07 石井冬馬

 ハノンはふらふらとした足取りで、パートナーである石井冬馬いしいとうまの待つ部屋へ入って行った。彼と住むマンションは、リビングの他に部屋が二つあり、一つが寝室、もう一つが冬馬の仕事部屋になっていた。


「ただいまぁ」


 時刻は夜の一時になっていたが、冬馬はまだ起きていた。


「おかえり、ハノン」

「えへへ、飲みすぎちゃったぁ」


 あの店に行くといつもこうなる。なので冬馬は、ハノンの酔いつぶれた様子にはすっかり慣れっこだった。冬馬は彼のか細い身体を支えてやりながら、寝室まで連れて行った。


「楽しんできたようで何よりだ」

「うん、今夜はアカリも一緒だったからね」


 ベッドに横たわり、ろれつの回らない舌で、ハノンは今夜の出来事を冬馬に話し始めた。


「喧嘩か、懐かしいな。オレとハノンもよくやった」

「そうだねぇ。あの頃はまだ冬馬も若かったし……」


 冬馬は現在三十五歳。ハノンとの付き合いは、十年以上前からである。ハノンにとって、その期間はごく短いものだったが、冬馬にとってはそうではない。大人になってからほとんどの時間を、彼に費やしているのである。それは冬馬にとって、幸福なことであった。


「ねぇ冬馬、血ぃ欲しいなぁ」

「もう今夜はやめておけ。明日に響くぞ」

「ケチぃ」


 ハノンは拳を突き出し、ぐりぐりと冬馬の頬に当てた。

 本当は冬馬だって、ハノンに血を分け与えたかったが、酷い二日酔いに苦しむ彼を何度も見ているので、自分から制しておいた。冬馬は短く刈り込んだ自分の髪をさすりながら、ハノンに聞いた。


「今度はオレと一緒に行くか? それなら飲みすぎないだろう」

「ああ、いいねぇ。そういえば、冬馬と一緒に修斗の店に行ったことって無かったんだっけ……」


 ハノンの口からはよだれが垂れていた。冬馬はそれをティッシュで拭いてやり、彼の額を優しく撫で始めた。


「もう、冬馬ってば寝かせようとしてる?」

「そうだ。もう寝ろ」

「やだぁ」


 ハノンはむくりと上半身を起こし、ベッドの脇に立つ冬馬を見上げた。冬馬は背が高く、威圧的な印象を与えがちだ。しかし、性格は至って温厚で、酔っぱらって帰宅した吸血鬼に対してもとても優しいのであった。


「ねえ、冬馬の話聞かせてよ。今日は会社の人と飲んできたんでしょう?」

「ああ、そうだが……そんなに面白いものでもないぞ?」

「本当に? 若い女の子の匂いがするよ」


 アカリがハノンに正直なように、冬馬も彼には隠し事ができない方だった。


「入ってきたばかりの新人だ。正直、可愛かったな」

「冬馬がそう言うんだから、相当のべっぴんさんだね?」


 冬馬はハノンとパートナーになってから、人間の女性とは誰とも付き合ったことが無かった。決してモテない部類ではないのだが、在宅勤務が多く出会いが少ないこと、そして何よりハノンのための酔血持ちでいたいがために、彼は恋人を作りたがらなかった。


「ボクは別にいいんだよ? 冬馬だっていい歳なんだ、結婚とか考えてもさ」

「オレは独身なのが気に入ってるんだよ」

「そう言って、後悔させてきたパートナーが何人も居るんだよぉ……」


 再びベッドに倒れこんだハノンは、すぐさま寝息を立て始めた。冬馬は彼の身体にブランケットをかけてやり、電気を消した。

 それからなかなか、冬馬は眠れなかった。なので台所に立ち、ドリップコーヒーを作った。どうせ明日は休みだ、夜更かししても大丈夫だった。リビングのソファに座り、彼はゆったりとコーヒーを味わった。

 そして、ハノンのセリフを思い返していた。冬馬は本当に、このまま独身でもいいと考えていたのだが、もう少し歳を取れば、その考えも変わってしまうのかと思えてきた。

 ハノンは言った。「後悔させてきたパートナーが居る」と。彼の生きてきた年月を、冬馬は知らない。しかし、相当な年数を重ねてきたであろうことは、これまでの付き合いでよく感じ取っていた。

 ふと、冬馬はスマホに目を落とした。数時間前にラインが来ていたことに、彼は気付いていなかったのだ。それは、今日会った新人の女の子からのメッセージだった。そういえば、帰り際に連絡先を交換していたな、と彼は思い出した。


『今日はありがとうございました! また飲みに行きましょう!』


 至って簡素な定型文。こちらも定型文で返すべきだろうが、時間も時間だ。また明日、折を見て返信することに決めた冬馬は、コーヒーを口に含み、寝室でいびきをかいて寝ている吸血鬼のことを思った。


「そろそろ考えるべきか」


 そう独り言を言った冬馬は、自分のかすれた声に苦笑した。ダメだ、眠れないが疲れてはいる。寝室にあるベッドはダブルサイズだったが、ハノンを真ん中で寝かせてしまったので、自分の入る隙は無さそうだった。

 今夜はこのまま起きていようか。そう思った冬馬は、戸棚からDVDを取り出した。ハノンもお気に入りのSF映画だ。もう繰り返し何度も観ているが、こんな夜には丁度いい。

 DVDを再生した冬馬は、ソファに寝ころんだ。冒頭のアクションシーンが目に眩しく彼には思えた。そして、一時間ほど経った後、彼も安らかな眠りについてしまっていた。

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