第16話

「たす、け……」

 か細い悲痛な声を、先輩たちのげらげら笑いが掻き消す。カヤ先生は震えながらゆっくりと周りを見渡すが、逃げ道はどこにもない。俺たちが輪になって囲っているからだ。引き攣った頬に、一筋の涙が流れた。怖くて堪らない、どうしたらいいのかわからない、今すぐ逃げ出したい、という彼女の心情が伝わってきて、俺は俯いた。傷ついている真っ最中の顔を見たくなかった。

「えーっと、西山ぁ」

 ユーヒさんが跳び箱の上から緊迫感のない声で言う。

「お前こないだそこそこ頑張ったから、ご褒美ってことで。最初いけや」

「えっ、マジすか!? あざす!」

 おっしゃ!と勢いよくガッツポーズをした西山先輩が前に躍り出て、一瞬輪が崩れる。慌てて俺たちは輪を狭めて隙間を失くし、西山先輩にのしかかられて声にならない悲鳴をあげるカヤ先生を眺めた。

 伏見先輩と滝川先輩はにやにやしている。それ以外の先輩は興奮したように息を荒げたり、じっと食い入るように見ていたり。スマホを向けてる奴は動画を撮ってるんだろう。

 木場は愛想笑いを浮かべていた。サッカー部に入部させられてからあいつのこういう顔見ることが増えた。心底周りにノれないときはとりあえず笑うのだ。さすがにこれはキツいんだな、お前も。俺は奇妙な仲間意識と哀れむような気持ちを抱いた。でもお前だって童貞はリリカ先輩で捨てたよな。自我が崩壊して誰にも抵抗できないような人で。それって強姦と何が違うんだ? 

 ――なんて。こんなことを考えている俺だって人のことをとやかく言える立場じゃない。まさに今この時、カヤ先生に酷いことする手伝いをしてるんだから。

 カヤ先生の服がはぎとられてく。先生は滅茶苦茶に泣いて、息を詰まらせないか心配になるぐらいしゃくりあげていたけど、興奮して顔を真っ赤にしてる西山先輩はそんなの目に入ってないみたいだ。

 あっという間に裸にされたカヤ先生を見ても、俺はやっぱりエロい気持ちになれなかった。繊細なレースの下着、白くて綺麗な肌、服着てる時より大きく見える胸、そういうときめき要素が全部台無しになるほどカヤ先生は怯えきっていて、酷く惨めに見えた。西山先輩は雄たけびを上げてカヤ先生のパンツを脱がし、勢いよく押し倒す。

 ――見たくない。

 咄嗟に顔を逸らした。意識がふわふわと別世界に飛ぶ。なにやってんだろ俺。本当なら今頃はちゃんとしたサッカー部で爽やかにボールを蹴ってて――さもなければ何人かの友達と駄弁りながらだらだら家に帰ってジュースでも飲んでて――じゃなかったら隣の席の女子に消しゴム貸したとかでいい雰囲気になったりして――

 ごくり、と生唾を飲む音が聞こえた。くぐもった悲鳴と肉がぶつかる音も。途端に現実に引き戻される。そうだ、これが現実、これが俺のいる場所。

 頭がぼんやりする。全身が熱い。無意識に握り締めてた拳は汗ばんでべたべただ。何をやってるんだろう、俺は、何を……。

 ウリさせられてる女子とか、無理矢理ヤられてる女子がいるのはわかってた。好き放題されて放置されてる子の裸も見た。でも行為そのものを直接見たのは初めてだ。この輪の中にいるのは既に諦めきった子じゃなくて、今絶望させられてる人。そして俺は輪の一部だ。

 両隣の先輩と触れ合ってる肩が気持ち悪い。今すぐに爆発したい。俺ごと吹き飛んで何もかもなくなっちゃえばいいのに。でも何も起こらない。一歩も動けやしない。口の中はからからで、無性に水が飲みたくなる。目の前ではぬちゃぬちゃと粘液やら血やら汗やらが撒き散らされていく。醜い。セックスってなんか、凄くしょうもないことに思える。人間がただの肉になってしまう。俺のエロへの淡い夢は木っ端みじんにされて跡形もない。

 嫌悪感が胃の奥からせり上がってきて喉元に到達した。吐く、かも。いやまずい、ヤバいって、ここで吐いたりしたら――

「西山ぁ、お前やりすぎ。あとのこと考えろよなぁ」

 のんびりとした低い声が天からの救いのように響く。

 白けた顔のユーヒさんはひょいと跳び箱から飛び降りると、俺たちの輪をつっきって西山先輩の後頭部を蹴りつけた。そんなに力を入れたように見えなかったのに、西山先輩はぐらっと前のめりに倒れ、そのまま起き上がってこなくなる。

「……あ? よっわ。まぁいーや。伏見、この女の調整しとけ。やりたい奴は古賀に言え」

「うす」

「了解です、ユーヒさん」

 伏見先輩と古賀先輩が前に出て、ぐったりしているカヤ先生を持ち上げ、マットの上に運ぶ。先輩たちは自然と古賀先輩の前に並び、「俺口でいーわ」「おっぱいでけーな」とか勝手なことを言っている。伏見先輩は監督するようにカヤ先生の傍らに立ち、どこからか出してきたコンドームの箱をばりばりと開けていた。

「ユーヒさんはやんないんすか?」

 浜田先輩がおずおず尋ねると、ユーヒさんははぁとため息をついた。

「西山の汁ついてる女無理」

「あっ、そっすね、すません!」

 酷いことを言っている。人をなんだと思ってるんだ。騙されて犯されて目の前で侮辱されるカヤ先生の気持ちはどうなる。酷い奴らだ。最低の……。

「う……」

 胸が苦しい。吐き気はおさまらない。いまや涙まで出そうになってる。早く、早く出なきゃ。こんなところ、一秒でも早く……!

「おい、よっちん、どうした」

 近くにきた木場がびっくりしたように俺を見る。そんなに変な顔をしてるんだろうか。駄目だ、不審がられたらおしまいだ、せっかく今までうまくやってきたのに、何があっても平気な顔してそれどころか興奮してるふりして仲間だって示してきたのに、女の人を囲んで強姦するぐらいなんでもない、そうだろ、そうなんだ、そのはずだ、そう思わなきゃ俺が――

「よっちん」

 木場の声が切実な響きを帯びた。祈るような目で俺を見ている。

 ――あぁ。

 木場は俺を友達だと思ってくれてるんだ。だから忠告されてる。こっちにいろ、こっち側にいろって。輪の一員でいられる側に。

 わかってる。わかってんだよ。俺だって何も感じない人間になりたい。ここまできて今更綺麗事に苦しめられるなんて馬鹿みたいだ。この世はやるかやられるか。やる側に回れなければやられるだけだ。だから弱気を見せちゃいけない。仲間がやってることは正しい、仲間とやることは楽しい、それに難癖つけるなんて寒いしノリ悪ぃしつまんねぇチキン。

 そう思えたらどんなにか。

 木場と俺の間の空気が張り詰めたところで、地面に近いところから微かな声が聞こえた。

「……んで」

 生気のない顔をしたカヤ先生が、呆然と虚空を見上げて呟いていた。

「なんで、こ、なこ、と……」

 古賀先輩が顔をしかめる。伏見先輩は、お、というように右眉を上げ、カヤ先生を見下ろした。俺は耳を塞ぎたくて仕方ない。こんなに聞いていて辛い声があるなんて知らなかった。

「うぜぇ」

 ユーヒさんは淡泊な言葉で切り捨てる。ゆっくりと首を回しユーヒ先生の方を見たカヤ先生は、震える唇で喘ぐように尋ねた。

「す、好きって言った、の、うそ……?」

「好きかも、だろ。あれ、マジで覚悟なかったの? こんなとこ呼び出さねぇだろ普通。なのにのこのこ来たからさぁ、俺に食って欲しいんだと思ったのに」

 ユーヒさんはうっすら嘲るように口角を上げてカヤ先生に近づくと、その顎を右手で掴みぐいっと持ち上げた。

「ま、食ってやんねぇけど」

 その瞬間、カヤ先生の中で何かが切れたのがわかった。

 ギリギリで残っていた何か、多分希望とか意志とかプライドとか生きようとする気持ちとかが、すぅっと抜け落ちてがらんどうになった。抜け殻のカヤ先生はユーヒさんの手をすり抜けて人形のようにばたりと床に倒れ、面倒くさそうな伏見先輩に引っぱり起こされても何も反応しなかった。

 ユーヒさんはあくびをしながらごきりと首を鳴らし、また跳び箱の上に腰掛けると、懐から煙草とジッポを取り出し吸い始めた。いつもの、苦くてほんの少し甘い匂い。煙はあっという間に狭い部屋のなかに立ちこめて、視界をぼやけさせる。

「ユーヒさん、良かったんすか、壊しちゃって。俺に任してくれれば適当に転がしときましたよ」

 少し不満を滲ませて伏見先輩が言うと、古賀先輩が慌ててその頭を叩き、ユーヒさんに頭を下げさせた。

「すんませんユーヒさん、こいつ悪気はないんですが馬鹿でっ……!」

「いーよ、別に。伏見は腕あるもんな。でも俺は金欲しいからやってんじゃねぇんだよ、こーいうの」

 ユーヒさんは跳び箱の上で頬づえをつき、つまらなそうに俺たちを見下ろした。

「世界ってのはさぁ、俺に都合よくできてる。俺がやりたいようにやるための場所だ。ここにあるのは全部俺のもんで、ほかの奴が自分のもんだって思ってるとしたらそれは完全に勘違いだ。この女も、お前らも、俺が許してるから生きてんだよ。俺の世界にうぜぇ奴を残しとく必要はねぇだろ」

 大声も出さず、どすを効かせるでもなく、当然のことのように言った。その姿はとても人間には見えなかった。確かに自分と同じような見た目、格好をしている、同じ種族のはずだ、でも絶対的に違う。ユーヒさんの眼は人を凍りつかせ、ユーヒさんの言葉は人を支配し、ユーヒさんの行動は人をひれ伏させた。

 しん、と一瞬の沈黙が流れたあと、先輩たちがわっと湧いた。

「さぁすが、かっこいいっす!」

「ユーヒさん最高!」

「マジかっけぇわ、ユーヒさんがキングだ!」

「俺が馬鹿でした、すんませんした!」

「一生ついてきます!」

 世界一横暴で世界一自分勝手な悪の権化を、みんな神様を見るような崇拝と畏怖の目で仰ぎ見ていた。

 ごつい体格と柔道技で喧嘩負けなしと言われる古賀先輩も。

 顔の良さと口の上手さで人を操る伏見先輩も。

 情報通で明るいけど敵にはどこまでも残酷な浜田先輩も。

 手先が器用で鍵開けとパチンコが得意な滝川先輩も。

 お調子者で不良漫画に影響されてる単純な野登も。

 誰に対しても無愛想で皮肉げに笑う浜田弟も。

 憎しみと暴力衝動を全身に湛えている屋島も。

 本当は俺の同類であるはずの木場も。

 この場にいる人たちはみんなみんな、ユーヒさんの虜だった。

 そうだ。ユーヒさんを前にして惹かれないはずがない。好きにならないはずがない。だって完璧だろう。この不確かで禍々しく辛いことばかりの世界の中で、この人だけが確かだ。何もかもが儚く脆くいつ壊れるかなくなるかわからない、だけど失い傷つくことに怯えるばかりの俺たちと違ってユーヒさんは――ユーヒさんなら――……。

 見上げる目に煙が染みて涙が滲んだ。ユーヒさんの吐いた煙が自分の中に入ったなんて凄く光栄なことのように思えた。縋るような必死さで俺はユーヒさんを見つめ続けた。ふぅ、とまた白い息が吐かれる。そのとき、煙の薄い膜ごしに、ユーヒさんと目が合った。

「あ」

 喉から引き攣れたような声が漏れる。

 今までより更にくっきりとユーヒさんの姿が際立って見えた。底知れない濁った灰色の目。日本人離れした高い鼻。ぼさぼさの髪。しっかりした喉仏。長く大きい手足。肘までまくられた袖から伸びる腕は骨ばっているのに力強い。煙草の煙が特別な魔法のように彼の口から吐き出される。どくんと心臓が波打った。神。違う。悪魔。違う。怖い先輩。そうだけどそうじゃない、違う、違う違う違う、これは――この感情は。

 足が震える。頬が熱を持つ。鼓動が信じられないほど早く脈打つ。ユーヒさん。

 嘘だろ、こんなの初めてだ、これじゃまるで、そんな馬鹿な、ありえない……!

 冷静になれと叫ぶ理性とは裏腹に俺の頭は甘やかに痺れた。じわじわと毒が効いてくるかのように意識がぼやけていく。俺の心も体も、ちっとも思い通りに動かない。

 ユーヒさんは滅茶苦茶かっこよくてそれどころかいまや美しくさえ見えた。ほんの少し首を傾げる動作に堪らなくときめいた。あの灰色の目に俺を映して欲しくて、だけどいざ視線がこちらに向いたら恥ずかし過ぎて地面に埋まりたくなった。

 こんなのおかしいだろ。絶対におかしい。

 なんだ? どこで間違った? 何かがバグってる? なんで俺はこんなにユーヒさんに恋してるみたいな……。

 ――そうだ。恋だ。

 気づいた途端思考がショートする。


 むり。もうなにもかもむり。


 涙が浮かんで視界がぶれる。ユーヒさんの姿も歪んで見えづらくなったのに、それでも俺は高みにいる彼から目が離せなかった。永遠に見ていたかった。どうしても近くにいたかった。ユーヒさんを構成する全てに焦がれている。短くなった煙草を跳び箱の端に推しつける動作がかっこよすぎて、心臓がきゅうっと締めつけられた。

 ――こんなのって、ないだろう。

 俺は全身が絶望で覆われるのを感じた。瞼の奥に果てしない暗闇が見える。

「しにたい」

 無意識に呟いたその願いは、いつの間にか復活しユーヒさんに酒を勧める西山先輩のがなり声で掻き消された。

 うるさそうに西山先輩を押しやりまた地面に叩き落とすユーヒさん。その姿も、信じられないほどかっこよかった。

 ――ここは地獄。悪の巣窟。鬼と悪魔の集う場所。

 俺はやっと気づいた。もうとっくに俺はおかしくなってたんだって。今さら引き返すことなんかできないんだって。まともな人間は魔王に恋したりしないのだ。

 足の力が抜けて、がくんと床に崩れ落ちる。

「え? よっちん、なんだよさっきから、具合悪いん」

 振り返って心配そうに聞いてくる木場を無視して、俺はユーヒさんを凝視し続けた。あの人の存在だけが今の俺にとっての救いだった。ユーヒさんのためになんでもしたい。ユーヒさんに認められたい。ユーヒさんに構われたい。その結果どうなろうとも。

 くそ、今すぐ気絶しろ俺! 自分の思考に耐えられない。体中が熱くて頭が痛い。

「風邪ひいたかも」

 脳直で口に出すと、木場が「マジか! じゃあ今日はもう帰れよ、先輩には上手く言っとくから」と言ってくれた。優しい。

「ありがと、頼む」

 木場の助けを借りてよろよろと起き上がり、最後の理性を振り絞ってユーヒさんから視線を引きはがす。

 出口に向かおうとしたところで、伏見先輩が冷めた目で俺を観察していることに気づいた。さすがに無視できず、声が届く距離まで近づく。

「すません、体調悪いんで帰っていいですか」

「おー……」

 伏見先輩は俺を見下ろし、哀れむように笑った。

「いいよー、今回はね」

「っす」

 軽くお辞儀して、部室を出る。馬鹿にされたのはわかったけど、気にしてる余裕なんてなかった。

 校舎、は遠い。校庭の隅に植わっている大きな木のところまで重い足を引きずりつつ進む。体育倉庫からは見えない角度に回って、やっとほっと息をついた。その安心感と共に押し込めていた吐き気が蘇って、「ぅえっ」とえづく。そのままだばだばと昼に食べたものが全部木の根元に吐き出された。あ゛ー、きもちわるい……。

 喉が痛くてイガイガする。吐いたものは臭いし気持ち悪いのは治らないし寒気もしてきたし最悪だ。体育倉庫にいたときより状態が悪くなってるのはどういうことなんだ。――あぁ、あそこにはユーヒさんがいたからか。ユーヒさん見てたらそりゃ吐き気なんか感じなくなる――

「っおえええぇ……う、うぇ、はぁ、はぁ、はぁ……」

 また吐いた。もうそんな出るものもないのに。苦しくて涙が止まらない。顔も思考もぐっちゃぐちゃだ。しにたい。死にたい。いっそ殺してくれ。なんでこんな思いしなくちゃならないんだ。もうどうしたらいいのかわからない。どこまで耐えられる? いつ慣れる? ユーヒさん。助けて、ユーヒさん! あなたが直接こうしろって言ってくれたらきっと……。

 ぐずぐず泣きながら、水飲み場に移動して顔を洗う。冷たい水を浴びて、少し気持ちが落ち着いた。精神的に疲れたせいか倦怠感で体が重い。念入りに口をゆすいで、ゲロがかかってしまった上着を脱ぐ。とりあえず今日は帰ろう。あ、財布教室……まぁスマホあるからいーや。

 きっと考えなきゃいけないことは山ほどあるけど、今は頭の中を真っ白にしておきたかった。怖いものも気持ち悪いものも辛いものも苦しいものも全部脇に置いて、いったん楽になりたい。何も考えたくない。

 ――それでもずっと、抜け殻みたいなカヤ先生の裸と虚ろな目、暗闇の中高みから睥睨するユーヒさんの超然とした姿だけは、脳裏にこびりついて離れなかった。

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