第12話 あるメイドの一日(2)

 その日のティータイムは、昨日までと違うお方が参加した。


 フレデリクの妻、国境伯夫人エミリエンヌが姿を現した時、──親子揃って真意の掴めない氷色の瞳も、さすがにパチクリとまたたいた。


「何なのかしら、その顔。わたくしがいたらおかしくて?」


 光が当たると紅色に輝く豊かなブリュネット、長いまつげに縁取られたつり目気味の瞳は濃いエメラルド色。


 剣高のバラを思わせる美貌の夫人は、静かなティールームを冷たく睥睨した。


「ティータイムにも来てくれるなんて思わなかった! 嬉しいよエミリー!」


 歓声を上げて両手を広げた夫に対し、「あなたのためじゃないわ!」ときつい睨みが投げつけられた。


「いいこと!? わたくしがそちらを向くことがあるまで話しかけないで頂戴!」


「やだなあ、照れちゃって。夫婦じゃないか」


 ふふふと笑うフレデリクはいつにもまして楽しそうだ。


 エミリエンヌは青筋を立て、扇を折りそうな勢いで握りしめてわなわなと震えた。


(そうだった。このご夫婦はいつもこうだったんだ。いやー、半月の奥さま引きこもり生活のうちに、うっかり忘れてたわー……)


 ピンクの瞳がチラチラと「これ大丈夫?」という意の視線を送ってきているが、過去何度も起きた壮絶な夫婦喧嘩を思い出して遠い目になったメラニーは、力なく親指を立てることしかできなかった。


「セレス、久しぶりね」


「……ごきげんよう、お母さま」


 セレスティーネは二週間ぶりに母親に会えたというのにそちらを見ることもなく、青い顔をしてティーカップを見つめていた。


「あなたまた背が伸びたかしら。新しい服をあつらえなくてはいけないわね」


「……」


 頷くこともせずに、雪の妖精のような横顔はふいっとあらぬほうを向いた。


 視界に入れたくもないという言外の意思表示だ。


 そらされた目はそのまま、ぞっとするような冷たさで義妹を映しこんだ。


 嫌悪と怒りのこもった、氷色の瞳。


 メラニーからしてみれば、理不尽極まりなかった。


(アリアお嬢さまは、両手に包帯が巻かれているっていうのに……! ご自分のせいで怪我をしても、何にも気にしていないんだ)


 これまでティータイムの給仕に従事してきて、アリアがどれだけセレスティーネに気を使っているかよくわかっていたメラニーは、知らず知らず、ぎゅっと唇を結んだ。


 当のアリアがエミリエンヌを一心に見ていて、姉の目に気づいていないことだけが幸いだ。


 エミリエンヌもまた、娘の冷淡な態度の理由を尋ねることもせず、初対面となる養子に目を向けた。


 この母娘、昔から互いへの関心が異常に薄い。


 子に情の薄い親というものは貴族社会ではよくあるものだが、セレスティーネのほうからも、親の愛情を乞う素振りを見たことすらない。


 聞くところによると、ほんの幼いころはわがままで元気の良い子どもだったらしいが、いつだか頭を打って以来、すっかり性格が変わってしまったという。


「あなたがもらわれ子ね」


「はい!」


 アリアはエミリエンヌが入室した時から、そつなく席を立っていた。さすがである。


「アリアと申します。国境伯夫人、お目にかかれて心から嬉しいです!」


 明るい可憐な声は、冷え冷えとしたティールームに暖かな春風を吹き込んだ。


 幼いながらもきちんとカーテシーであいさつをし、キラキラと笑みを向ける姿は、理想的な娘の姿そのものである。


(さて、どう出るかなあ……)


 メラニーは固唾かたずをのんで見守った。


 何せ、エミリエンヌが自室にこもった原因はアリアである。


 正確に言えば勝手に孤児を引き取ったフレデリクのせいなのだが、世の中正論が通じることばかりではない。


 アリアの素性が不明である以上、フレデリクの婚外子という可能性もあり、正妻としては当然面白くない存在だろう。


 気性が激しいと称するにはダウナー系だが、その気難しさと人嫌いは筋金入りだ。


 エミリエンヌの逆鱗に触れ、氷のように詰られて泣かされた使用人も少なくないし、一度の失敗で解雇された者もいる。


(目障りだわとか、出てお行きとか……いや。奥様ならもっとグサッと来ることを仰るわね)


 侍女のカトリーヌもハラハラと祈るように手を組んでいるのは謎だが――メラニーの記憶によるとアリアをドブネズミと呼んで憚らなかったはず――とにかく、しがない家事使用人としては見守ることしかできない。


「……」


 エミリエンヌはアリアを見つめると、いぶかしげに首を傾げた。


「あなたそれ、セレスの古着じゃなくて? 自分の衣装はないの?」


 ――予想外の発言であった。


「えっ! そうだったんですか? クローゼットにあるものを着ていました!」


 対するアリアの方も、なぜか平然としていた。


「メラニー、わたしの分のドレスってあるの?」


「えっ、あ、ないです。アリアお嬢さまはまだ採寸も受けられていません」


 奥方の指摘する通り、アリアが身に付けているのはセレスティーネが数年前に着ていたワンピースである。


 年は一才差だが発育具合にかなり差があり、去年のセレスティーネのドレスはまだ大きすぎる。


 そのため、デザインがやや古いのだ。


「なんてこと!」


 エミリエンヌは悲鳴を上げると、向かいに座った夫を「フレデリク・プランケット!」ときつくにらみつけた。


 この人、怒ると相手をフルネームで呼ぶ癖がある。


「わたくしに無断で引き取ってきたのだから、せめてちゃんと世話なさい! 無責任にも程があるわ!」


「あはは! ごめんねー、アリア」


「何かおかしいことがあって!? あなたって昔からそうだわ! へらへらと口ばっかり上手くて、外面だけよくて……!」


 青筋を立て、扇をこぶしで握りしめた絶世の美女の迫力はそりゃあものすごいが、フレデリクは全く動じておらず、──むしろ、非常にうれしそうにほほえんでいた


 メラニー自身も、エミリエンヌの分の紅茶をサーブしつつ、無表情を維持するのに必死だった。


 国境伯邸の主は頬杖をつき、愛しいものでも見るように目を細めて、自らの妻を眺めやった。


「ぼくは、きみが本当は心優しい女性だって知っているよ。当たりがきついし顔も怖いから誤解されがちだけど」


「なッ……!」


 エミリエンヌの頬にカッと朱が散った。


 慌てて扇を広げて「誰がきつくさせているとお思い!?」と噛みついたが、照れ隠しであることは明白である。


「だいたい! どういう目をしていたら、セレスの服をアリアに着せれば良いなんて思えるのかしら! 色味も顔立ちも体格もまったく違うじゃない。今日の服もまったく似合っていないわ!」


 グサッ。


 予想だにしていない流れ矢が刺さったが、夫人の言う通りである。


 キュッと目の詰まったシルクサテンのワンピースは、オリーブの葉のようなシルバーグリーン。


 大人びた美少女のセレスティーネにはよく似合っただろうが、愛くるしさが人の形を取ったようなアリアにはあまりしっくり来ていない。


「いいこと? あなたは長男だから思いも寄らなかったのでしょうけど、趣味じゃない姉のお古を着せられた恨みは大人になっても残るのよ!」


 ビシッ! と扇子を突き付けたエミリエンヌは、侯爵家の三姉妹の真ん中である。


 フレデリクは特に響いた様子もなく、「そういうものかな?」と機嫌がよさそうにお茶を飲んだ。


「カトリーヌ。シプリアンに一番早い日にちで来るように使いを出しなさい」


「かしこまりました」


 女主人のレース織りの扇子がパラリと開かれ、忠実な侍女が腰を折ると、窓が閉じているはずのサロンの中に、ふわりと春の陽気が吹き込んだ。


「夫人、ありがとうございます……!」


 アリアは頬をバラ色に染め、大きな瞳をいかにもうれしそうに潤ませて、エミリエンヌを見上げていた。


(ウッまぶしい!)


 メラニーは耐え切れず、ギュッと目をつぶってトレーで顔を覆った。


「礼を言われるようなことはまだしていないわ。いまから仕立ててもすぐにはできないから、それまで似合っていない服で我慢しなくてはならないのよ」


 自分なら耐えられないと夫に刺々しい目線を向けるエミリエンヌに臆する様子もなく、アリアは「いいえ! すっごく嬉しいです!」とさらに重ねた。


「お洋服を買うなんて初めてで……! わたしも夫人やお姉さまのように、美しくて気品ある貴婦人になりたいんです。あの、もしよければ、いっしょに選んでいただいてもいいでしょうか……?」


 おずおずと申し出るその様は、非現実的なまでに可憐だった。


 エミリエンヌは扇で口元を隠し、「言われるまでもなくてよ」とツンと答えた。


「ドレスだってタダじゃないもの、庶民のセンスに任せて悪趣味な服を買われたらたまらないわ。当然、わたくしが選ぶのよ」


 冷たい物言いの奥で、扇に隠れた口元がこらえきれずにゆるんでいるのを、メラニーは確かに見たのだった。


(よかったですね、お嬢さま……!)


 少しだけ目頭が熱くなる。


 今日、少なくとも一つ、世界がアリアに優しくなったのだ。

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