02 アカリ

 アカリはタバコを吸いながら、丹念に赤ワインを舌で転がした。雨が一層激しく窓ガラスを打っていた。


「この分じゃ、普通のお客さんも来そうにないね」


 そうアカリが言うと、修斗は苦笑いをした。そうした表情さえ様になるほど、彼の顔立ちは整っており、白いシャツと黒のネクタイ、黒いベストは非常に彼に似合っていた。


「そうですね。本日は吸血鬼さまのみの予感がします」


 修斗の勘は大抵当たっていた。こんな日は、アカリのように「特別な一杯」を求める客しかわざわざ足を運ばない。ここはそういう店なのだ。

 アカリは「人間をやめて」から六十年ほどが経った吸血鬼だ。髪は黒く長く、ストレートにおろしていた。その瞳はこげ茶色で、一見普通の若い女性にしか見えないが、吸血をするときだけは、赤く濁った色を瞳に浮かべるのだった。

 一方の修斗は、元々の色である栗色の髪に、明るい茶色の瞳をした三十五歳の「普通の人間」。バーテンダーとして独立してから五年になる。しかし、少しだけ普通と違うのは、彼が「酔血すいけつ持ち」であることだ。

 吸血鬼はその名の通り、人の血を吸って生きている。中でも、酔血と呼ばれる特別な血は、吸血鬼にとってアルコールのようなもので、ほんの数滴でも満足できるのだ。


「今日、達己たつきは?」

「九時からです。僕もラストまで居ますけどね」


 この店唯一のアルバイトである荒田達己あらたたつきは、今夜は遅番だった。どうせ長居する予定なのだ、とアカリは思った。このまま二時間ほどは修斗と二人で静かに過ごし、若いのが来たら愚痴を始めようと彼女は心に決めた。


「最近、他の吸血鬼って来た?」


 アカリがそう聞くと、修斗は視線を左上に上げた。


「常連さんはちょくちょく来られますよ。アカリさんは久しぶりですよね」

「うん。三ヶ月くらいは来てなかったかな」


 吸血鬼であるアカリが、そんなに頻繁にこの店に来ないのには、理由があった。彼女には既に、酔血持ちのパートナーが居るのだ。普段はその彼に血を分けてもらっているので、こうして店に来ずとも血を補給できるというわけだった。


「シュウさんの血、やっぱり優しくて好き」

「そう言って頂けると嬉しいです」

「やっぱりさ、人柄が出るんだよ、血にもね」


 ワイングラスを傾けながら、アカリはそう言った。


「他の方もそう仰いますね」

「まあ、人間には分かんないだろうけどね、こういう感覚」


 もう一口、赤ワインを口に含むと、アカリは眉根を下げた。


「彼と何かありました?」

「そんなところ。達己が来たら話すよ」


 それから、修斗の勘通り、一人の客も店に現れることは無かった。雨足は徐々に弱まっていき、控えめに流れるジャズだけが二人の耳には聞こえていた。

 しばらくの間、二人は何も話すことも無く、めいめい好きなことをしていた。アカリはスマホでゲームを始め、修斗はグラスを磨き始めた。こうした沈黙こそが心地いいとアカリは考えていた。酔血が飲めるだけではない。この店の雰囲気そのものを、彼女は気に入っていた。


「もう一杯、どうですか?」


 アカリのグラスが空になったのを見て、修斗が声をかけた。


「お願い」


 修斗には、バーテンダーとしての勘もしっかりと備わっていた。きっとアカリは、今夜は飲み明かしたい気分に違いない。そう思って次の酒を勧めたのだった。


「はあっ、やっぱりホッとするなぁ」


 小首を傾げ、ゆったりと目をつむったアカリは、吐息を漏らした。修斗は「彼とのこと」が気になりつつも、彼女の宣言通り、達己が来るまでその質問は寝かせておくことにした。彼女がこの店に来るようになってから、もうずいぶん経つが、こんな風に疲れた様子で来ることは初めてだったのだ。


「ずいぶんお疲れのようですね」

「まあね。シュウさんは元気そうで良かった」

「おかげさまで。達己も頑張ってくれていますし、彼に任せて休みを貰うことも多いんですよ」

「そっか。達己だけの日もあるんだ?」

「そうですよ。普通のお客さま相手でも、彼はやっていけますからね」


 修斗は一年前からこの店で働くようになった達己のことを思った。彼は二十三歳とまだ若いが、仕事を覚えるのが早く、入店して三ヶ月が過ぎた頃にはすでに、大体のことを任せられるようになっていた。


「あっ、噂をすれば」


 扉が開いた。そこには、脩斗と同じ服装をした、痩せ型で黒髪の男の姿があった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る