第17話

 ジリリリリ、と喧しい音を響かせる目覚ましを片手で止める。レースのカーテン越しに差し込む朝の光に目を細めながら、俺はゆっくりと起き上がった。頭が重い。目のふちの皮膚がぴりぴりする。

 見下ろした自分の体は、制服を着こんだままだ。なんで、と思った後で、少しずつ昨日のことを思い出していく。

 籠った匂いの薄暗い体育倉庫。揺さぶられるカヤ先生。誰よりも酷くて特別なユーヒさん。紫煙の向こうに見えるあの人に、俺は――

「うぅ……」

 頭を押さえて唸る。

 朝っぱらから思い出すようなシーンじゃなかった。憂鬱な気分と吐き気がぶり返す。悪夢を見たあとみたいな不快感。

 ――悪夢だったんじゃないか? なにもかも俺の不安とストレスが作り出した幻で……いや。

 ベッドの下から覗いているくしゃくしゃになった上着を引っ張り出し、ため息をつく。ゲロの匂いが残っている。確かに現実で吐いた証拠だった。あのあと家に帰った俺は、ベッドに倒れ込んでそのまま眠ってしまったようだ。かろうじて吐いた上着を隠すだけの理性はあったのか。

 俺はあの一連の出来事を受け入れたくなかった。だけどどんなに誤魔化したくたって、なかったことにはならない。最低最悪の『ゲーム』は行われた。俺はその場にいて、よりにもよって首謀者への恋心を自覚した。

 西山先輩、伏見先輩、そのほか輪に加わった何人もの不良仲間に対しては嫌悪感と忌避感が沸き上がるのに、何故かユーヒさんを悪く思う感情は微塵もなかった。それどころか、ユーヒさんのことを考えるだけで、俺の脳髄は甘く蕩けた。ユーヒさんの傍にいたい、ずっとみつめていたい、できれば抱きしめてほしい、と思ったところで自分の思考に身震いする。なんだそれ。即ボコされるに決まってる。

 皮肉なことに、『ゲーム』に参加したことによる罪悪感や混乱は、ユーヒさんに恋した衝撃で緩和されていた。でもだからって楽になれたわけじゃない。むしろもっとどうしようもない事態に陥っている。なんで俺はあんな人を――世界で一番恋愛相手に向かない人を、好きになってしまったんだ?

 畏怖と恐怖、それに不釣り合いな甘ったるいときめきが俺の中に同居していて、頭がおかしくなりそうだった。

 重い体を引きずるようにしてベッドから出て、汚れた上着を適当なビニール袋に突っこみ、クローゼットの奥に押し込んだ。替えのシャツと上着を取り出し、羽織る。

 のろのろと部屋を出て洗面所でうがいをし、鏡を見ると目の周りが腫れぼったくなっていた。せっかく殴られた痕がひいてきてたのに。

 水で顔を洗って、ついでに寝ぐせも撫でつける。お母さんに聞かれたら――感動する動画を見たとでも言えばいいか。恋愛リアリティ番組で好きな二人がくっついたとか。俺あんま恋愛リアリティ見ないけどな。爽やかで甘酸っぱい恋なんて別世界過ぎて辛いから。

 居間に向かい、ダイニングテーブルにつくと、お母さんがほかほかのご飯としめじの味噌汁、鮭の西京焼き、きんぴらごぼうの小鉢を出してくれた。いつも通りおいしいんだろうけど、全然食べる気がしない。炊き立てのご飯の匂いが鼻についてうっとなったので、遠くに押しやり、代わりに味噌汁を引き寄せて少し口に含んだ。固形物じゃなければましな気がする。

「どうしたの、今日あんまり食べないね。おいしくなかった?」

 心配そうに尋ねてくるお母さんに首を振り、みぞおちの辺りに手を置く。緩くずっと気持ち悪さが続いているせいで、いつもなら軽く平らげる朝食がまったく入ってこない。

「ごめん、お腹空いてなくて」

「そうなの? もしかして体調悪い?」

「や、大丈夫、学校は行けるよ」

「無理しないで。風邪かもしれないよ。体温計ってみて」

 押し付けられた体温計を素直に脇の下に入れる。多分平熱だ。予想通り、ピピッと鳴ったあとに見た画面には、36.5という数字が表示されていた。

「う~ん、熱はないみたいだけど」

 まだ心配そうなお母さんに、頑張って笑顔を作る。

「こういう日もあるって。動いてたら段々お腹すくと思う。給食はいっぱい食べてくるから、心配しないで」

「……そぅお?」

 納得いっていない様子を振り切り、ほとんどの料理を残して家を出た。いつもより早い時間だ。空調の利いた暖かい家に守られていた体温を、秋の朝の冷たい風が容赦なく奪っていく。

 ……多分、休みたいって言ったら休ませてくれたろうな。お母さんの心配に甘えたい気持ちはあった。

実際俺は今日調子が悪いし、これから学校に行って先輩たちと顔を合わせると思うと気が重い。

 それでも無理してこうやって学校を目指しているのは、どうしてもユーヒさんに会いたいからだ。

 秋風は異常な思考までは飛ばしてくれなかった。熱に浮かされるように俺はユーヒさんを求めていた。

ユーヒさんのことをなんでも知りたいし、少しでも長くユーヒさんをこの目に映したいし、一刻も早くユーヒさんの近くに行きたい。

 漫画や本で読んできた恋愛みたいに、ユーヒさんを想うと胸は高鳴り、頬はかっと熱くなった。太い首筋やそこから繋がるしっかりとした胸板、鎖骨の間に銀色のチョーカーが落ちるさまを思い浮かべては堪らない気持ちになった。

 こんなの……恋以外になんだっていうんだ? そうだ、俺はユーヒさんに恋してるんだ。

 自覚するたび、熱に浮かされたようなふわふわした思考のなかに、とんでもなく悍ましいものに触れてしまったような嫌悪感が差し込まれる。

 叶うならば心臓ごと恋心を取り出して投げ捨てたい。

 恋は理屈じゃないらしい。同性に恋することだってあるらしい。恋する心はどんなものだって尊いらしい。従姉妹の唯ちゃんが、少女漫画を抱えながらうっとりと言っていたことを思い出す。

 ――そうか? 本当に?

 この感情は間違いじゃないっていうのか? 純粋でキラキラした美しいものだって? そんなはずはない。恋愛のことなんかなんにも知らない俺だってそれだけはわかる。

 絶望に頭まで漬かりながら、俺はユーヒさんに狂おしいほど焦がれていた。ユーヒさん。どうして。どうしてこんなことに。

 あなたが一目見てくれたらきっと何よりも満たされる。満たされて、しまう。世界に君臨する完璧で強大な俺の王様。

「……はっ」

 息を吐きだす。一人で抱えきれないほどの感情が、喉の手前まで溢れてきている。

 ズボンのポケットを探り、赤いピアスを取り出した。ユーヒさんが俺にくれたもの。正確にはこれをつけたのは浜田先輩だけど、ユーヒさんが命令してそうなったんだから、ユーヒさんに貰ったも同然だ。

 ずっとはずしたくてしょうがなかった。あんな人たちに目をつけられてピアス穴なんか勝手に開けられて、学校中の人間に避けられて不良の仲間にされるなんて最悪だと思ってた。でも今は、何より大事な宝物に見える。ユーヒさんとの繋がりの証だ。ガラス素材の赤いピアス。ちゃちな造りの石が、太陽光を反射して小さく光る。いつも通りそれを左耳につけ、俺は人気のない校門をくぐった。

 この建物のどこかにユーヒさんがいると思えば、素っ気ない灰色の校舎さえも輝いて見える気がした。体育倉庫の方は見なかった。今はまだ、考えたくない。大丈夫、きっと何事もなかったかのように日常は続いていくだろう。

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