神様からの依頼がない時は見回りがてら、施設を回って歩くことが多い。

 何も言わなくても、詩季が部屋を出るとソラはついてくる。ソラは見回りというよりは、ただ詩季について歩いているだけで、視線は決して詩季から外れず、後ろを歩く。


 ここは審判をする場、待つ場とはいえ、ごく普通の生活が出来るような空間になっている。

 それぞれの部屋があり、散歩出来るような自然もあり、図書室等もある。時間の概念はあってないようなものだが、食事や睡眠もしようと思えば出来る。ここにいる誰もにとって、それは必要のないものではあるけれど。

 神様に仕えている天使は本来、滅多に姿を現さない。だからこうして歩き回って見かけるのは審判を待つ魂か、あるいは審判をする魂だ。魂と言っても現世で生きた頃の姿を写しているから、見た目には普通の人間と変わらない。

 審判を待つ魂はともかく、審判をする魂は、ここに長くいるものがほとんどだ。当然、監視し、裏切り者を粛清する存在については知っている。

 だからこの見回りの時間は、その多くは不愉快な視線に晒される。恐怖であり、畏怖であり、あるいは侮蔑かもしれない。そのあたりは詩季にもわからない。居心地が良い空間ではない、ということは確かだが。

 けれどこうして目に見えるように歩き回ることは、抑止に繋がることだ。別に自分がどう思われようと、詩季にとってはどうでもいいことだった。


 大体の時は、何もない。そうであることが多い。何せここは神様の管理下で、たかが人間が手出しするような域ではない。

 何もなければそれで良い。

 詩季だって好んで裏切り者を始末しているわけではないし、皆審判を受けて生まれ変わっていけば良いと考えている。それは、正しいことだ。


「シキ」

 ソラが口を開く。振り向くと、その視線は図書室に向かっていた。

 普段滅多に言葉を発さないソラがこのように反応する時は、良くない時だ。恐らく図書室で何かしら、不穏な事態が起こっているのだろう。

 気配を殺し、身を隠して図書室に近付く。


「…………でも、……」

「……一緒に…………」

「…………」


 図書室の奥、離れた場所だ。そこからくぐもった男女の声が聞こえる。

 明らかに、やましいので小声で隠れて話しています、といった感じだ。

 しばらく二人は話を続け、そしてまわりをきょろきょろと見ながら、随分警戒して図書室から出て行った。その姿を確かめる。


「……ソラ」

 二人がどこかへと行ったあと、黙ったまま待機していたソラの名前を呼ぶ。

「うれしい。でも、そんなことをしたらりょうくんが。平気だ、一緒に逃げよう。みのりさんはこんなところで死んでいい人じゃない。でも。まだ現世のみのりさんの体は生きているはず。魂さえそこに戻れば死なずにすむから」

「……なるほど」

 ソラの棒読みの言葉は、先ほど二人が話していた内容だ。詩季には聞き取れなくても、ソラには出来る。

 詩季の記憶が確かならば、男の方はここで五年ほど前から審判員をしている魂だ。名前は確か、板切稜。これまでいくつも審判員として仕事をしているが、特に問題なく判断していたように思う。女の方は記憶に新しい、一昨日ここにやってきた審判待ちの魂だ。みのりと呼ばれていた。

 図書室には様々な記録がある。魂の情報すべてが本という形で書かれているものだ。審判員等は一部しか読めないが、神様から権限を貰っている詩季は、すべての本を読み、情報を得ることが出来る。

 板切稜とみのりのことを調べると、案の定生前関わりがあった。

「板切稜と鈴村みのりは、幼馴染か。みのりの方が四歳年上だが、板切稜の方が先に病死している。……で、一昨日死んだ鈴村みのりとここで再会、か」


 確かに、鈴村みのりの現世にある体は、審判を終えていないからまだ生きてはいる。意識不明の重体、という状態で病院のベッドの上だ。

 けれどここで審判を待っている以上、魂が体から離れている以上、死は確定している。

 ぱたん、と本を閉じて戻す。

 どんな関係があろうと、神様が決めたことを覆すことは罪だ。

 それにここを逃げ出すことなんて、本当に出来ると思っているのか。どこが入口でどこが出口かもわからないくせに。ここがどんな場所なのか、どんな世界なのかも理解出来てはいないくせに。

「……愚かなことだ」

 詩季が吐き出した声は、冷たく重い声だった。




 ✳︎




 息を切らして、走っている。必死に手を引いて。こんな感覚は久しい。自分の感情もほとんど消えたものだと思っていたのに。

 そう考えながら、稜は走っていた。建物から離れ、外へ出て、遠くへ。この世界の端へ。久しぶりに会った幼馴染を死なせない為に。

 稜にとってのみのりは幼馴染でもあり、唯一の友達でもあった。

 病気で学校にもほとんど行けなかった稜のところに、みのりは毎日のようにお見舞いに来てくれた。外を走り回って遊ぶことも出来ない稜のところへ。そして笑顔で、たくさんの外の世界の話をしてくれた。その日、学校であったこと。家族のこと。近所の野良猫のこと。たくさん、たくさん。

 治療も虚しく稜は助からなかったが、長いこと患った病気だったし覚悟を決める時間も、別れを惜しむ時間もあった。短い人生に悔いはないとは言い切れなくても、死んでしまったことに関しては仕方ないと受け入れている。

 けれど、みのりは違う。

 みのりの死は突然だった。わけもわからないままこの世界へ訪れて、死んだ自覚もないのに死んだと言われて。呆然としている幼馴染との再会は、偶然のものだったけれど。

 通り魔に刺されての失血死。図書室にあるみのりの人生を綴った本には、そう書いてあった。

 けれどみのりの体はまだ、呼吸を続けている。心臓も動いている。現世で眠り続けている。魂の行き先を決める審判が終わるまで。

 だから魂さえ、戻ることが出来れば。


 ——そう思うことは、そんなにも、悪だっただろうか。




 ✳︎




「あなたの審判はまだ終わっていませんよ、鈴村みのりさん」

 まるで死神のように、冷たい声。

「あ……」

 詩季と、ソラだ。どちらも無表情のまま、ゆらりと立っている。それはまるで絶望が形をなして、目の前に降り立ったようだった。

 みのりの足は恐怖で竦み、立ち止まってしまう。稜から聞いていたから。こんな風に逃げ出そうとした魂を粛清する存在がいることを。具体的にどういったことをしていてどれほど強いのか言葉では理解しがたくても、こうして対面してしまえば本能がはっきりと反応してしまう。

 決して逃げられない、と。

「……弁明はありますか?」

 はっとして、咄嗟に、稜はみのりの前に立つ。もうすべて、知られている。その突きつけられた事実に震えていた。それでも助けたかった幼馴染を、せめて守ろうとして動いたのだ。

「まあ、話すだけで実行しなければ、監視だけで済んだのですが。結構本気で走って逃げていましたよね。……残念です」

 そう淡々と話す詩季に呼応するように、ソラもまた淡々と武器を手に取る。小さな子供の手に握られた双剣。今は鈍く光るだけのその銀色の刃は、多くの魂を血で染めて切り裂いてきている。

 じり、とソラが少しずつ二人に近付くたび、恐怖に震えた。

「み、みのりさんだけでも、見逃してくれ!」

「りょうくん……!」

「俺が唆した。みのりさんはまだ死んでないからって、でもみのりさんはまだ生きてるし、家族が……」

「それと規則を破ることに、何の関係がありますか?」

 稜の感情に任せた言葉は、詩季の冷えた一言で一蹴される。

 ほんの僅かもその訴えは届いていない。そうはっきりとわかる、変わらない表情で。

「可哀想に。大人しく審判を待てば、生まれ変わるまでの間天国で穏やかに過ごせたかもしれないのに。神様を裏切ったから、あなたは切り刻まれて、地獄で反省の日々を過ごすことになる」

 ひっとみのりが息を飲んだ。可哀想に、なんて、微塵も思っていないとすぐにわかる、その声音に。

 刹那、ソラが間合いを一気に詰める。

 手前に稜がいたが、関係はない。戦闘経験のない一般人は動かない壁と変わらない。素早く避けて、後ろからソラはみのりを双剣で切りつけた。

 深い傷だ。飛び散った鮮血は魂の痛み。それは、尋常ではない、痛みだ。

「みのりさん!」

 ぼたぼたと、血が流れていく。止まることなく、みのりの体から。声も出せないまま、みのりの瞳から光が消えていく。

「どう、して……」

 もうみのりに、稜の声は聞こえない。みのりの名前を何度呼んでも、りょうくん、と呼び返してくれる声はない。

 この世の終わりのような絶望を浮かべた表情のまま、動かなくなった。もうしばらくすれば、いばらが回収に来るだろう。

 稜は何度もみのりの名を呼び、抱き締めたが、最早どうしようもない。傷付き動かなくなった魂は、審判さえ受けられない。地獄へと運ばれたあと、更なる痛みと苦しみを受けて、真っさらな魂へと強制的に戻される。生前どれほどの善行を積んでいても、実質、地獄行きだ。神様の決めたルールに逆らうことはそれほどまでに重い罪なのだ。

「なんで……こんなこと」

「なんで?当然でしょう。鈴村みのりの死は既に決まったもの。それを変えることは出来ません」

 みのりを抱き締めたまま動かなくなった稜に、ソラは双剣を向ける。

「血が、こんなに……どうして、……動かない……」

 稜はどうにかみのりの出血を止めようとするが、そんなことは出来るはずもない。

 詩季はその様子を、冷えた目で眺める。みのりを深く切りつけたソラは、詩季の指示もなく、また稜に逃走の様子がないために、一度停止して詩季の指示を待っている。

「魂から流れるその血は、記憶です。あなたのせいで、鈴村みのりの魂は死を迎えた」

 絶望感に打ちひしがれたような声で呟く稜に、詩季はあくまでも揺るがず冷酷に答えた。これが当たり前のことだから、何でもないことのように。

「き、おく……?」

「そう。鈴村みのりであったことを、すべて忘れる。そして地獄で罰を受けた後、またいつか、生まれ変わるようになります。まっさらな魂になって」

 魂とは、積み重ねだ。

 例え前世のことを覚えていなくても、刻まれ、積み重なっている。

 けれどこうして魂自体が死を迎えれば、それは途切れる。鈴村みのりであったことも、その前も、その前も、何もかもが消えてなくなる。

 いつか生まれ変わって、例えば稜に会ったとしても、何も感じることはないだろう。そもそも縁が切れた魂同士、時間も場所も近くに生まれること自体、もうない。

 苦しんで、苦しんで、苦しんで消え失せる。

 これが神様に逆らう、ということだ。

 詩季が稜に懇切丁寧に説明する。とはいえ、稜の魂もこれから死ぬのだから、いつかまた自我が生まれたところで、このことはまったく覚えてはいないけれど。

「……おまえ、お前だってもとは人間だったくせに!なんで平気で殺せるんだ!!そんな人形……っっ!」

 叫ぶような稜の言葉も、すぐに途切れる。稜の強い敵意に即座に反応して、ソラの双剣が稜を殺したから。

 救えなかった、逆に苦しめることになった幼馴染を抱き締めたまま死んだ稜もまたそのうち、いばらに回収されることだろう。

 今際の際の言葉が詩季にじわじわと刺さる。詩季の出自を知るものは多くはないが、隠してもいない。もとが人間であることは特に、公然の事実だ。別にだから、どうということはない。今神様のもとで仕事をしている。役に立っている。それが最も大事なことだ。

 そんな人形に頼りきった、無力な人間のくせに。……とでも、言いたかったのだろう。

 詩季もソラも侮辱する言葉だ。けれど詩季に関しては正しい。詩季には力もない。体力も機動力もない。ただ少し手先が器用で、ただ少し思慮深いだけ。頭の出来だって良い方ではない、と自覚している。

 ソラがいなければ何も出来ない、ただ活動している時間が長いというだけの、無力なただの人間だ。ぼんやりと、昔のことを思い出す。……昔から変わらない、無力なただの人間だ。



「……」

 血に濡れたソラが、詩季のすぐ側まで来る。じ、と感情のまったく見えない表情で、変わらず詩季を見つめている。

「……感情論は嫌いだ」

 けれど撫でる手はいつまでも訪れず、詩季からはぽつりと消え入るような声でそう聞こえた。

「どうせ、誰も助けてくれないくせに」

 詩季の言葉の意味は、ソラにはよくわからない。理解することが出来ない。

 どこか、いつもと違う声や言葉に思えても、それだけだ。それが何故か、どうしてかは、考えられないし理解出来ない。


 (おれは、シキの人形だから)










「お前、なかなか見込みありそうだからな。やることがないのなら、天使を作ってくれ。もう何十年も新しいやつ、作ってないしな」

 そんな神様の気まぐれな言葉で、何者でもなかった詩季は人形作りをはじめた。

 人形なんて作ったことはない。作り方もわからない。手探りで。けれど有り余る膨大な時間があったから、こつこつと無心になってそれを作った。

 その空っぽの人形に、神様が天使としての命を吹き込んだのだ。

 人間とは違う、擬似生命。

 老いることのない体に、プログラムに沿って思考し行動する機械のような心。


 ソラと名付けた子供型の天使は、欠陥品だった。

 感情の表現力が欠けていて、何もかもに疎い。運動神経だけはやたら良かったけれど。後続の人形には、きちんと感情表現力はあったのに。

 ソラが詩季の処女作だから欠陥が生まれたのか、それ以外の要因があったのかは、詩季にはわからない。

 後続の人形が時間経過とともにどんどん柔らかな表情を身につけて人と変わらない見た目になっていくのに対し、何年、何十年経っても、ソラは変わらなかった。どこをチェックしても異常はない。それでもいつまで経ってもソラは感情に乏しい。自己がきちんとあるのかもわからない状態のままだった。


 詩季にとってそれはまるで、自分を見ているようだった。

 欠けていて、歪で、不完全。

 けれど何故かその人形は、ソラは、詩季から離れようとしなかった。

 表情は変わらないくせに、どこへ行こうにも詩季について歩く。まるで親鳥についていく雛のように。




 ✳︎




「おーい、ソラ」

 いつだったか、詩季がいない時に神様がソラのところへ来た時があった。

 じっと観察され、にやにやと笑われ、ソラは表情こそ変わらないものの、詩季ところへ行きたいとぼんやり思った。

「うん。やっぱりお前、わざとだな」

「……」

「うーん。まあ、いいか。欠陥品の方が、詩季の側に居やすいのは確かだし」

「……」

「ほんとだんまりだなあ。そんなとこまで、ご主人に似なくていいんだぞ」

「……」

 ソラは別に、神様のことが嫌なわけではない。本来なら神様のところに仕えるのに、詩季のところにいていいと、許されているから。

「難儀なものだな。詩季もせめて、自分の行いが正義だとでも思い込めれば良かったものを」

 その言葉の意味をソラは理解することが出来ない。考えよう、とすることにさえ思考が到らない。人のような形をしていても所詮、中身は泥が詰まったような出来損ないの人形なのだから。

 けれどソラにとっては、詩季のいるところがいるべき場所で、帰る場所だ。それだけは確かで、同時に、それしかない、とも言える。ただ、一つだけ。

 何故、詩季の側がいいのか。それがまだ、当人にはわからなくても。





 ✳︎




「シキ」

 名前を呼ぶ。報酬の催促だ。

 ソラの抑揚のない声に詩季ははっとする。いつの間にか、二人分の死体は回収されていた。

「ソラ」

 じ、と見つめる小さな血に濡れた子供。

 そうだ、と思い出して手を伸ばす。柔らかな髪に触れ、手を動かし、頭を撫でる。

 しばらくそうするうち、詩季の心も落ち着いてきた。叫ばれた言葉を咀嚼し、噛み砕いて粉々にするには、十分な時間だった。

「……帰ろう。神様への報告、……いや、その前に水浴びだ」

 距離が近かったから、詩季もまた返り血を浴びている。頭を撫でる手を離すと、ソラはこくりと頷いて、双剣をしまうと小さな手で詩季の服の裾を掴んだ。珍しい行動だな、と詩季は思う。

「……ちゃんと服を脱いで、今日は洗いましょうね。いつも部屋がビシャビシャになるから」

 次第に、普段の詩季の雰囲気に戻っていく。

「ぜんしょする」

「……ソラ。どこで覚えてきたんですか?それ」

 ていよく断るやつですよね、と詩季は苦笑いする。少なくとも詩季は教えたり、ソラの前で使ったことはないのだけれど。


 わかったことは、どうやらソラは服ごと水浴びをしたい派らしいということだ。

 詩季は何とか脱がせて別々に洗おうとしたけれど、体の大きさは違ってもソラの方が力も強いし素早い。結果、詩季も服のまま泉に浸かることになった。二人揃ってずぶ濡れである。

 そしてそれを報告で聞いた神様は大爆笑だった。








 美しい、景色だ。

 この世のものとは思えない。事実、現世ではないはざまの場所。

「ソラ。神様からの依頼です。怪しいものがいると」

 こくり、とソラは頷き、詩季の後を追う。

 詩季も、ソラも、この美しい空や雲を別段何も思わない。裏切りの血で染まることを、詩季は僅かに不愉快に思っても。


 裏切り者の粛清は相変わらずだ。どうしたって、出てくるのだ。感情に流される審判員も、なんとしてでも生きようとする魂も。どうやったってもう、死は確定なのに。

「……ソラには、あの人たちはどう見えているんですか?」

 ふと、聞いてみた。相変わらず、ソラの表情は変わらない。

「まあ、答えはない……ですよね」

 一人、納得したように詩季は呟く。ちらりとソラに視線を流したのち、すぐに前を向いて歩き出す。

 常に一定の距離のまま詩季のあとをついて歩いていたソラは、僅か、足を止める。


「……シキか、それ以外か。おれには、それしかない」

 変わらない表情のまま静かに吐き出された言葉は、誰に届くこともないまま、美しい空に淡く溶けて消えた。

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空と人形 怪人X @aoisora_mizunoiro

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