63 シャンディガフ
セツナと川崎が去った脩斗の店。そろそろ来る頃かな、と脩斗はスマホで時間を確認した。夜九時だった。予想通り、扉が開いた。
「やっほーシュウさん」
「いらっしゃいませ、千波さん」
「あれ、今夜は私だけ?」
「今はそうです。さっきまでは常連さんがいらっしゃいました」
と脩斗は言ったものの、ただでさえ分かりにくい場所にある店だ。二回以上来ている段階で、千波も充分常連と言えよう。彼女はもう十回以上、この店を訪れていた。しかも、達己の居ない日を見計らって。
「何にしますか?」
「いつもどおり、ビールベースのカクテル。何でもいいよ」
「かしこまりました」
千波は長い茶髪を今夜はおろしていた。それをかきあげ、タバコを口にくわえた。
「どうぞ。シャンディガフです」
「あっ、これ好き!」
「この前もそう仰っていましたからね」
達己や他の常連の知らぬ間に、脩斗と千波の距離は近づきつつあった。千波の口調は砕け、話す内容もねちっこいものになっていた。
「それで、いつになったらシュウさんは落ちてくれるのかな?」
紫煙をくゆらせながら、千波は小首を傾げた。
「またまた、千波さんってば……」
「もう、何回も言ってるのになぁ。やっぱり達己のお古は嫌なの?」
脩斗は咳払いをした。
「いえ、そういうわけでは」
「じゃあ、私自身に魅力が無いとか?」
「そんなことはないですよ? 千波さんはとても魅力的です」
千波は薄いデニムを履いた足を軽く組んだ。
「そろそろ、千波さんには打ち明けてもいい頃ですかね」
「えっ、なになに?」
身を乗り出した千波に、脩斗は語り始めた。
「僕は、誰かを好きになったことが全く無いんですよ。今までずっと。恋愛それ自体には興味はありますが、どこか遠い世界のことに思えてならないんです」
「……それは、何かきっかけとかあるの?」
千波はタバコを灰皿に押し付けて火を消した。
「両親と弟を、交通事故で一気に亡くしましてね。多分、その影響です。恋人であったり、家庭像であったり、そういうものを上手く描けないんです」
「そっか。悪いこと聞いちゃったね」
「いえ、いいんです。千波さんですから」
何度も通われ、口説かれる内に、脩斗は千波のことを信頼し始めていた。そもそも、達己が懇意にしている相手だというせいもある。それもあって、脩斗はハノンにしか打ち明けていなかった生い立ちを彼女に明かしたのだった。
「えっと、それじゃもしかして、セックスしたこと無いってこと?」
「ええ、そうですよ?」
脩斗は恥ずかしそうに目を伏せた。これは誰にも言っていないことだった。
「うーん、それは勿体ない! セックス、楽しいよ? もうこの店閉めちゃってさ
、今からラブホ行こうよ」
千波はそんな提案をした。冗談だった。
「……それもアリかもしれませんね」
「えっ、マジで?」
脩斗はネクタイを外し出した。彼は本気だった。
「いいですよ、千波さん。あなたが相手なら。経験豊富なんでしょう?」
「まあ、確かにね。でも、マジでいいの? マジで私で童貞捨てちゃうの?」
「もう僕もいい年ですから。このチャンスは掴みますよ」
一度脩斗はカウンターから出て、千波の右隣に座った。さすがの千波も、顔を赤らめていた。
「優しくしてくださいね?」
そんなことまで言われてしまっては、千波もやる気を出すしか無かった。千波はそっと脩斗の初キスを奪った。
「じゃあ、行こっか?」
「はい。着替えたらすぐ出ましょう」
店を出て、ただの男女になった二人は、ホテル街へと歩を進めた。場所なら千波が詳しかった。
「へえ……パネルで部屋を選ぶんですね」
「そういうこと。喫煙ルームでいいよね?」
「はい」
自分から言っておきながら、千波は心臓が破裂しそうだった。まさか本当に脩斗と二人でこんな場所に訪れるとは思ってもみなかったのである。
「私、先にシャワー浴びてくるね」
「どうぞ」
千波が頭を冷やしている間に、脩斗は所在なさげに狭い部屋をうろうろしていた。窓のところはどうなっているのだろう? と探ってみたり、ローテーブルの上に置かれたホテルの冊子をめくってみたりした。
「シュウさん、次どうぞ。バスタオルとかは全部出しといたから」
ガウンを羽織った千波がバスルームから出てきた。脩斗はシャワーを入念に浴びた。彼が出てくると、千波はベッドのふちに座っていた。
「ねえシュウさん」
「はい」
脩斗は千波の隣に腰かけた。
「してるときは、千波さん、じゃなくて千波って呼んで? 私も脩斗って呼ぶから」
「ええ、いいですよ」
「……脩斗」
「千波」
二人はそっと唇を重ね合わせた。そこからは、千波のリードだ。彼女は不慣れな年上の男性を、全身で受け止めた。
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