57 ずるいこと
いつかと同じ、酷い雨が降りしきる夜だった。開店直後に、一人の吸血鬼が現れた。アカリだ。脩斗はいつものように、暖かく彼女を迎え入れた。
「いらっしゃいませ。アカリさん」
「こんばんは、シュウさん。達己は?」
「九時から来ますよ」
「じゃあ、待ってようかな。とりあえずシュウさんの一杯で」
脩斗は赤い液体を垂らし、特別な一杯をアカリに提供した。
「ふふっ、ほっこりするなぁ」
「今日、弘治さんは?」
「また仕事。一人で居てもつまんなくてね」
雨音をBGMに、アカリは赤ワインを楽しんだ。そして、いつものようにスマホゲームを起動した。
「達己が来たら、僕は帰りますね」
「そうなの?」
「ちょくちょく休みを貰っておこうと思いまして。体力が資本ですからね」
夜九時。ぴったりに達己が来た。店の中に、アカリだけが居るのを見て、彼は大きく息を吸い込んだ。
「いらっしゃい、アカリちゃん」
「こんばんは、達己」
なるべく平静を装いながら、達己はカウンターに立った。
「さて、僕はもうあがりますね」
「そうなの? シュウさん」
脩斗は舞台を整えようとしてくれている。それが分からないほど、達己は鈍感ではなかった。だからなおのこと、鼓動が早くなった。
本当に脩斗が店を出てしまい、アカリと達己は二人きりになった。
「じゃあ、達己の特別な一杯を貰おうかな」
「かしこまりました」
もう、何度も同じことをしている。それなのに、達己の手は震えた。スマホに目を落としていたアカリは、それに気付くことは無かった。
「どうぞ。特別な一杯です」
「ありがとう」
さすがのアカリも、達己が口を一文字に結び、何も話し出そうとしないのを不審に思った。
「どうしたの? 達己」
「今夜は、アカリちゃんに伝えたいことがあるんだ」
達己は軽く咳払いをした。
「俺、アカリちゃんのことが本気で好きだ。パートナーになりたい」
アカリにとって、それはとても意外なことだった。遊び人の達己が、まさかそんなことを思っていただなんて、吸血鬼として何十年も生きていたにも関わらず、気付けなかったのだ。達己は続けた。
「弘治さんっていうパートナーが居るってわかってる。でも、その上で、俺はアカリちゃんを独占したい、俺の血だけで生きて欲しい」
「それは……この店を辞めてもいいってことだよね?」
念のため、アカリは聞いた。
「うん。もちろん。シュウさんにもこの話はした。それでも俺は、アカリちゃんのパートナーになりたい」
アカリは全身が強ばるのを感じた。こんな風に達己から真剣な眼差しを向けられたのは初めてだったからだ。そして彼女は、真摯に答えた。
「ごめんね、達己。あたしは弘治のことが大事だ。だから、達己の気持ちにはこたえられない」
達己にとって、それは予想していた答えだった。
「うん……やっぱり、そうだよな。でも、ごめんな? このまま想いを伝えないで、客とバーテンダーとしてやっていくの、無理だった。だから話した」
「そっか。うん。そっか」
アカリは目を伏せ、唇を噛んだ。
「……一体、いつからだったの?」
「自分の気持ちに気付いたのは最近。思えば、初めて俺の一杯を飲んでくれたときだったんじゃないかな。あのときのこと、俺、よく覚えてるんだ」
「キリッとしてるね、って言った気がする」
「そうだよ。その通り」
深い沈黙が二人を包んだ。我慢しきれなくなったアカリは、タバコに火をつけた。
「ごめんな? 一方的に、こんなこと言って」
達己はアカリから目をそらし、伸びた髪をいじった。アカリから吐き出される紫煙が、店内に充満した。
「いいんだよ。むしろ、打ち明けてくれてありがとう。このままだったら、達己もきっと苦しかったでしょう? あたしったら、何にも考えずにあんたの酔血飲んでた」
「うん。苦しかった。言えて良かった」
「……じゃあさ、ずるいこと言うけど。もし、弘治が死んで、それでもまだ達己があたしのことを好きなら、パートナーにならない?」
達己は目を見開いた。
「なんだそれ。ずるいな、吸血鬼って」
「そうだよ。ずるいの、吸血鬼はね」
「じゃあ、一度だけ、ずるいことしない?」
達己はそっと、右手をアカリに差し出した。彼が何をして欲しいのかくらい、彼女には分かっていた。
「それ、シュウさんに禁止されてるでしょう?」
「うん。だから、シュウさんには内緒」
「……あたしも、弘治には内緒だからね?」
アカリはかぷりと達己の人差し指にかじりついた。鈍い痛みに襲われたが、すぐにそれも止んだ。達己にとって、直接自分の血を吸わせるのは、これが初めてだった。
「ごちそうさま」
アカリは言った。ぺろりと舌なめずりをして、不敵に微笑んだ。
「ずるいことって、楽しいね?」
「うん、楽しいな?」
そうして男女は顔を見合わせて笑った。
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