09 烏原と羽坂

 その日は脩斗のみがオープンに向けて準備をしていた。軽くカウンターを拭き終わり、おしぼりの数を点検していたところに、扉が開いた。まだ開店前なんですが、と言おうとしたが、現れた二人の顔を見て、脩斗は顔を引き締め、ネクタイを整えた。


烏原からすはらさん、羽坂はさかさん」

「どうも。少し早かったですかね?」

「ええ。まあ、構いませんよ」


 黒いスーツに身を包んだ二人組は、真ん中の方の席についた。一年ぶりの来店だったが、脩斗は正しく彼らの名前を覚えていた。


「バーに来て何も頼まないのも無作法でしょう? ビールでも貰いますよ」


 烏原が言った。彼と羽坂は名字が違うが、兄弟のようによく似ており、脩斗は「よく話す方が烏原」という認識をしていた。

 脩斗が二人にビールを差し出すと、早速烏原は本題に入った。


「派手な動きをしている女が一人居ましてね。モザイクはかかってるけど、この女。見覚えありませんか?」


 烏原が見せてきたスマホの画面には、風俗店の女性の紹介画像が表示されていた。言われた通り、顔にはモザイクがかかっており、唯一分かるのは金髪でショートヘアーの女だということだけだった。


「いえ、ありません」


 脩斗には本当に覚えが無かった。こういう髪型の女性客は、最近訪れていなかった。


「そうですか。シュウさんも気を付けて下さい。デリヘルの客を次々と襲っている奴なんですよ」


 烏原と羽坂は、早いペースでビールを飲んでいた。元々長居する気など無かったのだ。

 そこへ、達己がやってきた。開店時間直後に席についている二人のことを、彼は知らなかった。しかし、脩斗の表情が厳しくなっていることで、ある程度のことを察した。


「ああ、達己。こちらは烏原さんと羽坂さんです。一応、彼にも確認させましょうか? うちのアルバイトなんです」

「頼む」


 烏原は同じようにスマホの画面を見せたが、達己にもその女が誰か分からなかった。


「あのう、もしかして……」


 達己は遠慮がちに小さな声を出した。


「ええ、達己。彼らは研究所の方ですよ」


 笠松かさまつ研究所、というのが、烏原と羽坂が所属している組織であった。昔は吸血鬼の討伐のための組織だったが、現在は吸血鬼との共存を理念に掲げ、活動している。

 達己はその研究所の存在を、脩斗から聞いてはいたが、こうして本人たちに会うのは初めてのことだった。


「それで、その吸血鬼を見つけたらどうするんです?」


 達己が聞いた。答えたのは羽坂の方だった。


「最悪、討伐です。話し合いの時間は設けますけどね。それに応じないようでしたら、やむを得ません」


 達己の印象では、羽坂の方が柔和なように見えたのだが、討伐という厳しい一言に、彼は身構えた。


「該当する吸血鬼が現れたら、ぜひご協力を」


 烏原はそう言って、ビールグラスを傾け、中身を一気に飲み干した。それを見て、羽坂も同じ事をした。脩斗は会計の準備を始めた。


「営業の方はどうなんですか、シュウさん」


 財布を取り出しながら、烏原が聞いてきた。


「おかげさまで、お客さまには恵まれていますよ」

「それは、吸血鬼にという意味で?」

「人間のお客さまもですよ、烏原さん。たまには仕事外でもお越しくださいね?」


 にっこりと微笑む脩斗の顔を見て、達己だけはそれが作り笑いだとすぐに分かった。

 烏原と羽坂が出ていくと、脩斗はふうっとため息をついた。


「シュウさん、お疲れ」

「ええ、緊張しましたよ。いつもいきなり来られるものですから」


 脩斗は腕を組み、ため息をついた。


「写真の子、俺は本当に知らないんだ。シュウさんは?」

「僕も知りません。けれど、それで良かったです。うちのお客さんじゃなくて」


 そう言い終わった脩斗は天井に両腕を突き出し、軽く伸びをした。そんな風にリラックスする様子を見せたのは、この場に達己しか居ないからであった。


「さて、切り替えましょうか。あの写真の子のことは忘れましょう。どのみち、今の時点ではうちとは関係ないことですし」


 脩斗はいつも通りの柔和な笑顔を見せた。


「そうだね、シュウさん。今夜は普通のお客さんがよく来そうな感じがする」

「おや、達己にもそういう勘が働いてきましたか?」

「まあね。忙しくなる前に、一本吸ってもいい? 俺もなんだかどっと疲れたよ」


 達己はタバコを取り出した。


「いいですよ」


 達己の勘通り、人間のお客がよく来店した一日だった。その代わり、吸血鬼は来ず、普通のショットバーとして彼らは働いた。

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