第19話

 一時間目が始まる前に、教室を出て屋上に向かう。ユーヒさんを待つとしたら、サッカー部の部室か屋上だ。そのほかの場所にいたり、そもそも学校に来ないというパターンも考えられるけど、部室と屋上が一番可能性が高かった。

 屋上を選んだのは、俺も屋上が好きだから。煙草臭くて空気が籠ってる汚い部室より、多少寒くても屋上で空を見上げていたい。

 階段を一歩一歩登りながら、自分の中で起こっているバグについて考えてみる。

 要するにこれって、憧れが高じただけなんじゃないのかな? ユーヒさんは道徳的には最悪だけど、かっこいいことは確かだ。つまり俺は野登と同じで――そう考えるとすげー嫌だが――ユーヒさんを同性としてかっこいいと思ってるだけで恋愛とは違う……うーん。なんかしっくりこない。

 野登と自分が同類だと思いたくないから認められないだけ? いや、それよりユーヒさんに恋してるって状況の方が遥かに嫌だし面倒だろ。憧れで済むならその方がいい。うちの部の部員なんてユーヒさんに憧れてる奴ばっかりだ。

 でも憧れと恋の違いってなんだ?

 その人のことを思うと心臓がぎゅっと締め付けられたり、触れたいとか抱きしめられたいとかキスしたいとか思うのは憧れ? 自分だけ見ていてほしいと思うのも? 世界に二人だけになりたいと思うのも? さすがに無理がある気がする。誰かとつきあったことなんかねぇしわかんねぇよ。

 俺の恋愛経験なんて、クラスの可愛い女の子をちょっといいなと思ったり、バレンタインにチョコもらってドキドキしたりしたぐらいで、こんな思わず体が突き動かされるみたいな激しい感情に支配されたことはなかった。昨日からずっと、強烈で制御の利かない渇望が体中を渦巻いている。

 ――ユーヒさんが欲しい。ユーヒさんの目に俺を写したい。

「くそ……」

 三階の階段半ばで、居た堪れなくなってその場にしゃがみこんだ。

 相手が男で同性とか、もはやどうでもいいぐらい最悪の人間に恋してしまった。

 だって最近はゲイの人とか別に珍しくないしさ、日本なら同性愛者ってバレたからって死刑になったりしないし、同じ傾向の人が集まるコミュニティとかあるみたいだし、まぁ親には悲しまれるかもしれないけど、時間をかけて説得すればわかってもらえる可能性はある。

 でもユーヒさんは違う。わかってもらえない、というか、俺がわかりたくない。あんな人に恋するはずがない。してはいけない。

 俺はカヤ先生を可哀想だと思ったはずなのだ。カヤ先生にあんなことをしたユーヒさんを嫌うのが当前だ。なのに実際はユーヒさんにめろめろになっていて、カヤ先生のことは早く忘れたいと思っている。

 ユーヒさんのことが好きだという感情が、俺のなけなしの倫理観を全て台無しにしてぎったぎたに切り刻んでいく。自分がとんでもないクソ野郎になったんだと自覚させられる。

 嫌だ。俺はまだそっち側に行きたくない。魔王の手下になったって、心までは変わってないんだって思いたい。

 ――あぁ、ユーヒさん。

 救いを求めるように階段を上る。ユーヒさんに一目会えたら、何もかも上手くいくような気がした。孤高で孤独で強大なユーヒさん。

 誰にも配慮せず、誰よりも自由で、世界を自分のものだと思ってるような振る舞いが、支配下の人間を見下ろすあの冷たい目が好きだ。

 人を殴るのも、女の子を犯すのも、ユーヒさんは欲望に駆られてやってるわけじゃない。激情に呑まれたり快感を求めたりするような奴らとは違う。ユーヒさんがそうするのはそれが当然だからだ。この世にある全てのものはユーヒさんのもので、それをちょっと壊したり使ったりするのはあの人にとってなんてことない行為だ。

 どんなものもユーヒさんを傷つけたりはしない。ユーヒさんはなんでもできるけど、俺たちはあの人に何もできない。圧倒的高みから気まぐれに掻きまわされて、為す術なく粉微塵になるだけだ。

 ユーヒさんのそういう強さに、どうしようもなく惹かれている。

 俺がそうなりたいわけじゃない。ただユーヒさんの隣にいたいのだ。あの人の関心を向けられたい。生活に関わりたい。こんなの、憧れと呼ぶには強欲過ぎる。

 踊り場を曲がって、四階から屋上に続く階段に足を踏み出したところで、俺は凍り付いた。

 視線の先には、広い背中とその下から覗く細い足があった。三年生の先輩の中でも格別がっしりした体躯、日に褪せたような色のぼさぼさ頭。後ろ姿でも間違えるはずがない、ユーヒさんだ。ずっと会いたかったその人は、階段の上で細身の女子を押し倒していた。

 ――なんで、

 頭が真っ白になる。くるしい。ヤバい、見ちゃ駄目だ、離れないと、早く、ここから、

 ――なんで、そんな子と ・・・・・

「ぁ……」

 呼吸が喉奥で詰まった。崩れ落ちそうになる寸前で手すりにしがみつき、不格好な姿でユーヒさんを見上げる。

 ユーヒさんの手が女子の胸元にめり込んでいた。ユーヒさんの足が女子の胴を挟むように跨っていた。ユーヒさんの身体が興奮で汗ばんでいた。目に映る全ての要素に発狂しそうになった。

 胸の奥でぐつぐつと何かが煮え滾っている。組み敷かれてる女子が憎くて堪らないし、ユーヒさんをなんでどうしてと問い詰めたくてしょうがない。俺がそんなことできる権利なんて少しもないのに!

「あぁ、お前か。なんか用か?」

 ちらとこちらを見たユーヒさんが言う。一瞬で、全身の血が喜びに沸く。深く底のない灰色の目が俺に向けられている。そう思うだけで、泣きたくなるほど嬉しかった。

 魅入られるようにユーヒさんに近づく。この人の近くにいられるなら、それでいい。どうせユーヒさんは女子に執着したりしない。この人にとってセックスは排泄と同じで、女子はそれに便利だから使われてるだけだ。でもそれでもいいから俺だって……

 と、ユーヒさんの後ろで、もぞりと何かが動いた。押し倒されている女子だ。そんなに可愛くはない。なんで選ばれたんだろう。床に手をついて少しだけ体を起こし、声を出さずに口を動かしている。なんだ? せっかくユーヒさんが目の前にいるのに、気を散らすようなことしないでほしい。

 必死の形相で何かを伝えようとしている。縋るように俺をみつめ、何度も同じ形を繰り返すその口はなんの言葉を――

 あ。

 唐突に気づいて、愕然とした。

 こんなの考えるまでもなかった。

 たすけて、だ。

 ユーヒさんに隠れて、ユーヒさんが自分から目を離している隙を見て、ユーヒさんの子分の俺に、助けてはくれなさそうな俺に、それでもわずかな望みを託して。

 俺が羨ましくてしょうがないユーヒさんの腕の中は、あの子にとってはただの地獄だ。

 熱がすぅっと引いていく。陶酔から覚めて、自分の異様さを自覚する。握り締めた拳のなかで爪が肉を抉る。

 ――あぁ、俺は。

 本当に、馬鹿で、醜くて、邪悪で、最悪の――。

 信じられないほど苦しかった。苦しむ資格なんてなかった。こんなの死んだ方がましだ。怪物が体中を暴れまわって、内臓を踏み荒らしていく。今にも皮膚を突き破って外に出てきそうだ。駄目だ、耐えなきゃ、耐え、た――

「あの、ユーヒさん」

 言葉が口をついて出る。

「あ?」

「そ、その子、同意ですか」

「は?」

 ユーヒさんはあからさまに機嫌の悪い、威圧するような声を出した。

 心臓がきゅーっと縮こまるのを感じる。いつもの俺ならこんなこと絶対言えない、でも止まらなかった。自己嫌悪と同情と絶望でぐちゃぐちゃになった心は壊れる寸前で、何かを吐き出さなきゃもう一秒だって息ができそうになかった。

「その子、ユーヒさんとセックスしていいって、言いましたか」

 俺の言いたいことを理解したユーヒさんは、うるさい小蠅に気づいたというように眉をしかめ、立ち上がって俺の胸ぐらをつかむと、階段の下に向かって叩きつけた。

「ぐっぅあ!」

 全身バラバラになりそうな衝撃とともに口の中に広がった血を、朦朧としてくる意識の中噛みしめる。

 ――これは俺の罪の味だ。

 俺が弱くて馬鹿だからこうなったんだ。全部間違えた、最初から最後まで、なにもかも全部。あぁ、せめて恋なんかしなければ、ユーヒさんを怖くて酷い人とだけ思えていれば、殴られて恨むような普通の感性を持っていれば……。

 どうしようもなく悲しくて、苦しかった。ぶつかった箇所より心臓が痛い。じわじわと目の淵に滲む涙を拭うこともできないまま、俺は仰向けの体勢で年季のいった白い天井を見上げていた。

 時折女の子のくぐもった泣き声が聞こえる。ユーヒさんは多分俺のことなんかとっくに忘れてる。ちょっと役に立ちそうだった駒がうるさい羽虫になった、としか思ってないだろう。

 俺はなんにもできず、あの人の仲間ですらなくなった。今までの努力は全て無駄になった。

 それでも恋心は死んでいなかった。


 こんなにも自分にうんざりしたことはなかった。

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デビルズ・カルテ――禁断の黒い果実―― 夜光始世 @yakoushiyo

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