗くと、豪奢な家具に満ちた部屋の中、天蓋つきのベッドに横たわる人影があった。


 薄暗くてよく見えないが、折れそうに華奢な体つきがわかる。


「よしっ」


 さっそく、窓枠に手をかけて思いっきり引いた。


 ……が、びくともしない。


「何これ、鍵でもかかってるの? ……えっ嘘でしょここまで来て!? や、やめて! こんな高さから降りるなんて無理! 入れてええ……!」


 ガチャガチャと必死で窓枠を揺らすと、部屋の中の人影もさすがに気が付いたらしく億劫そうにベッドから身を起こしたが、アリアはそれも目に入らずに、青い顔で窓を叩いた。


「開きなさい!」


 バコッ!


「あ」


 とつぜん抵抗が消え、小さな身体はゴロゴロと絨毯の上に転がり落ちた。


 窓からいきなり現れた侵入者を、ベッドの上の女は呆然と見つめた。


 ビロードのカーテンが翻り、月光を招き入れる。

 

 外は十六夜の月、中天を少し回ったころ。

 

 春の夜の風がよどんだ室内の空気をはぎとっていく。


 影ができるほど明るい月の光が、風を受けて散る白金の細い髪を透かした。

 

 燃えるように輝く大きな瞳は、朝焼けの色。


 天使というには生命力が旺盛で、悪魔と呼ぶには曇りのない眼差しを受けて、プランケット国境伯家夫人エミリエンヌの唇から、知らず懐かしい名前がこぼれた。


「……ユスティア?」


 耳慣れぬ響きのそれが自分の母の愛称であると、アリアはしばらく考えて気がついた。


 下町で暮らしていた時には別の名を名乗っていたのでピンとこないが、たしかにあの奇妙な本名の短縮形である。

 

(夫人がお母さんを知ってるって、お父さまが言ってたことは本当だったのね……)


 アリアは立ち上がると、母の教えてくれた礼を取った。


「窓から失礼いたします。ユスティアの娘、アリアと申します」


 月光に照らされたエミリエンヌは、セレスティーネとよく似た玲瓏な美貌の女性だった。


 豊かなブリュネットを夜風に揺らし、切れ長の緑の瞳をまたたかせて、アリアを上から下まで何度も見返した。


「グウェナエル卿はこう仰せでした。わたしが誰の娘なのかわかれば、国境伯夫人の心労が晴れると……。お身体が心配で、こうして馳せ参じました」


「……あの、クソ男……」


「えっ」


 地獄の底から響くような声がどこからか耳に届き、アリアはつい被っていた猫を取り落してしまった。


 バフ! と華奢な腕が勢いよく枕に沈みこむ。


「悔しい! まんまとあいつの策にはまったってわけね!」


 大貴族の奥方は、拳を握って枕をバフバフと殴っていた。


「あの、国境伯夫人……?」


「アリアと言ったわね……! あの男、あなたを連れてくる前になんて言ったと思う? 『君がびっくりするような人の子どもを見つけたんだ。誰だと思う? わかったらなんでも買ってあげるよ。あ、ちなみに明日引き取りに行くから』って……」


「は、はい」


「ふざけていると思わない!? 屋敷のことはわたくしの管轄よ! 勝手に子供をもらうことを決めて、しかも誰の子か当ててみろですって!? どこまで傲慢なのかしら! これだからプランケットの男は嫌なのよ!」


「……」


 たしかにフレデリクはふざけているが、――なんか奥方の様子が、想像していたのと違う気がする。


「もしかして、お部屋から出なかった理由は……」


「そんなの、あの男との根比べ以外に何かあるかしら!? あの調子こきが精根尽き果てて、どこの誰か知らない子どもを元いた場所に戻して謝りに来るまで、こうして籠もっていたというわけよ!」


「……わたしを浮気相手の子だと思って、ご心痛で引きこもっているのかと思っていました」


「ハッハアァ!? お、おぞましいことを言うのはおやめ! わたくしは男なんてそもそも嫌いなのよ!」


 エミリエンヌは真っ青になって二の腕をさすった。よほど嫌なのだろう、鳥肌が立っている。


「……」


 たぶん屋敷の人間の九割九分がそう思っているということは、口をつぐんでおいた。


「ハァ~……もう、何なのよ。せっかく二週間もこもったというのに……よりにもよってユスティアの娘では、追い出すわけに行かないじゃない」


 緑の瞳が、まぶしいものでも見るように細められて、アリアを写し込んだ。


 少しつり気味の瞳は、フレデリクの人好きする垂れ目と対象的で、近寄りがたく高貴な印象を与える。


 義姉の涼やかな美しさは母親似のようだ。


「母をご存知なのですね」


「あら。あの男、なにも教えていないというわけね。本当にたちが悪くて嫌になるわ」


 やはり、アリアを引き取ったのには何かしらの企みがあるらしい。


 ――ドブ町ベツィルクの女神、ユスティティア。


 ユスティフの侯爵に匹敵する名門プランケットと、地方都市ベツィルクのみなしごの娘をつなぐただ一つの鍵。


「母は何者なのですか?」


 養い子の問いかけを受けて、エミリエンヌは困ったように苦笑した。


 その笑い方は、たいそう嫌っている様子の夫によく似ていた。


「わたくしからは言えないわ、責任を負うのはごめんだもの。でもいつか知らされるわ、しかるべき時にしかるべき者から」


「……」


(しかるべき時に、しかるべき人から教えてもらう必要があるの? そんなご大層な秘密が、わたしの出生にあると?)


 黙り込んだアリアを受け流し、エミリエンヌは「そんなことより、どこから這入はいって来たというの?」と話を変えてしまった。


「扉は鍵がかかっていると聞いたので、窓から」

 

「どうやって?」

 

「外の蔦を伝って」

 

「ハア?」


 エミリエンヌは疑わしげな声を上げたが、軍手がはまったままの小さな手に気づくと、顔を剣呑にしかめた。


「お待ち。――もしかして、外壁を上ってきたと言うの?」


「今そう言いましたが……」


「なんてこと!」


 悲鳴を上げるが早いか、マッチを擦って燭台に火を灯して「手をお見せ!」とつっけんどんに命じた。

 

 アリアは素直に軍手を外して、両手をエミリエンヌに預けた。


「まあ嫌だ、爪が剥がれているじゃない! 何を考えているの!? ここは三階よ! お前のお母さまは、高いところから落ちたら死ぬという当たり前のことも教えなかったの?」


 それは当たり前すぎて履修していない可能性はある。


 爪が剥がれているとか言われてしまうと、今さらじんじんと痛みを感じ始めてきた。

 

 死にかけた恐怖も蘇ってきたし、全身が冷や汗で濡れていることも思い出した。身体のこわばりで、少し声が震えた。


「こんな危ないことをしたのは初めてです。……もう二度としません」


「当然よ! この屋敷を事故物件にされたらたまらないわ!」


「でも、もし扉を叩いたら、入れてくださいましたか?」

 

「……」


 玲瓏な美貌が、発言の意図を掴みかねてアリアを見つめた。


 美人に真顔で見据えられると迫力がある。――だが、引くわけには行かない。


 この気難しい奥方を引っ張り出せるのは、自分だけなのだから。

 

 そのために、登ってきた。


「わたしだって落ちたら死ぬということは知っています。でも、入れてくださらないのならやることは一つしかありません。今日が繰り返されるとしたら、わたしはまた壁を上ります。国境伯夫人、わたしはあなたを迎えに来たのです。あなたを愛する人々の元へ連れ出すために」


「……何をそこまで。カトリーヌと言い、誰もかれも大げさなのよ。わたくしは好きでこもっていると言うのに」


「大げさで構いません」


 うっとおしげに睨まれても引かない。


「わたしのせいで夫人が死んでしまうと、お姉さまに言われたのです。カトリーヌも言っていました。外の空気も浴びず、日に当たることもなければ、病が流行ったらひとたまりもないと。――泣いていたのです、あなたのしっかり者の侍女が」


「……」


「屋敷の人たちはみんな、夫人の健やかな生活を願っています。だから毎日調度品を磨き、花を挿し替え、フルーツを使ったお菓子を焼き、バラの手入れをしているのです。いつ部屋から出られても、夫人のお心が晴れるように……みんな、待っているんです」


 アリアが来るまでエミリエンヌが管理していたのだから、この屋敷はきっと、彼女が好きなもので作られているはずだ。


 エミリエンヌはしばらく目を伏せていたが、ややあって少し横を向くと、さりげなく袖で目元を拭った。


「……そうね。あの男に腹が立ちすぎて、他の者のことは目に入っていなかったわ。あの子にも……ずいぶん、骨を折らせたでしょうね」


 あの子というのはカトリーヌのことだろう。


 日がな一日、エミリエンヌからの声を廊下で待っていたことを思い出す。


「お二人には強い絆があるのですね」


「まあ、姉妹みたいに育ってきたのよ。あの子、気難しいでしょう? わたくし以外に友がいないのよ。でも、それで甘えてしまったみたいね。侍女を泣かせるなんて少女の頃以来かしら」


 寛容な主人風に言っているが、自分以外の侍女は長続きしないとカトリーヌが言っていたことをアリアは忘れていない。


「では、外に出ていただけますか?」


 期待を込めて尋ねると、エミリエンヌはしばし考え込み、首を振った。


「うーん……嫌」


「えっ!? なんで!?」


「だってこんなにゴロゴロできたの、久しぶりなのよ。もっと頻繁にやっておくんだったわ」


 想定外の返事に、また被っている猫が落ちてしまった。もう今度は被り直す気も起きない。


 アリアは痛々しい手をバッと広げて見せつけた。


「ほら見てください、この手! 爪まで割れてすごくかわいそう! それもこれも夫人の元気な毎日のため……! こんなにがんばって壁を上ってきた小さい子の努力を無碍にするつもりですか!? 人の心はどこに!?」


「なにか負けた気がするからよ」


 対するエミリエンヌはさして動揺した様子もなく、こともなげに言い放った。


「わたくし、まだあの男の越権行為を許していないもの。泣きながら謝りに来るまでここから出ないわ」


「そ、そんな……」


 謝りに来るどころかフレデリクが泣くまでやめないとは、最初に聞いた目標値からハードルが上がっている気がする。これではとんだ無駄足である。


 打ちひしがれそうになったが、すんでのところで足を踏ん張って、アリアは思考を巡らせた。


 負けた気がするということは――。


「……二週間前の賭け、まだ有効でしょうか?」


 緑色の瞳が瞬きをして、それからおかしそうに細められた。


 


 沈丁花の香る、ある春の朝。


 永く部屋の扉を閉ざしていた女主人が朝食の席に姿を現したということは、またたく間に屋敷中に広がった。


 そして妻の回復を喜んだ国境伯が、エリサルデ湖畔の別荘を夫人に贈与したことも。


 事の真相は、気難しい彼女たちしか知らない。

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