34 始まり
その日ハノンは、普通のお酒が飲みたくなって、フラリと「
「どうぞ」
「ありがとう。あなたはバイトの子?」
「はい、そうです。修斗といいます」
「よろしくね。いくつ?」
「二十九歳です」
「そっかぁ、若いね」
その時の修斗は、自分よりも年下に見えるスーツ姿の男性が、そんなことを言うのが不思議だった。幼く見えるだけで、実は自分よりもっと年上かもしれない。そういうことが、この店に入ってから多々あった。
「お客さん、うちは初めてですよね?」
一博が聞いた。
「うん、そうだよ」
「俺が一応、店主の一博です」
その時の一博は、まださほど白髪が目立っていなかった。ハノンのような端正な顔立ちをした男性は、彼の長いバーテンダー生活でもそうお目にかかるものでは無かったので、モデルか何かをしているのかもしれないと彼は思った。
「一博に、修斗ね。ボクはハノン」
すでに冬馬というパートナーが居たハノンだったが、修斗の血の香りにどうしても惹き付けられてしまった。
それで、ハノンはこの店の常連になった。
「……そっかぁ。独立したいんだ?」
一博の店に通い始めてから三ヶ月後。修斗のみが居るときに、ハノンはそんな話を聞いた。外は激しい雨が降っており、他のお客は居なかった。
「この店に入ったときから、ずっと思っていたんですけどね。自分の店を持ちたいと」
「立派なことだよ。アテはあるの?」
「ええ。ただ、コンセプトとか、そういうのが決まらなくて。カズさんのコピーじゃいけませんしね」
他に誰も居ない。ハノンは思い切って打ち明けた。
「変な話するけど、いい?」
「はい、どうぞ」
「ボクね、吸血鬼なんだ」
「……はい?」
突然の暴露に、修斗はついていけなかった。しかし、この三ヶ月の間で、ハノンが妙な冗談を言うタイプでは無いことが分かっていた。今夜はお酒もまだ進んでいないのに、どうしてそんなことを言うのだろうと修斗は首をひねった。
「本当だよ。それでね、修斗は酔血っていって、特別な血の持ち主なの。たった数滴でボクたち吸血鬼を満足させられる。そういう血」
「またまた、ハノンさんってば……」
「血、吸わせてくれる? そしたら分かる。ボクの瞳が赤く濁るからさ」
半信半疑ではあったが、修斗は右手をハノンに差し出した。人差し指にかじりつかれ、少し痛みを感じたものの、みるみる内に変貌していくハノンの瞳に驚愕し、指を引っ込めた。
「待って、まだ。傷口、塞ぐから」
ハノンは無理やり人差し指を舐めた。すると、すうっと傷が無くなり、元の皮膚に戻った。
「本当、なんですね」
「そう。修斗、タバコ吸うんだね? でも食生活はけっこう気をつけてる。そんな感じの血だったよ」
こうなってはもう信じるより他はない。修斗は吸血鬼が酔血について話すのを大人しく聞いた。
「それじゃあ、この血を持つ人間は本当に珍しいってことなんですね?」
「そうなんだ。ボクに今パートナーが居なければ、迷わず口説き落としてたところだよ」
パートナーについての説明も、ハノンはした。しばらく考え込んだ修斗は、こんなことを言った。
「じゃあ、まだパートナーが居ない吸血鬼さまに向けて、血を提供するというのはどうなんでしょうか?」
「えっと、それって?」
「はい。例えば、赤ワインに混ぜて出すとか」
「……それは、アリかもしれない」
そして二人は、脩斗の店について構想を描き始めた。吸血鬼も立ち寄れるショットバー。席数はここと同じくらいで十席。立地は分かりにくいところでいい。
「吸血鬼のお客さまなら、ハノンさんに紹介してもらえばいいですしね」
「そういうこと。開店したら、うちの娘にも言っておくよ。ああ、娘っていうのは、吸血鬼のって意味でね……」
その時初めて、脩斗はアカリの存在を知った。難病で苦しんでいた彼女を見過ごせず、自分の子にしたのだと打ち明けられた。
「吸血鬼にとっても、子を作るというのは命懸けなんですね」
「そうだよ。ある意味、普通の出産と一緒。身体中のほとんどの血を吸わせないと、吸血鬼にはできない」
「それだけ、そのアカリさんという方を大事に思っていたんですね」
「そうだよ。もう二度とはやらないだろうね。アカリを一人前に育てるまでも時間がかかったし」
「子育てということですか」
「うん。そういうこと」
最後にハノンは、こんな質問をした。
「ところで、店の名前はどうするの? 何かつけたいものでもある?」
「それが、さっぱりなんですよね。そういうセンスが僕には無くて。横文字にはしたいんですけどね」
「Raining、なんてどうかな? ほら、今酷い雨だし」
「それ、頂きます」
これが、脩斗の店の始まりであった。
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