第18話

 ユーヒさんに会いたいという衝動に駆り立てられるように登校してから、俺は気づいた。ユーヒさんは朝早くから学校に来たりしない。

 がらんとした教室で一人、ペン回しなんかして時間を潰す。朝食をほとんど抜いてきたっていうのに、腹は空いていなかった。胸いっぱいに詰まった恋心は、どうやら胃の方まで侵食しているらしい。

 やがてぼちぼちほかのクラスメイトも登校し、辺りが喧騒で満ちてきたころ、真面目そうな女子がおずおずと声をかけてきた。

「あの……あの、ちょっと」

 最初俺のことを呼んでるとは思わなかった。基本的にサッカー部以外の学校の奴らは、みんな遠巻きにしてくるから。でもなんか近くで声がするなと思って横を見たら、その子は真っすぐ俺を見てて、俺はびっくりして椅子をがたつかせた。

「えっ、俺?」

「あ、うん、そう。あの、えーっと、呼ばれてる、よ」

 女子は戸口の方を指さした。しかめっつらの木場がいる。なんか用かな。先輩関係? 伏見先輩じゃないといいけど。

「ありがと」

 女子にお礼を言って席を立ち、木場のところに向かう。木場は俺を教室の外に引っ張り出し、顔を近づけて声を潜めながら言った。

「お前、大丈夫だったん、あのあと」

「え?」

「風邪ひいたとか言ってたから」

「あぁ……」

 機嫌が悪いんじゃなくて、心配して険しい表情になっていたようだ。

 本当に木場はいい奴だな。最近は俺と距離があったのに、わざわざ違うクラスまできてこんなこと聞いてくれるなんて。

「うん、へーき。ごめん、昨日途中で帰っちゃって」

「いや、マジお前具合悪そうだったしさ。つか今もなんか冴えねぇ面してっけど。まぁ良かった、休まなくて。フツーに風邪ひいたなら別にいいけど、アレのせいだろ、お前が変だったの」

「あれ?」

「……『ゲーム』」

 木場はぽつりといい、なんとも言えない表情で俺を見た。それは怒っているような、同情しているような、心配なような、呆れたような。とにかくいろんな感情が混じっていて、何が本当かわからなかった。全部本当なのかもしれない。俺達は自分の感情を完全に把握したり制御したりできるほど賢くない。俺も、木場も。

「びっくりしたけど」

 不思議なほど平静な声が俺の口から出ていく。

「あれぐらいで体調悪くなったりしないって。そんなヤワじゃねーよ」

「……だよな」

 木場はほんの少し口角を上げて笑った。

「俺もそう言ったんだよ、伏見先輩にさ。あいつはああみえて根性あるんで、平気っすよって」

「伏見先輩なんか言ってた?」

「神ちー大丈夫かなって。もし学校来れないようならお見舞い行ったろ、って言ってた」

 木場の言葉に、心底ぞっとする。伏見先輩が家に来るなんて考えただけで恐ろしい。あの人は人の弱みをけして見逃さない。部屋に上げたりなんかしたら、そこで得た情報を後々どんな形で利用されることか。危ないところだった。今日学校に来て本当に良かった。

「そっ、かぁ。あとで先輩たちに顔見せに行くわ」

 動揺を隠しながら言うと、木場は真面目な顔で頷いた。

「それがいいよ。伏見先輩、お前のことマジで心配してたよ。お前あの人のお気に入りだから」

「は?」

 は!?

 俺は限界まで目を見開いて、木場を凝視した。何言ってんだこいつ。『目をつけられてる』の間違いだろ。

「や、ごめん、言い方違ったかも、なんつーか」

 俺の大きすぎる反応にビクって、木場はちょっと身を引いた。あ~、とか、う~、とか言いながら説明しだす。

「伏見先輩、一人で色んなことやってんだろ。あの人滅茶苦茶有能だけどさすがにできることに限りがあるし、あと一年で卒業しちまうし。だから跡を継ぐっていうか、伏見先輩に近いことできる奴探してんだって、先輩たち。お前なら顔良くて女受け良くて馬鹿じゃねーからちょうどいいって」

 初耳だった。そんなことを思われていたとは。

 え、俺伏見先輩みたいなことさせられそうなの? マジで? 輪の一員どころじゃなくて、女子の管理して客と繋いだりメンタルがヘラった子を言いくるめたりお小遣いが欲しいぐらいの子を引き込んだりする仕事を? 俺が?

「無理だろ……」

「た、大変だとは思うけど、でも良かったじゃん、お前モテるって認められたってことだぜ!?」

 こんなに嬉しくないモテ認定あるかよ。別にそんなモテるとも思わないけど――いや、確かに何回か告白されたことはあったな。でも不良がちょっと普通っぽくなくてかっこよく見えるみたいな、そういうあれだと思ってた。フィクションで不良に夢持っちゃってる野登タイプ。

 唖然としてる俺に苦笑して、木場は続ける。

「伏見先輩は……ああ見えても結構仲間大事にする人だからさ。降りる奴とか外野には容赦ねぇけど、身内になったら優しいと思うよ。ここまできたら、先輩たちについてくしかねーんじゃねぇの」

 俺たちだってそれでいい思いできるんだからさ、と自分に言い聞かせるように言う様に、堪らない気持ちになる。

 いい思い? いい思いってなんだ。なんなんだよ。

 女も金も威張れる権利も欲しくねぇよ。

 俺は――俺はただ、ユーヒさんに――ユーヒさんの近くにいられる関係でいたいだけだ。

 でもこの願いはきっと、本当は叶えるべきものではないということも俺は薄々わかっている。

 近づきたい。離れたい。留まりたい。逃れたい。でもそんな葛藤なんて、結局なんの意味もない。逃げ場なんてどこにもないんだから。

「な、伏見先輩の次ってなったらさ、幹部格じゃん。偉くなっても俺がダチだって忘れんなよ」

 木場はおちゃらけたように言って、俺の肩に腕を回した。首に触れた手はひんやりと冷たかった。

「……忘れねぇよ」

 でもお前は。お前は忘れないでくれんのかな。俺達がグラウンドで泥だらけになってサッカーボールを蹴ってたことを。煙草とか酒なんか目もくれないで祭りでイカ焼きを齧ってたあの日を。

 濁った眼で笑うようになったお前は、忘れないでいてくれるのか。

 ホームルーム開始のチャイムが鳴る。

 担任が廊下の向こうから歩いてきたので、木場に手を振って担任と一緒に教室に入る。教壇に立った担任は事務的にホームルームをはじめ、連絡事項を告げた。

「今日の三時間目は賀屋先生の授業の予定でしたが、体調不良でできなくなったそうです。なのでいつも通り小林先生が担当します」

 俺は俯いて、机の傷をみつめた。

 今すぐユーヒさんに会いたかった。

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