第25話 不安の根
司法試験の予備校の受付を済ませた柴は何気に携帯を見ると、美咲からの着信が十件あることに気づく。何事かと美咲に折り返し、電話をかける。
「……もしもし、今、終わったところ」
「終わったって、何が?」
電話に出た美咲は、明らかに不機嫌な声である。
「予備校の受付だよ、司法試験の……。昨日、話しただろう?」
「あっ」
美咲は電話の向こうで声を詰まらせた。
「何回も電話くれたよね、何かあったの?」
「別に……」
美咲の動揺が伝わってくる。
「そう、今から会える?」
「うん」
二人は『安心とタイムス』で会うことにした。
少し遅れてやってきた美咲は、なぜか憂いを含んだ雰囲気で現れた。雨が降り出したからではなさそうだ。
「何かあった?」
注文を済ませた柴は優しく訊いた。
「別に……」
例によって、美咲は自分の心情を隠すような振る舞いをする。
「別にって、遠慮するような関係じゃないだろう?言いたいことがあればはっきり言った方がいいよ」
「分かっているけど、ただ……」
美咲が切り出すのを柴は待った。
「大学の廊下に、かぐやと居たでしょ?」
「え?ああ、彼女が階段で転んで、足をくじいたって言うから医務室まで連れていったんだ」
それがどうした?と言いたいような顔をする柴。
「かぐやと仲良くして欲しくないの。近づかないでほしい」
美咲は歯切れの悪い言葉で言った。
「どうしたの?二人、何かあった?こないだも、なんか変だと思ってたけど喧嘩でもした?」
「違う。そういうんじゃなくて……」
「もしかして、彼女がマスコミに叩かれてるから距離を置こうって言ってるの?だとしたら、少しがっかりだな。美咲ちゃんがそんな風に思ってるとしたら」
「違う。かぐやがあなたのことを奪おうとしているから」
美咲の言葉を一瞬、理解できない柴。
「えっ?どういうこと?」
「かぐやが、結婚相手に選んだはあなたなのよ」
美咲の言ってることが信じられない柴。しばらく二人は黙った。
「……冗談でしょ?」
ようやく絞り出すように柴が言った。
「彼女は本気よ」
「君をからかってるだけさ。いつものようにね」
柴は鼻を鳴らした。
しかし、美咲の潤んだ瞳の前に、徐々に真実味が伝わってくる。
「えっ?……なんで僕なの?何で……彼女には素敵な男性が沢山寄って来るだろう?それこそ、一国の王子や会社の社長なんかがさ。ボクなんてただの大学生だよ?どこにでもいる……そんな奴を選ぶはずがないよ、僕なら絶対に選ばない」
「あなたは自分が思っている以上に素敵な人よ。かぐやの目は間違いないってことよ」
「きっと、隣の芝生は青い、ってやつだよ。君を通して僕を見ているんだろう」
「違うと思う」
美咲の言葉は、トゲのように柴の胸にチクリと刺さった。
「でも、例えかぐやさんが何を思おうが僕は君と付き合ってるわけだし、ボクは君と別れるつもりはないから心配する必要はないと思うんだけど?」
柴は、美咲を諭すように言った。
「本当に?」
「もちろんさ」
柴の満面の笑みに、美咲もようやく微笑みを返した。
店を出て夜道を歩く二人。
「今日はどうする?部屋に寄ってく?」
暗闇だからよかったが、言っていて顔が赤くなる柴。
「……やめとく」
しばらく沈黙の後、美咲が答えた。
「誤解しないでね。明日テストだから、それに……」
「それに?」
「一緒に言い過ぎると、自分をコントロールできなくなりそうだから」
消え入りそうな声でいう美咲。
「そう、わかった」
帰り道は言葉数が少なく、二人とも蟠りを残したまま別れてしまった。
彼女が不安になるのも分からないでもない、と柴は思った。
でも、自分はもう充分美咲に惹かれているのに、それを彼女に伝えきれていない。そして、彼女の不安、かぐやへの恐怖もまた理解できていない。
アパートの二階に上がる階段を登りきると通路に電灯がついていて、その灯りが巨大な影を作り迫ってきた。階段を踏みはずしそうなくらいに驚く柴。
含み笑いをして彼女は現れた。
「驚かしちゃった?」
かぐやがいたずらっこのような笑みを浮かべて近づいてきた。
「ええ?何?……何で、君がここにいるわけ?」
しどろもどろになりながら態勢を立て直す柴。
「昼間のお礼をしようと思って……医務室まで連れてってくれたこと」
かぐやはズボンの裾をめくって、足首の包帯を見せた。
「お礼なんていいよ、大したことしてないし……」
柴は警戒心を丸出しにして、かぐやを避けるようにすれ違い、部屋のドアの鍵を開ける。
「帰った方がいいよ。気持ちだけ受け取っておくから、おやすみ」
そう言うと、ニコニコしているかぐやを無視して、ドアを激しく閉めた。
ロックをして「ふーっ」とため息をつく。
靴を脱いで家に上がろうとした時、ふと気になってドアの覗き穴から外を覗くと、かぐやの覗き込んでいる大きな目が見えた。
「わっ」
驚きの声を上げて、ドアを開ける。
「お礼は本当にいいから、帰って。頼んむからさ」
閉めようとしたドアを手を入れて止めたかぐやが、玄関に足を一歩踏み入れる。その速さたるや借金取り並みだ。
「美咲から聞いたでしょ?」
「何を?」
「とぼけないで、私の気持ち」
かぐやの澄んだ美しい瞳でまっすぐ見つめられ、柴は思わず目を背けた。
「あなたのことが好きなの」
「そんなこと、どうせ、揶揄っているんだろう?」
「本気。じゃなきゃ、こんな恥ずかしいことしないでしょ?普通」
かぐやに見つめられると暗示でも掛ったように吸い込まれそうになる。
「駄目だ、ボクは美咲と付き合っている。彼女のことが好きなんだ」
ドアを閉めようとする柴にかぐやは尚も強引に入って来ようとする。
「わかっている。でも、この気持ちは抑えられない」
「ボクにどうして欲しいって言うの?」
「分からない?感じてみて、あなたにも私と同じ気持ちがきっとあるはず」
「ないよ」
柴田は冷たく言い放った。すると、かぐやは急に熱が冷めたようにスッと身を引く。
「そう……ごめんなさい。お騒がせして」
そう言うと、後ずさりしてかぐやはドアを閉めた。またもや面を食らう柴。
「なんなんだ、一体?」
つぶやきドアをロックする。だが、その瞬間、酷くもったいないことしたような気持ちになった。
アパートを去っていくかぐやの姿を、物陰に隠れたカメラマンが一部始終、収めていた 。
しばらくは何事もなく、かぐやはその後、何も言ってこない。
数日後、大学に行くと朽木が大慌てで近づいてきて、その手には雑誌に握られていた。
「おい、柴。お前大変なことなってるな」
何事かと思い、朽木が開いた雑誌を見るとかぐやの記事が出ていた。
『香夜舞に新恋人、お泊まり愛発覚』
写真も載っている。かぐやがアパートの部屋から出てきて、男がドアを開けて見送っているような写真だ。
画質が荒く、夜なので分かりづらいが確かにかぐやだ。そしてアパートは柴のボロアパートで、ドアから顔を出しているのは自分である。
「なんだこりゃあ?」
思わず叫ぶ柴。
ゴシップ誌を持ってまじまじと見つめる。目隠しをしてあるが確かに自分だ。さらに記事の内容を読む。
『近頃、巷を騒がせている香夜舞にどうやら本命の彼氏がいたようだ。彼氏はかぐやと同じ大学に通う四回生で、一見、普通のタイプだ。数々の男と浮名流してきたかぐやにとっては物足りないが、やはり本命というのは、男も女も変わらずお固いタイプがいいのだろうか?因みにかぐや本人に話を聞くと「彼とは良いお友達です」と、通りいっぺんの返事が返ってきた。しかし、今までが今までだけに、この恋がこの後、どのような展開を見せるか、今後も目が離せない』
「はあ?なんなんだ、これは……」
柴は思わず声を上げる。
「なあ、大変なことになっているだろう?」
朽木が改めて同じことを言った。そして柴の反応を確かめつつ聞いた。
「この記事の内容は本当なのか?」
「まさか」
柴はすぐに否定した。すると、ふと思いついて立ち上がる。
「彼女の仕業だ」
「何だって?」
「かぐや本人が仕組んだことなんだ」
弾かれたように教室を出る柴に、朽木も後からついてくる。
教室を出たところで美咲とばったりと会った。その顔を見た瞬間、柴はなぜか後ろめたい気持ちが過ぎるのだった。
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