53 ハイボール

 千波が帰ったのは、夜十時頃だった。この時間から、他の客の流れが来ることもあるが、その日はそうでも無かった。片付けも終えてしまい、すっかりやることの無くなった店内で、バーテンダー二人は立ち尽くしていた。


「暇だな」

「暇ですねぇ」


 達己はネクタイを緩めた。ポケットからスマホを取り出し、マッチングアプリに新着メッセージがあるのに気付いたが、無視した。このところ、他の新しい女性と出会う気にはまるでなれなかった。修斗が提案した。


「二人で一杯やりますか?」

「そうだな。ハイボール作るわ」


 お客に出すときとは違い、乱雑な手つきで氷を砕いた達己は、二杯のハイボールを作った。銘柄は、もちろんデュワーズだ。


「そういえば、達己。さっきの、気になるお客さんの話ですけど」


 達己は舌打ちをした。


「何さ、シュウさん。その話題もういいじゃないか」

「アカリさんでしょう?」


 沈黙が流れた。その沈黙こそが、肯定を表していることに気付いた達己だったが、もう遅かった。


「やっぱり。ずっと隣に居ますからね。分かりますよ、それくらい」

「ちぇっ、シュウさんには何でもお見通しかぁ」


 達己は大きな欠伸をした。


「一本、吸っていい?」

「どうぞ」


 タバコを取り出した達己は、それを二、三口吸うと、観念して話し始めた。


「アカリちゃんに飲んでもらうときが、一番幸せなんだ、俺。でも、彼女、もうパートナー居るし」

「……なるほど。それで悩んでおいででしたか」


 修斗はハイボールに口をつけた後、カラカラと中の氷を揺らした。


「このところ、それで達己はぐらついていたんですね?」

「分かってたの?」

「ええ。ほら、前にカズさんの店でも言っていたじゃないですか。仮に辞めたら困るかどうかって」

「ああ、あれな」

「少し、おかしいと思っていたんですよ。今全部、納得がいきました」

「そっか」


 吸い終えた達己は、灰皿にタバコを押し付けた。


「シュウさんにはちゃんと話すよ。俺、アカリちゃんのこと、本気で好きみたいなんだわ」

「みたい、というと?」

「自分でもびっくりしてんの。俺さ、誰かに本気になることなんて無いって思ってたから。その相手が、店のお客さんでさ。しかも、吸血鬼でさ」


 達己は客席に背を向け、カウンターに寄りかかった。そうして正面から向かい合うようになった彼らは、「これからのこと」を話し始めた。


「僕は、構わないといったはずです。達己が誰かのパートナーになりたいのなら止めません。遊びでなく、本気なんでしょう? ならいいですよ」

「うん。ありがとう。それでさ、俺、弘治さんには負けたくねーの。ほら、カケルんとこが三人でどうこうするかもしれないって言ってたよな? ああいう形は嫌なんだ。なるなら、唯一の存在になりたい」


 達己は一気にハイボールを飲み込んだ。


「なんか、こういう話してると酒足んねぇわ。もう一杯作ってもいい?」

「ええ、どうぞ」


 再びカウンターに向き直り、ハイボールを作った達己は、これまた早いペースで飲み込んでいった。それを見ていた修斗は、達己の髪を触りたくなったが、やめた。


「一度、正直に本音を打ち明けてみては? アカリさんに」

「ええ……。困らせるだけじゃないかな?」

「彼女は年上ですよ? 大丈夫ですよ、きっと」

「うーん、そうかなぁ……」


 夜の十一時になった。相変わらず客は来ない。修斗のグラスも空になった。


「こういうときは、カズさんの店にでも行きますか?」


 達己はそれを拒否した。


「いや。ここがいい」

「じゃあ、閉めて客席で飲みませんか?」


 修斗は一度扉を出て、札をかけ、中から施錠した。達己はもう、客席に座っていた。


「なんか、久しぶりだな、こういうの」

「ええ。最近は、お客さまが多かったですからね」


 二人は改めて乾杯した。ぽつりぽつり、と達己が語りだした。


「アカリちゃんに、初めて特別な一杯を飲んでもらったときのこと、よく覚えてるんだ。今でも、あのときのことを思い出すと、嬉しくなる」

「そうですか。僕には無いですね、そういう感覚。どの吸血鬼さまに飲んでもらっても、嬉しさは変わらないですから」


 達己は指で灰皿を引き寄せ、タバコに火をつけた。


「アカリちゃんは、俺のことなんて、どうも思ってないんだと思う。けど、このままじゃまともに接客できそうにない」

「それは、僕としても困りますね」

「……うん。やっぱり言うわ。言って、スッキリさせる。玉砕したら、それはそのとき。でも、お客さんとしてここに通ってもらえるような言い方はするから」


 とんとんと灰を落としながら、達己は修斗の顔を見た。いつもと変わらない、柔和な表情だ。それでこそ、うちの店主マスターだ、と達己は思った。こんな彼の店だからこそ、達己はバーテンダーとして働いている。


「もし成功したら、ここを卒業ですね」

「それも寂しいな。俺、シュウさんに大切なパートナーって言ってもらえたのも嬉しかったしさ。この店を辞めるのも嫌なんだ」


 そして二人は、思い出話を始めた。まだ達己が入ってから間もない頃のことを。夜はどんどん更けていき、飲み干したハイボールの数も増えた。達己はこの夜、覚悟を決めた。

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