第9話 契約
家に着くと、どっと疲れが出た。
まるで旅行帰りのように、やっぱり家が一番落ち着くなぁ、としみじみと思う。でも、今日一日の出来事すべてが、今までにない新鮮さと驚きであった。
撮影を終え、今後の方針としてレッスンなどを受けていくことが決まり、事務所を後にした。
街に出て、家に帰るまでの間、五人の男に声をかけられた。全てナンパ目的だ。信じられないが、鏡に映るケバイ自分が、モテる事実を物語っていた。
自分がタレントになるなんて考えもしなかったことだし、まだ本格的にやるかどうかも決めていない。ただ、自分の現状が煮詰まっていて、変化を求めていることだけは強く感じる。
変わりたい、変わってもっと美しくなって、柴を振り向かせたい。でも、本当に、それだけなのだろうか?
その時、携帯が鳴った。ディスプレイにはかぐやと出ている。
「美咲、何してた?」
「かぐや、あなた今、イタリアじゃないの?」
「そうよ。イタリアからかけてるの。それより録画してほしい番組があるのよ」
「そんなの、家の人に頼みなさいよ」
「あれ?今日は頼みを聞いてくれないの?……かぐや悲しい」
かぐやの猫なで声が聞こえてくる。
「わかった。……で、何の番組?」
「となりのトトロ。じゃあ、頼んだわね」
「そんなもの、ネットかなんかで見ればいいじゃない」
電話が切れていると思い、思わずつぶやく。
「それから、美咲は今のままで十分魅力的よ。型にハマらないで、自分らしさを貫いた方がいい。じゃあね」
唖然と携帯を見つめる、美咲。
いつも思うことだが、かぐやはどうやって自分の心の中を見透かすようなことが言えるのだろうか?もしかして、本物の超能力者もかもしれないと思う美咲であった。
翌日も学校帰りに『ニュー・エナジーコーポレーション』に立ち寄る。
エレベーターが来るのを待っているとドアが開いて、少女が一人おりてきた。未成年のような可愛らしい子であった。
だが、その表情は暗く、悲壮感が漂っていた。もしかして事務所の子だと思い、挨拶しようとするが、少女は美咲を無視して通り過ぎていく。
「今の子、泣いてなかった?」
事務所に着くと細木が待っていて、応接室で話をする。
「どう、新しい自分は?」
「ええ、まあ……」
「本格的にデビューを目指さなくても事務所に登録していれば、暇な時でもモデルやエキストラのバイトなんかで収入も入るし、本当にバイト感覚でやってる子も多いからさ」
「私はタレントにはむいてないと思います。今はとりあえずバイトの方がいいです」
「そう、わかった。でも、ひとつだけいい?どんな仕事をするにしても一定のレベルまでいってないといけないからレッスンは必要なんだ。まあ、レッスンと言っても発声練習とかウォーキングといったものだけどね。これは日常生活でも役立つことだよ」
「でも、それってやっぱりレッスン料とか取られるんですか?」
美咲は不安げに訊いた。
「心配しないで。仕事をしていけば、そのうち何パーセントがうちが貰うことになる。それがレッスン料になるから。お金を請求することはないよ」
「そうですか」
美咲はホッとした。
その日からレッスンが始まり、一週間ほどして CM のエキストラとして最初の仕事が来た。
五時間、喫茶店のセットにただ座ってるだけのエキストラだったが、タレントになったみたいで美咲には新鮮であった。
事務所に戻り、日当を受け取ると、気分はさらに良くなった。帰る間際、細木がやってきて一枚の紙を目の前に置いた。
「今日はお疲れ様。これ本契約の用紙。一年契約だけど、もう契約するってことでいいよね?」
美咲は契約という言葉に一瞬、躊躇したが、高揚していた気分が後押しして、「はい」と頷き、サインしてしまった。
「今日どうだった?案外、簡単でしょ?こんな仕事が続くと考えてくれればいいから」
サインを確認すると、細木は素早く契約書を受け取って微笑んだ。
「それじゃあ、今日はこれまで。明日は日曜だから、午前中は空いてるでしょ?」
「明日は試験の勉強しようかなと思ってるんですけど……」
美咲は申し訳なさそうに言った。
「へえー、感心だね。けど、すぐ済むから。本当に午前中で終わる仕事、大丈夫だよね?」
「……わかりました」
なんとなく、断りづらい雰囲気が漂っていたので、美咲は思わず返事をしてしまった。
事務所を後にして駅へ向かう途中、雑居ビルの地下から女が階段を上がって来て、それを男が追ってくる。そのビルの地下で営業する居酒屋の客らしい。
二人は美咲の前でいきなり言い争いを始めた。
「おい、ちょっと待ってって」
美咲は、男の声に聞き覚えがあった。柴竜太郎である。そして女の方はよく見ると、茶室の前で出会った和服美女であった。
「いきなり、実家に帰るって言うほうがおかしいんじゃない?今までやってきたことが、すべて無意味になるってことよ」
「仕方がないだろ、家業を継がなくちゃいけなくなったんだから」
柴は寂しそうに言った。
「じゃあ、私はどうなるの?」
女が訊いた。
「君は……」
柴は苦しそうに言った。
「君は好きな道を選べばいいんじゃない……」
「そう、わかった。じゃあ、さよなら」
彼女が行ってしまう。柴はその背中を見送って立っていた。美咲はその間ずっと道の隅で動けずにいた。その美咲に柴が気づいた。
「君は確か……」
覚えてくれた嬉しさと、気まずい場面を見ていた恥ずかしさで言葉が出なかった。
柴の方も、彼女にフラれたショックと、かっこ悪いところを見られた恥ずかしさで背を向けた。
「それじゃあ」
行こうとする柴であったが、ふと立ち止まり美咲の方を見た。
「もし、よかったら一緒に飲まない?サークルのみんなで飲んでるんだ」
「……はあ」
美咲は訳も分からず、思わず頷いてしまった。
地下の居酒屋では、既に出来上がっている男女五人のグループがいた。みな先輩である。
「紹介します秋葉大学1年生、鮎川美咲さんです」
突然、大声を張り上げ、柴が美咲を紹介した。
「イエーイ」
男たちは異常に盛り上がる。それを目の前にして、立ち尽くし美咲。
「かわいいなあ」
美咲を見て、酔った目をした男がつぶやいた。
「ちょっと、ここ空いているから、こっちへいらっしゃい」
女の先輩が手招きする。
「だめだ、彼女は俺の隣」
と柴は美咲の腕を引っ張って、自分の隣に座らせ、店員を呼んで注文をする。美咲はウーロン茶にしようとしたが、レモンサワーを注文させられた。
「由美はどうしたの?」
別の女の先輩が訊く。
「帰ったよ」
柴はビールを手にしながらいった。
「行かせたの?」
「ああ」
「それでいいの?」
場の雰囲気が静まり、変な空気になった。
「いいんだ。たった今、別れたんだ」
柴はうるさそういって、ジョッキのビールを飲み干す。
「二人の問題だから、ほっとけ」
別の男の先輩が言った。
「それより、鮎川さんは何部?」
「法学部です」
「わあ、一緒だ。分からないことがあったら、何でも聞いてね」
「落第者がよく言うよ」
「ほっとけ」
皆が一斉に笑い、場が再び盛り上がる。そこから、酔った先輩たちが大騒ぎをし始める。
「変なとこ、連れてきちゃったかな?」
一人、場の雰囲気に取り残された美咲に、柴がいった。
「別にいいです。それより彼女さんはいいですか?」
「去る者は追わず、来る者は拒まずってね。それより君は何してたの?」
「ちょっと、バイトで……」
「何のバイト?」
「雑誌関係です」
まさかタレントの卵とは言いづらい。
「こんなところにあったかな?……なんて会社?」
「えーと、確か、エナジー・コーポレーションです」
「エナジー・コーポレーション……雑誌社の?」
柴が、首をかしげる。
「はい」
「どっかで聞いたような気がするけど……まあ、いっか。それより飲めるでしょう?乾杯しよう」
柴は、ちょうどやってきた店員からグラスを受け取ると、美咲に渡して乾杯をした。
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