第15話

 あれから四日たって、段々傷は癒えていってる。

 幸い骨は折れてなかった。左手首を捻挫してたけど、指部分がない手袋みたいなサポーターをつければいいってことで、あんまり目立たなそうで助かった。

 あとは体のあちこちに青あざと傷ができてて、顔も殴られたところが腫れてたけど、ずっと冷やしてたらちょっとましになった。こういうのは早めの対応が大事で、大丈夫そうだと油断してほっとくともっと酷い見た目になるらしい。

 できるだけ誤魔化したいって言ったら、薬と保冷剤と一緒に、コンシーラーとクレンジングオイルをもらった。これで色味は隠せるって。確かにちょっと見には気づかれないと思う。女の人ってこんなの使ってるんだ。便利だなぁ。

 困ったのは、舌を盛大に噛んだときの傷が深くて、食べるときめちゃくちゃ痛いってこと。顎骨折しなくて運が良かったって言われたけど。

 医者は淡々とした中年の女性で、クリニックの裏口から訪れた見るからに訳ありで未成年の俺たちの事情を一言も聞かず、必要な処置だけして帰してくれた。無免許医とかの怪しげな人じゃなくてちゃんと経営してそうなのに、いったいどこからユーヒさんと繋がったんだろうか。相変わらずあの人の人脈は謎だ。

 浜田先輩は、西山先輩から負けたことを馬鹿にされてたけど、なぜか俺は何も言われない。やっぱり最初から戦力外って思われてるみたいだ。嬉しいような怖いような複雑な気持ちだ。マジで俺ってなんの役目なんだろ。

 机に頬杖をついて微睡みながら、なんとなく浮かんでくる不安を持て余す。木漏れ日が降り注ぐ昼の教室で、平和でぽやっとした顔の同級生たちに囲まれてると、この世に酷いことなんて何も起こるわけないような気もしてくる。

「えっと、つまりこのときxは、あっ、違う、yは――」

 教育実習生のカヤ先生のたどたどしい授業を、みんな見守るような気持ちで受けている。正直内容はあんまり入ってこない。俺たちが教わってるっていうよりカヤ先生の訓練のための授業だ。

 まぁしょうがない、まだ正式な先生じゃないんだし。それにそんな重要なところを任されてるわけでもなさそうだから、ちょっとぐらい聞き取りづらくても問題ないだろ。

 あくびを噛み殺しつつ、授業が終わるのを待つ。いつもは真面目に背筋を伸ばして黒板に向かう優等生の藤井も、さすがに今は眠そうに目を擦っていた。相沢はカヤ先生を凝視してるけど、あれは授業を聴いてるんじゃなくてカヤ先生に見とれてるだけだな。

 カヤ先生、本名賀屋実和子さんは、大学生の綺麗なお姉さんだ。凄い美人ってわけじゃないけど、普通にお洒落で普通に可愛い。そんな人が慣れない授業でわたわた頑張っているのを見ると、ちょっとぐらい失敗しても責める気になれない。

 ただ本人はやっぱりうまくできていないのを自覚してるみたいで、授業終了の鐘が鳴るとがっくりと肩を落としていた。

「ごめんなさい、緊張しちゃって」

 思わずといったように謝るカヤ先生に、前の席の女子たちが「大丈夫だよー」と慰めの言葉をかける。

「カヤ先生頑張ってうちの学校来てね!」

「ありがとう小宮さん。頑張る!」

 カヤ先生は嬉しそうに笑い、教材を抱きしめるようにかかえて教室を出て行った。

 カヤ先生がうちの学校に教育実習にきて、もう一週間だ。同性で話しやすいのか、積極的な数人の女子たちと仲良くなったようで、「大学を卒業したらこの地区の教員採用試験を受ける」と約束しているのを聞いた。

 正直あんまりお勧めはしないけど、カヤ先生が来る頃にはユーヒさん卒業してるだろうし、まぁ大丈夫か。残る二年の先輩たちはよくいる不良だから、ちょっと手を焼くぐらいで致命的な事態にはならないはず。

 四時間目が終わったからみんな一斉に動き出して、昼食の準備に入る。当たり前のように俺にはなんの係も割り振られない。班ごとに給食当番が回っていくのに、俺の班になると誰か助っ人が呼ばれていつのまにか俺がなにもしなくていいような状況になっている。

 俺普通に手伝うよ、と言ったら、「かっ、神内くんに手伝ってもらうなんて申し訳ないから! 気を遣わなくていいって!」と怯えた顔で言われた。怖がられているのは俺じゃなくてユーヒさんなんだとわかってはいても、結構傷つく。

 ちなみに木場はもうちょっとクラスに馴染んでいるらしい。なんなんだあいつのコミュ力の高さは。お調子者属性は不良というマイナスポイントをもカバーするのか。

 いつものように誰とも喋らず黙々と食べて黙々と歯を磨き、昼休みを迎える。本来ならここで掃除をする作業があるんだけど、これもやっぱりハブられてるので俺だけ休み時間が多い。まぁ先輩に呼ばれたりしたら授業サボってでも行くから『休み時間』のありがたみはそんなないんだけどな。中学に入ってから、遅刻も早退も途中参加も途中離脱も怒られたことがない。なんかなぁ……。

 机を教室の後ろに押しやってせっせと床を掃いてるクラスメイトの邪魔にならないように、スマホだけ持って教室を出る。数歩歩いたところで、木場が向こうからやってくるのが見えた。

「あ、よっちん! ちょうどよかった、行こうぜ」

 突然話しかけてきた木場に、俺は面食らって聞き返す。

「え? どこに?」

「いや、まぁ……」

 なんだか歯切れの悪い話し方だ。

「なんだよ」

「……先輩に聞いてんだろ。囲いだよ」

 言いながら、木場はきまり悪げにふいと顔をそらした。

「お前も来いって」

「だから、なに――あ、」

 気づいた。伏見先輩が言ってたアレか。ついに来たのか。

 考えないようにしてきたことを突き付けられて、ずんと気持ちが重くなる。何させられんだろ。ろくなことじゃないってことだけはわかる。「輪になって的を囲う」だっけ? 的は誰だ。囲ってどうするんだ。いじめか、脅迫か。山内襲撃レベルならまだ勢いで参加できるけど、わざわざ伏見先輩が言ってきたってことはきっともっとヤバい。

「木場はやったことあんの」

「ある」

 木場は俺を見ないまま言った。

「慣れるよ、すぐ」

 つまり、最初は衝撃を受けるようなものだってことだ。

 どうにかして逃げる方法ないかな、と思いながらおとなしく木場のあとについていく。嫌な予感がしながらも何の対策もしてこなかったつけが回ってきている。でもあの先輩たち相手に何ができるっていうんだ? 値踏みするように笑う伏見先輩の顔を思い浮かべるだけで足が竦んでしまう。嫌だ、考えたくない。逃げたい。にげたい!

「そーいえばお前聞いた? ご当地アイドルいんじゃん、ミヤビプリンセスっていう。そのセンターの子浜田先輩の彼女になったって」

 無言に耐えられなかったのか、木場が突然明るい調子で喋り出した。

「そーなんだ」

 名前だけは聞いたことあるような気がする。

「結構可愛いよ。浜田先輩自慢したいらしくてさ、だからお前ちょっとミヤプリのこと調べとけよ。『あのミヤプリですか!?』とか驚いたら喜ぶから」

「へー。ありがと、調べるわ」

 すぐにスマホで検索をかける。ミヤビプリンセス。これか。あー、ほんとに普通に可愛い。法被っぽい衣装を着た七人組グループで、そのうち二人はちょっと微妙だけどセンターの子は間違いなく可愛かった。セカンドシングルはオリコン一位、五万枚の売り上げ。一位は凄いな。売れてるのか? 音楽は動画サイトで見るかサブスクで聴くかしかしないからCDの枚数の価値がわからない。まぁ、「オリコン一位とったグループでしたよね!」でいいか。

 昇降口で靴を履き替え、外に出る。でも木場が向かう先は部室じゃないっぽい。こっちにあるのは――体育倉庫?

「なぁ、何すんのかもう教えてくれよ」

 スマホをズボンのポケットにしまって聞くと、木場は、少し困ったようにへらっと笑った。

「すぐわかるって」

 体育倉庫につくなり、木場がドンドンと厚めのドアを叩いて大声で言う。

「うす! 木場と神内です!」

「おー、入れ!」

 中は薄暗く、埃っぽかった。小窓は黒い幕で塞がれて外が見えない。天井から下がった豆電球のぼんやりした灯りに照らされ、マットや跳び箱などの体育用具の上で好き勝手にくつろいでいる先輩たちの姿が浮かび上がる。こんなに人数が集まってることは珍しい。見覚えがない人もいる。十二、三人?

「来たかぁ。お前らで最後だぞ」

 悠々とマットの上で胡坐をかいていた西山先輩が振り返り、にやりと笑った。

「今回はユーヒさん直々に釣ってきてくれるってよ。つまり伏見がやるときと違ってめんどくせぇことは言われねぇってことだ。お前らまで回る前にくたばっちまうかもしんねぇけど、またチャンス来るから気にすんなよ」

 釣る? 何を? まさか魚ってことはないだろう。それだけのために集められるはずがない。

 じわじわと不安が押し寄せてくる。あのとき伏見先輩はなんて言ってたっけ? 「ゲームみたいなもんだよ」「うまくいけばお前も童貞卒業できるし」……つまり、ここに連れてこられるのは――。

 ぎぃ、と木が軋む音がして扉が開いた。外の光と共に目を見開いたカヤ先生が入ってくる。その真後ろにいたユーヒさんは後ろ手で素早く扉を閉め、俺たちに向かって顎をしゃくった。俺以外のみんなは素早く動いて、ユーヒさんの方に向かって半円の形に並ぶ。ユーヒさんはその中央に、乱暴な手つきでカヤ先生を放り投げた。

 そして――最悪の『ゲーム』が始まった。

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