第26話 疑心暗鬼




「おはよう。かぐやさん、知らない?」


 顔を合わせた早々、柴にかぐやのことを聞かれた美咲は、嫌な気がした。


 大学へ来るなり、望たちにゴシップ誌を見せられて波風が立っていたところだ。柴のアパートから出てくるかぐや、すぐにこれはかぐやの仕業だと気づく。


「柴さん、もう、かぐやとヤッちゃってるんじゃない?」


 望が面白がって卑猥な言葉を投げかけた。


 まさかとは思うが、心配で柴に確かめずにはいられなかった。


「知らない。それより、雑誌に書いてあることだけど……」


 美咲は朽木の持つ雑誌を指差した。


「あー、これ?なんでもない事なんだ」


「なんでもないのは分かっている。かぐやの仕組んだことだというのもね。だけど、本当に大丈夫?」


「大丈夫って何が?」


 美咲は、自分でも驚くほど嫉妬心を抱いている。


「かぐやはこれからもいろいろと仕掛けてくるはず……信じてもいいのよね?」


「もちろんさ」


 美咲には柴の言葉が空々しく聞こえた。


 もちろん本気で言ってることはわかっている。でも、かぐやの魔力に逆らえる男がいるかどうか……敵の力を最大限に評価していた。


 それに以前の柴なら、怒るかバカバカしいと鼻で嗤うかしていたはずだが、反応は想像していたものと違っていた。


 しかし、恋人を疑るほど愚かなこと自分を戒める。


「ごめんなさい、疑っているみたいに聞いてしまって。……でも、心配なの。かぐやがどんな手段に出るか」


「君の気持ちはわかるけど、ボクは大丈夫だし、それに君はなぜ、そんなにもかぐやの存在を気にしているのかわからないよ」


「それは……」


 そういえば柴はかぐやが結婚したがっていることは知っているが、タイムリミットがあるのを知らない。かぐやは必ず何か仕掛けてくる。柴のハートに射止めようとあらゆる手段を使ってくるだろう。


「お前も鈍感だな」


 美咲が言い淀んでいると、朽木が割って入った。


「それぐらい、察してやれよ」


 かぐやのタイムリミットの話をするタイミングを失った。


「……今日の夜は空けておいて。その時、話そう」


 柴が言った。


「分かった」


 美咲はその時、話せばいいと思った。





 次の講義へと向かう途中、望たちに会った。


「彼とはどうだった?」


「うん……まあね」


 美咲は曖昧に微笑んだ。


「それは良かった。でも、気をつけた方がいいわよ。男は目を離した隙にすぐに浮気をするから、ねえ? 」


 望は、付き添いの友人たちに同意を求め、友人たちも頷く。


「ちゃんと見張ってないと。特に相手はかぐやなんだからさ」


 そう言うと、望は友人たちを引き連れて行ってしまう。一人、麻美が残って美咲に近づいた。


「望、あなたを揶揄って面白がってるだけだから、気にしない方がいいわよ」


「わかってる」


 しかし、今は望のつまらない野次馬根性などどうでもよく、かぐやの出方に頭がいっぱいであった。


 その日の午後は、なんだかちょっと疲れたので、講義をやめて一旦家に帰ることにした。


 季節は梅雨の終わり。蒸し暑く、日差しが強くなり、体がだるい。それでなくとも心労が溜まっていた。


 美咲は部屋に入るとベッドに横になり、すぐに寝てしまう。





 目が覚めると部屋の中は暗くなっていた。ボーっとした頭の中で、ふと柴の約束を思い出した。慌てて目覚まし時計を見ると、時刻は午後七時を回っていた。


「やばい」


 すぐに起きて、スマホの画面を見る。 


 柴からの着信があると思っていたスマホの待ち受け画面は、冷たく待ち受け画面が映し出されていた。


 そういえば着信があれば気づくはずだと思いだした。急に切なさが襲ってくる。


 スマホを持って立ち尽くし、柴に連絡を入れようかと躊躇った。嫌な予感がよぎる。


 目覚めのぼやけた頭に残る嫌な夢の断片のような、言い表せない感情が襲ってくる。美咲はゆっくりと柴の電話番号を押した。


 待つ間、美咲の脳は目覚めていき、心臓は激しく脈打った。


「ああ、美咲ちゃん?」


 柴の声は意外に明るかった。


「ごめん、家に帰って眠っちゃって。今どこ?」


 背後が騒がしい。どうやら居酒屋のようだ。


「今、飲んでいるんだ。ごめん連絡するの忘れてた」


 柴は相当酔っているようだ。


「誰と飲んでるの?」


 美咲には、それが一番気に掛かる。


「茶道部の後輩たちが、送別会を開いてくれてさ、サプライズで。本当に良い奴らなんだよ。君もおいでよ」


 ホッとして思わずため息がでる美咲。


「そう。……私は場違いだからやめておくよ。それより楽しんできて」


「本当に?ごめんね、連絡しないでさ。埋め合わせはするから、じゃあ」


「わかった、それじゃおやすみ」


 電話を切ると、ホッとしたのもつかの間、何となく腑に落ちない。連絡の一つもよこさないで、後輩と飲みに行くなんて……。


「でも、まあ、いっか」


 最悪な状況も考えていただけに、何事もなくて良かったと思う方が先に立つ。


「さてと」


 予定がキャンセルとなり、空いた時間で勉強でもしようと机に向かう。静かな部屋で、パソコンを開き電源を入れた瞬間、ふと、ある思いがよぎる。


 急にもたげてきた不安、かぐやがこのまま引き下がるはずがない。


(もしかして、居酒屋にかぐやがいたかもしれない)


「バカバカしい」


 自分の思いを打ち消して、パソコンに向かうが集中できない。


(もう一度、電話してみようか?でも、何て言えばいいの?)


 止めどなく湧いてくる妄想、不安、恐怖……。


(彼は酔うと前後不覚になるし、酔った勢いで、なんて……)


 かぐやが言っていたタイムリミット、子供を二十歳までに産みたいってことは、つまり子供が先で結婚が後ってこともあり得るではないか。


 少し前までの絶対的自信はすっかりと消え去り、今は感じたことのない不安、焦燥感が美咲を襲い、部屋にじっとしていられなくなる。


 美咲は部屋を飛び出した。





 茶道部の飲み会といえば、以前、柴に誘われて入った雑居ビルの地下にあった『プライム』だと思い、行ってみるが今日は休みであった。


 大学の近くにある居酒屋を手あたり次第に覗くが、柴たちの姿はない。一時間ほどして、ついに我慢しきれなくて、柴に電話をしてみる。


 呼び出し音が耳の中に鳴り響く。


「10回……20回……30回……」


 美咲は電話を切った。長く思いため息が零れ落ちる。何度、チャンスを逃せば気が済むのか?何回、気が付けば改められるのかと自分を呪った。


 美咲は最後の望みとして、柴の部屋に向かった。





 時刻は午前零時を回っていた。


 柴のアパートは大学近くの学生を専門とした街の一角にある。普段は夜出歩く学生が目につくが、今夜は水を打ったように静かであった。空気は湿り気を帯び、熱帯夜である。


 柴の部屋の呼び鈴を押してみるが返事がなかった。


 予想していたこととはいえ、やはりがっくりとくる。


 二階の一番奥の部屋なので住人とすれ違うことはないが、それでも心細さを感じて壁に張り付くようにしゃがみこんで柴を待つことにした。


 どのくらい待っていただろう?


 時折かける電話に柴が出ないまま、小一時間ぐらい経った時、アパートの下で人の気配がした。


 そして、足音が上がってきて、同時に美咲の心臓も高鳴る。


 足音は二つあった。踵の厚いヒールの音が、一際大きく存在感を示すように鳴り響く。


 アパートの電灯を映し出された寄り添う二つの影に、美咲の心臓は鉈でパックリと割られた気分であった。


 逃げ出したいとは思ったが、二階の突き当りの部屋だ。通路は一つしかない。すぐに柴と、腕を絡め寄り添うかぐやが美咲に気づいた。


「どういうこと?」


 第一声が口から勝手に出た。恐怖と動揺、怒りと悲しみが入り混じったような不思議な感覚が襲ってくる。


「違うんだよ、これは」


 柴は明らかに動揺していた。かぐやは勝ち誇ったように笑みを浮かべている。


「何が違うのか、ちゃんと説明して」


 美咲は押し殺したような声で訊いた。


「いや、さっき、かぐやさんにマスコミに追いかけられて怪我をしていたんだ」


「それで?」


「で、こうして家まで連れて帰ったった……」


 自分でもおかしな説明をしていると気づいたのか、柴の声が小さくなる。


「そんなのタクシーに乗せて、さよならでいいじゃない。ちょっとかぐや、いつまでそうしている気?」


「ごめんなさい、前に痛めた足をまた挫いてしまって……」


 とかぐやは離れる様子もなく、柴の腕に自分の腕を絡めたままだ。


「そんな見え透いた手に何度も引っかかるなんて、あなたってよっぽどお人好しよね?」


 怒りのせいで歯止めが効かない。


「それは言い過ぎだろ」


 さすがの柴も癇に障ったようだ。


「……ごめんなさい、言いすぎた。でも、分からない?全てかぐやの策略なのよ。マスコミに言いふらしたのも、足をくじいて見せたのも、全て私とあなたの仲を裂いて、あなたを得るための手段なの」


「それは違うわ」


 かぐやが真面目な顔で言った。


「すべては偶然。それをあなたは、そう受け取った。あなたの不安が生んだものよ。私は何もしていない」


「嘘いわないで」


「本当だよ、聞いてくれ」


 柴が割って入る。


「いや、もう何も聞きたくない。だから、今すぐここで選んで。かぐやを取るか、私を取るか、それで十分」


「もちろん君に決まってるだろ。けど……」


 柴は苦渋の表情になった。


「けどはいらない」


 美咲が叫ぶ。


「わかった。かぐやさん、そういうことだからごめんね」


 柴が、かぐやの支えを外して美咲の方に向かおうとしたその時、かぐやはバランスを崩して転びそうになった。慌ててそれを支える。


「やっぱり足が悪いんだ。タクシーを呼ぶから、待ってて」


 柴が言うと、美咲は首を振った。


「ごめんなさい。もう待てない」


「たった数分のことじゃないか。タクシーを呼んで、彼女を乗せるだけだ。それを君は待てないと言うのか?そんなにも薄情な人なのかよ?」


 美咲は二人は避けるように通路を走って階段を降りていく。


「ちょっと待って」


 柴の制止も聞かず、美咲の姿は闇へと消えていった。

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