第245話 わたしを導くヒカリ

 令和七年二月十四日。浦河町の牧場。

 極寒のバレンタインデーの朝。一頭の鹿毛牝馬が、母の揺籠から寝藁の上に産まれ落ちた。お産自体は安産であったが、とびきり安産という訳でもなく、かといって人間が手を貸すほどの難産でもない。どんなお産も緊張感があるものではあるが、少なくとも牧場スタッフの記憶に強く印象づくほどの壮絶な出産ではなかった。

 言ってしまえば、特筆するようなことのない普通のお産である。


 生まれた牝馬の名はファイングレイスの2025。

 額と鼻にハート型に見える白斑があることからハートと名付けられた彼女の馬生は、生まれと同様に平々凡々としたものだった。


『そうそう、ゆっくり歩くのよ?』


 母ファイングレイスは十二歳。すでに四頭の兄姉を競争の世界に送り出している経験豊富な母親だ。唯一勝ち上がった初仔の牝馬——ハートの姉——は、現在同じ牧場で繁殖牝馬の仕事に就いている。

 そんな母の教えに、ハートは従ったり無視したりした。まだ幼く意味も分からなかったからだ。もちろんハートを教える母も、仔馬が言って聞くような存在じゃないことは理解している。


『さあ、お乳は飲めるかな? あ、後ろに立っちゃダメよ』


 母が言っても、ハートは聞いたり聞かなかったりする。そっぽを向いたと思えば素直にお乳を吸いにくる。後ろに立たないよう蹴り上げても、一度や二度じゃ聞かない。何度となく後ろに立つたびに蹴り上げていると、ようやくハートも覚えるという具合だ。

 ハートは物覚えが悪い訳ではなく、かといっていい訳でもない。


『元気ではあるみたいね』


 乳の吸い具合や脚使い、体捌きは次第に強く大きく、ハートは元気に育つ。

 もちろんケガなく病気なくとはいかず、足を痛めたり疝痛に悩まされることもある。母も牧場スタッフも気を揉んでは元気に飛び回る姿を見て安心し、再び病に倒れてはまた復調するという具合だ。

 ハートは特別健康という訳でもなく、かといって常に病に悩まされるほど病弱でもない。

 母ファイングレイスも、これまで四頭送り出した兄姉たちとハートを比べて思う。


『なんだか楽でもなく、大変でもない仔……』


 極めて平々凡々とした馬生を母の元で過ごしたハートは、いよいよ初めて牧場から長旅に出る。寂しがって牧場スタッフの許を離れたがらないような様子を見せつつも、ダダをこねるようなことはなく素直に母と馬運車に乗り込んでいく。

 向かう先は、苫小牧近くのコンサイナー専門の牧場だ。


「えー、次はファイングレイスの2025。毛並みは……まあこんなもんか。栄養状態も、うん……まあ普通。内臓に悪いところはなさそう。馬体は……うん……。足周りからして芝向きなのはまあわかる。が、なんだろうな……」


 運ばれてきたハートをつぶさに確認しながら、コンサイナーとそのアシスタントは手元のカルテにいろいろと情報を書き込んでいた。内容は「所見なし」「特になし」が並ぶばかり、5段階中の評価もほぼすべて3である。


「健康ではあることが救いですね」

「まあなあ。なんにせよ当歳だし、これからどうなるか分からんのは事実。やれることをやるだけではあるか……」


 コンサイナーとは、主にセレクトセールなどのオークションで、少しでもオーナー達の目に留まるように馬の見栄えを良くしたり状態を整える専門家のことだ。毛並みを整えるためのシャンプーやブラッシングは当然として、毛艶や筋肉の張りを少しでも目立たせるように飼料を工夫したり運動をさせたりと、外からも内からも馬の万全の状態を引き出すのが仕事である。いわば競走馬のエスティシャンだ。

 そんなコンサイナーすらも、ハートには「平凡」の太鼓判を押す。


 牧場スタッフも、母も、コンサイナーも。

 そしてハートの馬体にナンバープレートを取り付けるセレクトセールのスタッフも、程度の差こそあれ彼女のことをこう評価していた。


 キラリと光るものがない、平々凡々とした馬。

 それがファイングレイスの2025。ハート。

 そんな彼女は今日これから初めて、大勢の人間の前に出る。


『緊張しなくてもいいのよ。お姉ちゃんやお兄ちゃんもやったことだから』


 ハートは一緒に馬運車に乗ってきた母ファイングレイスとともに、舞台袖から光差すすり鉢状のステージを見つめていた。

 今は別の馬が二頭、スポットライトを浴びている。緊張しているのか、母子は落ち着きなく引綱を持つ人間を振り回していて。特に母馬の方が『早く帰りたい』とゴネている。

 それだけ見て、ハートは覚えたての言葉をつぶやく。


『……あそこは、どこ? いつもの家じゃないの?』


 聴き耳を立てると、ざわめく人間達の声がした。育った牧場よりも明らかに人間が多い。


『ええ、いつもとは違う特別な場所。みんなここへ来て、遠くへ旅立っていくの』


 母ファイングレイスは優しく、ハートに告げた。

 この先は非日常の世界だ。これまで文字通り牧歌的に暮らしていた牧場とはまるで違い、競争の世界に生きることになる。無事に帰ってこれるかは分からない。帰ってきたとしても、同じ牧場に帰ることはない。


『ママとも会えなくなる?』


 ハートが尋ねると、母は返事がわりに体を寄せてきた。


『会えなくてもあなたは大丈夫。人間が必ず、あなたの世話をしてくれるから』

『ママもそうだった?』

『そうよ。牧場の人々みたいな、いい人間に巡り会えたらいいわね』

『どうやっていい人間に会うの?』


 尋ねたが、答えることもなく母はまばゆい光の中に吸い込まれていく。スーツ姿の人間が引綱を引いているのだ。ハートもそれについで綱を引かれ、光と音と視線にあふれたすり鉢状の場所——セレクトセールのお立ち台の上に姿を現す。


『ねえ、ママ。いい人間はどうやって分かるの……?』

『それはママにも分からないわ。きっと人間も、いい馬を見分ける方法なんて分からない。そもそもって何かしらね』

『……難しい』


 母娘を取り囲む人々が、手を声を上げる。そのたびに会場には拡声された人間の声が響き渡る。


『いい人間を見つけ出して。それがあなたを導く光になるから』


 セレクトセール二日目、当歳馬。

 上場番号374番 ファイングレイスの2025

 父は《サトノクラウン》 母父は《キングカメハメハ》

 入札開始価格、1500万円から。


『ひかり……?』


 ハートは場内を見渡し、母に身を寄せた。

 大きな音と光のうねりの中は、寄りかかるものが何もない泥沼のように恐ろしい。それに光はあふれていても、母が言うような、生き様を導いてくれるような光はどこにも見えなかった。


 そんな折だ。

 会場の遠くから、まるで無邪気な子どものように駆け寄ってくる人間がいた。

 そして柵に顔を埋めて、ハートを見つめてくる。


「……聞こえる?」

『ええ……?』


 ——人間が喋った!?


 〜〜〜

 追記

 ファイングレイスの2025こと『ハート』の登録馬名を募集いたします。特に商品などございませんが、ご興味おありでしたらふるってご参加くださいませ。

 血統的には作中にもあります通り

 父:サトノクラウン 母:ファイングレイス(架空馬)です。

 なおファイングレイスの母は、デインヒル産駒のアイルランド馬がモデルです。

 史実では初年度にキングカメハメハを配合したものの未受胎。その後の診断で染色体異常のため繁殖ができないことが判明したものの、現在も功労馬として繋養されております。ジャパンカップ馬の兄がいる…とまで言われればもうお分かりですよね。ちょっとした歴史のifをお楽しみいただければと思います。

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