52 カシスビア
ヒカルと桃音がパートナーとなった翌日。達己は頭痛を薬で抑えながらカウンターに立っていた。
「大丈夫ですか? 無理は禁物です。今日は帰ってもいいんですよ?」
「いや、いい。大丈夫だから」
こめかみを押さえ、深いため息をついた達己は、昨夜のことを思い返した。ヒカルと桃音は、シャンパンを一杯飲むと帰ってしまい、残ったハノンと冬馬が、やけにご機嫌な様子で酒を飲ませてきたのだ。
「どうせ今日も暇でしょ。平日だし」
「そうですねぇ。来ても常連さんくらいでしょうか?」
しかし、彼らの考えは外れた。ここに初めて来るお客が現れたのだ。
「いらっしゃいま……千波!?」
「やっほー達己。来ちゃった」
千波は長い髪を一つに束ね、背中に一本の房を垂らしていた。
「いらっしゃいませ。達己のお知り合いですか?」
「はい。達己のセフレです」
「ちょっ、お前なぁ」
「だって本当のことじゃない」
慣れた様子でロングコートを脱ぎ、修斗に預かってもらった千波は、真ん中の席に陣取った。
「本当に、わかりにくい場所にあるんだね。名刺貼ってなかったらわかんなかった」
「まさかマジで来るとは思わなかったよ」
達己は千波におしぼりと灰皿を差し出した。ハンドバッグからタバコの入ったポーチを取り出した千波は、それをカウンターの上に置いた。
「どうしようかな。いつも、ビールとかしか頼まないけど……。せっかくなら達己に作ってもらおうっと。ビールがベースのカクテルって何かある?」
「んー、カシスビアは? ちょうどカシスの瓶があと少しなんだ。消費するの手伝って」
「じゃあそれで」
達己がカクテルを作っている間、千波は修斗に話しかけた。
「達己、使えます?」
千波が達己を指差した。
「ええ、よく働いていただいてますよ。いつも助かってます」
「そうですか。シュウさんの話は、達己からちょくちょく聞いてますよ」
「何か余計なことまで話していませんか?」
口角を上げた千波は、小首を傾げた。
「恋人が居ないとは聞いていますよ?」
「ええ、居ません」
そのとき、カクテルが出来上がった。
「どうぞ。カシスビアです」
「いただきまーす。……うん、美味しい」
千波はタバコに火をつけた。吸いながら、ぐるりと店内を見回した。
「落ち着く空間ですね」
「ありがとうございます」
「私、ここに通い詰めちゃおうっと。落とし甲斐のあるイケメンマスターも居るしね?」
「おい、やめろよ千波。シュウさんも、こんな女、やめといた方がいいよ?」
修斗は達己と千波の顔を交互に見ると、苦笑した。
「お二人とも、仲がよろしいんですね」
「シュウさん、今のやり取りのどこが仲いいんだよ」
「そういうやり取りができる間柄、羨ましいですよ?」
心底修斗はそう思っていた。千波の存在は、何となく達己から聞いていたが、実際に彼らが話すのを聞いていると、気の置けない関係を自分が築けないのが情けなく思えてきた。
「じゃあ、そういう間柄、私と目指します?」
「グイグイいくなぁ、千波」
「さあ、どうしましょうか? 僕たち、まだ出会ったばかりですしね」
千波はカウンターに肘を乗せ、頬杖をついた。彼女の瞳は黒っぽく、湿り気を帯びていた。本当に綺麗な女性だ、と修斗は思った。
「千波さんも、決まった恋人を作らない主義ですか?」
「うん、そう。でも、シュウさんと付き合ったら、他のは切るよ? それくらい、魅力的だもの」
「だーかーら、シュウさん狙うのやめてくれる?」
達己はカウンター越しに千波の頭を拳で小突いた。ちろり、と舌を出して、千波は頬杖をやめ、背もたれに深く寄りかかった。
「そういえば、シュウさん。達己、気になるお客さんが居るらしいんですけど、誰の事か知ってますか?」
「おい、余計なこと言うなって」
達己は唇を突き出し、修斗の顔を見た。
「こいつの言うこと、本気にしないでね? いつもこんな調子だから、キリないよ?」
「気になるお客さん、ですか。初めて聞きましたねぇ」
ニヤニヤと笑う修斗に、達己はたじろいだ。どうもこれは、逃げられそうにない。
「達己、どうやら今度は本気らしいんですよ。彼氏持ちだとは聞いてます」
「ほほう。それじゃあ、誰でしょう? 女性のお客さまは数多くいらっしゃいますから」
「もう、千波もシュウさんも、その話やめてくれる?」
達己は修斗の足を踏んづけた。
「いたっ」
「全部こいつの冗談だから。真に受けないでよね」
しかし、実際に気になる女性というのは居るのだろう。修斗にはそれが分かった。そして、大体の見当もついていた。だが、ここでその名を出すことはしなかった。
「それより、千波さんのことを教えてくださいよ。お仕事は何を?」
「ああ、大学で事務やってます。大体定時で上がれるので、楽な仕事ですよ」
それから、しばらく千波の仕事の話になった。酒がそう強くない彼女は、カシスビア一杯で帰っていった。
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